9話 畑を踏むな
柵の向こうで、葉が揺れた。
風ではない。
人がいる。
たぶん、人間だ。
そう思った瞬間、さっきまで畑を撫でていた空気が変わった。
リューネの指が杖に食い込む。ガルムさんは鉈を手に取った。畑の奥で土を起こしていた甲殻の魔物が、低く喉を鳴らす。
俺の手も、短剣の柄に触れていた。
触れただけだ。
抜いたところで、たぶん何もできない。
「出てこい」
ガルムさんの声は低かった。
さっきまで、作物の出来を語っていた農家の親父の声ではない。
「畑に隠れるな。踏むなら、せめて顔を見せてから踏め」
柵の向こうで、葉がもう一度揺れた。
逃げる音ではない。
迷っている音だった。
リューネが俺の前に半歩出る。杖の先がわずかに上がっていた。怖がっている。けれど、下がらない。
ガルムさんは畝を踏まないように、ゆっくり柵の方へ歩いていく。
その歩き方で、少し変なことに気づいた。
この人は、敵の前でも畑を踏まない。
そこまで徹底しているのか。
いや、そういうものなのかもしれない。
ここは、この人の畑なのだから。
「出てこないなら、こっちから行くぞ。言っておくが、逃げるなら道を走れ。畝を潰したら、捕まえる前に怒鳴る」
柵の向こうから、若い男が転がるように出てきた。
人間だった。
年は俺より少し下か、同じくらい。革鎧に短い剣。背中には小さな荷袋。服は枝で裂け、顔は土と汗で汚れている。
王国兵というより、雇われの斥候か、下級冒険者だろう。
男は、ガルムさんを見るなり顔を引きつらせた。
次にリューネを見る。
赤紫の目と角を見て、さらに怯えた。
最後に俺を見て、目を見開く。
「に、人間……?」
その声が、妙に懐かしかった。
王都の酒場で聞く声。
街道で聞く声。
魔族領の奥で聞くと、ひどく場違いだった。
「そうだ。俺も人間だ」
「だったら助けてくれ! 魔族に捕まったら食われるって聞いてる。角を生やされるとか、呪いを入れられるとか、仲間はみんなそう言ってた。俺は命令で見に来ただけなんだ。戦う気はない」
男は一息で言った。
自分が何を踏んでいるかも気づいていない。
畝の端に、片足が入っていた。
ガルムさんの目が細くなる。
「まず足をどけろ」
「ひっ……!」
男は肩を跳ねさせた。
魔族に殺されると思った顔だった。
だが、ガルムさんの目は男の首ではなく、足元を見ている。
「聞こえなかったか。そこを踏むな。若芽がある」
男は意味が分からないという顔をした。
それでも、ガルムさんの声に押されて足を引く。
畝の端が少し崩れていた。
ガルムさんは舌打ちし、鉈を下ろしてしゃがむ。手で土を寄せ、潰れた場所を直し始めた。
捕まえた人間より先に、畑だった。
男はその光景を、理解できないものを見る目で見ている。
リューネも、少しだけ息を吐いた。杖はまだ下ろしていない。
俺はようやく、男の荷袋に目を向けた。
革の擦れ方。紐の結び。袋の膨らみ。
軽い。
長く野営する荷ではない。
食料も一日分あるかないか。水筒は一本。地図入れは胸元。腰の短剣は飾りではないが、使い込まれてもいない。
「斥候か」
男がびくりとした。
「ち、違う。ただ、外縁を見てこいって言われただけだ。魔族領の中に畑があるか、水場があるか、魔物がどれくらいいるか、それを見て帰れって」
「それを斥候って言うんだよ」
男は口を開いたまま固まった。
たぶん、本当に斥候という自覚が薄かったのだろう。
命令されたから来た。
金が出るから来た。
魔族領は怖いが、外から少し見るだけなら大丈夫だと思った。
その程度かもしれない。
少し前の俺なら、そういう人間を笑えたかどうか分からない。
「アードゥ」
リューネが低く呼んだ。
「その人、どうするの」
俺に聞かれても困る。
そう言いかけて、やめた。
ガルムさんは土を直している。リューネは杖を構えている。畑の奥では、魔族の子供たちが水桶を抱えたまま固まっている。
俺は、ここで一番人間に近い。
嫌な話だ。
「たぶん、嘘はついてない」
ガルムさんの手が止まる。
リューネの赤紫の目が、こちらを見る。
「こいつは魔族を騙そうとしてるというより、聞いた通りに怖がってるだけだと思う。魔族は捕虜を食うとか、呪いを入れるとか、そういう話を聞かされて、そのまま信じてる」
「あなたも、そうだったの?」
リューネの声は小さかった。
責めているというより、確かめている声だった。
それでも、刺さる。
「そうだったと思う。少なくとも、魔族の畑で野菜をもらうとは思ってなかったし、モンスターが畑を耕してるとも思ってなかった」
男が、俺とガルムさんを交互に見る。
その顔には、まだ恐怖がある。
当然だ。
目の前にいるのは角を持つ魔族で、巨大な魔物で、杖を構えた少女で、鉈を持った農家の親父だ。
怖くないわけがない。
けれど、さっきからガルムさんが怒っている理由は、男が人間だからではなかった。
畑を踏んだからだ。
そこだけは、男にも見せるべきだと思った。
「ガルムさん。こいつに、畑を見せてもいいですか」
ガルムさんが顔を上げた。
リューネも少し目を見開く。
俺は急いで続けた。
「治療室とか、洗い場とか、そういう場所じゃないです。こいつが踏み込んだ場所です。ここが何なのかだけは、見せてもいいと思います」
ガルムさんは、しばらく俺を見ていた。
そして、鼻を鳴らす。
「俺の畑を見せ物にするなよ、人間」
「はい。見せ物にはしません。踏んだ場所が何だったか、分からせるだけです」
「なら、見せろ。こいつがまた畝を踏んだら、その時は俺が怒鳴る」
それはもう許可なのか脅しなのか分からなかった。
たぶん、両方だ。
男は縄で軽く手を縛られた。
リューネは最後まで迷っていたが、治療用の細い布で済ませた。強く締めすぎると手が痛むらしい。
男はそのことにも困惑していた。
魔族に捕まったのに、手の痛みを気にされた。
それが、彼の知っている話と合わないのだろう。
「歩け。ただし、畝には入るな。そこは土に見えても道じゃない」
俺が言うと、男はぎこちなく頷いた。
ガルムさんが先を歩き、リューネが横につく。俺は男の少し後ろを歩いた。
畑を案内するというには、空気が硬すぎた。
だが、ここは畑だった。
子供たちは距離を取っている。老人たちは作業の手を止めて見ている。甲殻の魔物は、こちらなどどうでもよさそうに、犂を引きながら土を起こしていた。
男はその魔物を見て、肩を強張らせる。
「そいつ、襲ってこないのか」
「畑の子だ。土を起こす。怒らせたら危ないが、それは馬でも牛でも同じだ」
ガルムさんが答えた。
男は信じていない顔をしている。
それでも、魔物の背中に乗っている子供を見て、口を閉じた。
子供が魔物の耳を叩く。
魔物は面倒そうに鼻を鳴らす。
ただそれだけの光景に、男は言葉をなくしていた。
「魔族だって、飯くらい食うだろ」
しばらくして、男はそんなことを言った。
強がりの声だった。
自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「そうだな。飯くらい食う」
俺は言った。
「でも、お前はさっきまで、ここを畑だと思ってなかっただろ」
男は答えない。
目は、ガルムさんの籠と、畑の奥の水桶と、土を起こす魔物の間を行き来していた。
ガルムさんは、丸い根菜を一つ取り上げる。
さっき俺が食ったものと同じだ。
「食うか」
男はびくりとした。
「毒なんか入れん。入れるならもっと高いものに入れる。これは俺の作物だ。無駄なことはせん」
言い方は乱暴だった。
けれど、野菜を差し出す手はまっすぐだった。
男は縛られた手で、ぎこちなく受け取る。
かじるまでに、かなり時間がかかった。
小さく歯を立てる。
噛む。
目が少しだけ動いた。
「……甘い」
「だろ」
ガルムさんの声が、ほんの少しだけ得意げになる。
「土がいい。水もいい。俺が手を抜いてない。だから甘い」
男はそれ以上、何も言わなかった。
改心したわけではない。
魔族を信じた顔でもない。
ただ、口の中に入ったものを否定できずにいる顔だった。
それで十分な気がした。
少しだけなら。
その時だった。
畑の端から、別の魔族が声を上げた。
森の方を指している。
男の顔色が変わった。
反射的に逃げようとしたのだろう。
縛られた手のまま、横へ飛び出す。
道ではない。
畝だ。
「そこを踏むな!」
ガルムさんの怒鳴り声が、畑に響いた。
男はその声で固まった。
殺されると思った顔だった。
だが、ガルムさんは鉈ではなく、男の足元を指していた。
「逃げるなら道を走れ! 畑を踏むな! そこは昨日植えたばかりだ。人間だろうが魔族だろうが、踏んだやつは怒鳴る!」
男は、何を言われたのか分からないという顔で足元を見る。
小さな芽があった。
曲がっている。
男は慌てて足をどけた。
ガルムさんは舌打ちしながら、また土を寄せる。
その背中を見て、男の表情がさらに分からなくなった。
怖いのだろう。
でも、怖がる場所がずれている。
目の前の魔族は、自分を殺すために怒鳴ったのではない。
畑を踏んだから怒鳴った。
「こいつ、たぶんお前を殺したいんじゃない」
俺は男に言った。
「畑を踏まれたのが嫌なんだ」
男は何も言えなかった。
リューネも黙っていた。
ガルムさんだけが、土を直しながらぶつぶつ言っている。
「まったく、道があるだろうが。目がついてないのか。畑を見るならまず足元を見ろ。踏んでから謝っても、芽は戻らんのだぞ」
その小言は長かった。
怖い。
けれど、どこか人間の村で聞いたことがあるような小言だった。
畑の空気は、完全には戻らなかった。
人間が来た。
その事実は消えない。
だが、男はもう、最初のように魔族だけを見てはいなかった。
畑を見ている。
踏んだ芽を見ている。
ガルムさんの土まみれの手を見ている。
それは、たぶん小さい。
小さすぎるくらいだ。
でも、最初の一歩としては、それくらいでいいのかもしれない。
やがて、ヴェラが来た。
黒い外套をなびかせ、畑の道だけを正確に踏んで歩いてくる。
さすがだった。
足元に迷いがない。
畑でも怖い。
いや、畑だからこそ余計に怖い。
ヴェラは捕らえた男を一瞥し、次にガルムさんの畝を見た。
「侵入者か」
「斥候です。たぶん、命令で来ただけの」
俺が答えると、ヴェラの目がこちらへ向く。
冷たい。
だが、すぐには斬られなかった。
「殺す理由はある。返す理由は薄い。この男が帰れば、人間に畑の位置を知らせることになる。次に来るのは、斥候では済まぬ」
その言葉に、男の顔から血の気が引いた。
リューネが杖を抱え直す。
ガルムさんは何も言わなかった。
畑に入られた怒りはある。
それでも、殺せとは言わない。
俺は、男の手の中に残っている根菜を見た。
半分だけかじられている。
まだ、泥がついていた。
「魔族の畑なんて、聞いてない」
男が、かすれた声で言った。
「畑があるなんて、誰も言ってなかった」
それは言い訳にもならない。
だが、嘘にも聞こえなかった。
「返した方がいいと思います」
言った瞬間、全員の目がこちらへ向いた。
怖い。
かなり怖い。
だが、言葉は止まらなかった。
「こいつは畑を見ました。魔族の子供も、ガルムさんの野菜も、土を起こすモンスターも見た。信じるかは分かりません。王国に戻ったら、魔族に騙されたとか、変な幻を見たとか言うかもしれない」
男が、かじりかけの根菜を握りしめる。
「でも、見たものは持って帰れる。ここで殺したら、こいつが見たものはここで終わります」
畑に、風が吹いた。
ガルムさんの畑の鈴が、小さく鳴る。
ヴェラは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、鉈より怖かった。
「返すかどうかは、魔王様がお決めになる」
ヴェラはそう言って、男の縄を取った。
男はびくりと肩を震わせたが、抵抗はしなかった。
半分かじった根菜だけは、まだ手の中にある。
歩き出した足が、畑の方へ流れかける。
ガルムさんの目が細くなった。
だが、男はそこで止まった。
足元を見る。
畝を見る。
小さな芽を見る。
それから、ぎこちなく道の方へ一歩ずれた。
「……今度は踏まなかったな」
ガルムさんが低く言った。
男は何も返さなかった。
返せなかったのかもしれない。
それでも、畑は踏まなかった。
魔族を信じたわけではない。
怖くなくなったわけでもない。
ただ、そこが踏んではいけない場所だと、少しだけ分かった。
たぶん、最初はそれでいい。
俺は足元を見た。
畝は踏んでいない。
今は、それだけが少しだけ救いだった。




