8話 畑は戦場ではない
翌朝、リューネは本当に外へ連れて行ってくれた。
魔王城の外。
人間の地図なら、そこは魔族領とだけ書かれる場所だ。
軍の地図なら、魔王城周辺外縁か、魔王軍補給地帯。
だが、城門を出てしばらく歩いた先にあったのは、畑だった。
黒みがかった土。低く組まれた石垣。風除けの木柵。魔物避けらしい鈴のついた縄。人間の畑と少し違うところはある。土の色も、植えられている葉の形も、ところどころに立てられた骨のような支柱も違う。
それでも、畑だった。
食べるものを育てる場所。
そう見えた。
「ここが外の畑。城の近くには、すぐ使うものを育ててる。薬草とか、足の早い野菜とか」
リューネは杖を抱えたまま、少し先を歩いている。今日は城の中より表情が硬い。外だからだろう。彼女は回復役で、戦闘役ではない。それでも外に出る。昨日聞いた通りだった。
知ってから見ると、杖を握る指の力まで違って見える。
「足の早い野菜って、走り出すのかと思った」
「傷みやすいって意味。野菜が走ってきたら、あなた逃げられないでしょ」
「そんな野菜がこっちにはあるのか?」
「野菜は無いけど、そういうモンスターならいるよ」
たぶん俺はそのモンスターに食われるな。
畑の中には、魔族たちがいた。
角の短い若者。腰の曲がった老人。袖をまくって土を払う女。荷車を押す兵。子供らしき小さな魔族が、水桶を二人がかりで運んでいる。
武器を持っている者もいる。
だが、その手で今つかんでいるのは鍬だった。
人間なら、ここをどう見るだろう。
魔王軍補給施設。
兵站拠点。
魔族領内農業区画。
いくらでも言い方はある。
でも、目の前にいる小さな魔族は、水桶の重さに顔をしかめていた。
それを補給施設と呼ぶには、少し無理があった。
畑の奥で、低い唸り声がした。
反射的に短剣の柄へ手が動きかける。
リューネの杖が、俺の手首を軽く押さえた。
「大丈夫。あれは畑の子」
畑の子。
その言葉の意味を考える前に、土の向こうから巨大な影が現れた。
牛より低い。だが、横に広い。分厚い背中には黒い甲殻のようなものが並び、鼻先には短い角がある。口元からは牙が覗き、目は赤い。
どう見ても魔物だった。
そいつが、首に革の輪をかけられ、木製の犂を引いている。
背中に小さな魔族の子供が乗り、耳のあたりをぽんぽん叩いていた。
魔物は、のそのそと土を掘り返す。
子供が何か言うと、面倒そうに鼻を鳴らした。
完全に家畜だった。
「……あれ、襲ってこないのか」
「襲ってこないよ。畑を起こす子だから。怒らせたら危ないけど、それは人間の牛とか馬も同じでしょ」
リューネは当然のように言った。
魔王様の言葉を思い出す。
人間が馬や牛を使うのと、どれほど違う、と。
頭では聞いていた。
目の前で見ると、かなり違った。
魔物。討伐対象。人里を襲う危険な獣。
人間側なら、そう書く。
でも目の前のそいつは、魔族の子供を背中に乗せたまま、黙々と土を掘っている。
牙の間に、干し草みたいなものが挟まっていた。
「お前さんが、魔王様の言っておられた人間か」
太い声がした。
畑の奥から、一人の男が歩いてくる。
魔族の男だ。
肩幅が広く、腕が太い。浅黒い肌には日に焼けたような濃さがあり、額から伸びた角は片方だけ少し欠けていた。腰に刃物は差しているが、武器というより畑仕事用の鉈に見える。
服は土で汚れていた。
手も、土まみれだった。
怖くないわけではない。
だが、最初に思ったのは別のことだった。
農家の親父だ。
王都の近くにも、冒険の途中で泊まった村にもいた。
朝から畑に出て、作物の出来を聞くとやたら長く話すタイプの親父。
人間だろうと魔族だろうと、畑の親父はだいたい同じ顔をするのかもしれない。
「はい。アードゥです」
頭を下げる。
男は少しだけ目を細めた。警戒はある。当然だ。昨日まで、俺は魔族を斬る側の荷物持ちだった。
「ふうん。弱そうだな。鑑定にかけるまでもなく、畑仕事を一日やらせたら腰を抜かしそうな顔をしてる」
「よく言われます。それに、鑑定でも言われました」
男は一瞬だけ黙ったあと、腹の奥で笑った。
「鑑定も畑も嘘はつかん。土を触れば、だいたい分かる。根が張るやつか、すぐ萎れるやつか。お前さんは後者だな」
良いことを言っている気がする。
たぶん。
男は手に持っていた籠から、丸い根菜のようなものを一つ取り出した。表面は赤紫で、泥がついている。
リューネが少しだけ驚いた顔をした。
「ガルムさん、それは出荷用じゃないの?」
「今日は多く取れちまったからな。味を見る分には困らん。魔王様が見ろと言った人間だろ。なら、畑の匂いだけ嗅がせて帰すのも、俺の作物に失礼ってもんだ」
ガルムと呼ばれた男は、鉈で器用に皮を少しだけ削り、そのまま俺へ差し出した。
「味見してみるか?」
リューネがこちらを見た。
毒ではないのか、と聞きたくなったが、聞かなかった。
畑の親父にそれを言うのは、たぶんかなり失礼だ。
受け取る。
手の中の根菜は、ほんのり温かかった。
土の匂いがする。
かじった。
固い。
思ったより甘い。
少しだけ青臭くて、泥の匂いも残っていて、歯の奥にじわっと汁が広がる。
なんの変哲もない、ただの野菜だった。
でも、うまかった。
なぜか、妙にうまかった。
「……うまいです。とっても」
声が、思ったより素直に出た。
ガルムは、にっと笑った。
「だろ。俺が丹精込めて育てたからな。人間に食わせるつもりじゃなかったが、まあ、美味いっていうなら悪くない。作物を褒められて嫌な百姓はいねえ。相手が人間でも、そこだけは別だ」
その笑い方が、どうしようもなく農家の親父だった。
食い物を作っているやつが悪人なわけがない。
そう言い切るのは危ない。
人間にも、畑を耕しながら悪いことをするやつはいる。
それでも、今この瞬間だけは、そう思いたかった。
この親父が育てて、土から抜いて、手渡してくれたこの野菜は、うまい。
それだけは、嘘ではなかった。
「人間も野菜は食うのか。勇者だ何だという連中は、もっと豪勢な飯ばかり食っているのかと思っていたが」
「食います。俺は肉の方が好きですけど、勇者パーティーでも肉ばかりというほどは食えません。飯を作るのはだいたい荷物持ちなので、豪勢にすると荷物持ちが死にます」
ガルムはまた笑った。
リューネも、小さく息を抜いた。
少しだけ、畑の空気が緩んだ。
だからだろう。
俺は、言わなくてもいいことを言いかけた。
「これ、人間にも食わせたら――」
そこで止まる。
リューネの目がこちらへ向いた。
昨日の言葉が、喉の奥に戻ってくる。
私たちの場所だよ。
人間に見せるためにあるんじゃない。
生きるためにあるの。
ガルムも俺を見ていた。笑っていた顔が、少しだけ真面目になっている。
「食わせたら、何だ。俺の畑を、人間に見せるための皿にでもするつもりか」
声は荒くない。
だが、鍬の刃みたいに硬かった。
逃げられない。
でも、言い方を間違えたら、たぶんここで全部駄目になる。
俺は、手の中の野菜を見た。
「すみません。人間に見せるために、って言いかけました。でも、これは見せ物じゃない。ガルムさんが育てた食べ物です。もし人間に見せるなら、まずそこを間違えないように書かないと駄目だと思いました」
ガルムは、しばらく黙っていた。
畑の風が、葉を揺らす。
「変な人間だな。俺は見せ物になる気はない。畑も、作物も、あの土起こしの子もな。だが、食い物が食い物として見られるなら、まあ、悪くはない」
ガルムは、籠の中からもう一つ根菜を取り出し、今度はリューネへ投げる。
リューネは慌てて受け取った。
「お前も食え。見張り役の顔が硬いと、畑の土まで硬くなる。回復役はすぐ顔に出るからな」
「そんなことない」
「ある。薬草の出来を見に来た時も、悪い葉を見つけるとすぐ眉に出る。顔を見りゃ、今年の薬草がどうだったか半分分かるくらいだ」
リューネは少しだけむっとした顔で、根菜をかじった。
その表情が、ほんの少し緩む。
かわいい。
線を引かれる前に、俺は視線を畑へ戻した。
生存本能は、少しずつ育っている。
畑の端では、子供たちが水桶を運んでいた。
一人がつまずき、水が少しこぼれる。
近くにいた老人が何かを言い、子供が頬を膨らませる。その横を、さっきの甲殻を持つ魔物が、犂を引きながらのそのそ通り過ぎた。
子供が魔物の背を叩くと、魔物は面倒そうに鼻を鳴らす。
人間の村でも見たような光景だった。
違うのは、子供の頭に小さな角があること。
老人の背中に、薄い翼の名残のようなものが畳まれていること。
畑を耕しているのが、牛ではなく魔物であること。
それだけだ。
いや、それだけではない。
その少しの違いを、人間は大きく見る。
角。
翼。
肌の色。
牙。
それだけで、全部を敵の形にまとめる。
俺も、そうだった。
でも、今目の前にあるのは、こぼれた水で怒られる子供だった。
「アードゥ」
リューネが小さく呼んだ。
「まだ書いてない」
「顔が先に書いてる。何を書くつもりだったの」
そんなに顔に出るのだろうか。
たぶん出るのだろう。
「畑は、戦場じゃないって書こうと思った」
リューネは少しだけ黙った。
ガルムも、土のついた手を止める。
「人間は、ここを焼いたら戦果って呼ぶと思う。魔王軍の補給を断ったとか、資源地帯を削ったとか、そういう言い方をする。でも、ここで燃えるのは食べ物だ。ガルムさんが育てた野菜で、子供が運んだ水で、冬に食うはずだったものだ。土を起こしてるあの魔物も、たぶん軍獣とかじゃなくて、畑の家畜なんだと思う」
言ってから、少し息が苦しくなった。
綺麗なことを言いすぎた気がした。
けれど、今回は言い直さなかった。
ガルムが、鼻を鳴らす。
「分かってるなら、踏むなよ。畑は踏まれるのが一番腹立つ。敵でも味方でもな。人間が来ようが魔族が来ようが、畝を潰したやつはまず怒鳴る」
そこなのか。
だが、たぶん大事なことだ。
俺は足元を見た。
畝の端に、少しだけ靴がかかっていた。
慌てて引っ込める。
リューネが小さく笑った。
今度は、線を引かれなかった。
昼近くまで、俺たちは畑を見て回った。
薬草を育てる小さな区画。魔物避けの鐘。水を溜める石の槽。風で倒れないように結ばれた支柱。土起こしの魔物が休むための屋根付きの小屋。干し草と、硬そうな飼葉。
ガルムは、いちいち説明した。
説明が長い。
やはり農家の親父はどこの世界でも話が長い。
だが、不思議と嫌ではなかった。
リューネは途中で少しだけ飽きた顔をした。
ガルムに見つかって、薬草の名前を三つ言わされていた。
全問正解していた。
ちょっと誇らしそうだった。
かわいい。
俺は畝から足をどけた。
危ない。
今のは、畑のためにも俺の脛のためにも正しい判断だった。
報告書には、畑のことを書くべきだと思った。
ただ畑がある、では足りない。
人間がここをどう見るか。
魔族がここで何をしているか。
その両方を書かなければならない。
畑の端に、低い柵があった。
その向こうは、黒い森へ続いている。
魔王城の外縁。
人間なら、隠れる場所を探す。
俺はなんとなく、柵の向こうを見た。
葉が揺れた。
風ではない。
荷物持ちは、荷が動く音に敏感だ。
布が枝に擦れる音も、革袋が体に当たる音も、歩き慣れていない足が土を踏む音も、嫌でも覚える。
柵の向こうで、何かが止まった。
人だ。
たぶん。
リューネも気づいた。
杖を握る指が強くなる。
ガルムは、俺たちの視線を追い、ゆっくりと鉈を手に取った。
「人間か」
その声は、さっきまでの農家の親父の声ではなかった。
低く、硬い。
畑の空気が変わる。
俺は、手の中に残っていた根菜の甘さを、急に思い出した。
ここは畑だ。
戦場ではない。
だが、人間が来た。




