7話 もっと魔族のことを知りたい
眠れなかった。
月明かりの魔王様が、まだ頭に残っている。
ほどけた黒髪。ゆったりした薄い服。どうすれば、皆を守れると思う、と聞いた声。
あれは駄目だ。
どうしようもなく可愛かった。
机の上には、書き直した報告書が広がっている。
人間に攻めさせないためには、魔族を見せる必要がある。
そこまでは書けた。
だが、筆はそこで止まった。
俺は、まだ魔族のことを知らない。
城の廊下も、中庭も、治療室も見た。食堂の匂いも覚えた。
でも、それだけだ。
知らないものを見せたつもりになれば、たぶん嘘になる。
扉が叩かれた。
今度は、短い。
リューネだ。
扉を開けると、彼女はいつものように杖を抱えて立っていた。今日は軽い外套を羽織っている。灰色がかった肌に、赤紫の目。黒い髪は耳の横でゆるく結ばれていて、まだ少し眠そうだった。
かわいい。
朝から危ない。
「おはよう。今日は、昨日の続き。魔王様から、城の外側も少し見せていいって言われてる」
リューネはそこまで言って、俺の顔を見た。
何かに気づいたように、少しだけ眉を寄せる。
「寝てないの?」
「少しだけな」
「少しだけ寝た顔じゃないと思う」
的確だった。
俺は一度、机の上の紙を見た。
それから、リューネへ向き直る。
「リューネ。頼みがある」
彼女の手が、杖を抱く位置を少し変えた。
警戒だ。
当然だと思う。
今までの俺なら、頼みがあると言った時点でろくでもないことを言い出しかねない。
「変なことなら、聞く前に断る」
「変かどうかは分からない。でも、今日は真面目に言ってる」
リューネは返事をしなかった。
赤紫の目だけが、こちらを見ている。
俺は息を整えた。
「もっと、魔族のことを知りたい」
リューネの表情が、ほんの少し変わった。
驚き。
それから、疑い。
その二つが混ざった顔だった。
「魔王様が守ろうとしているものを、人間に見せたい。でも、俺はまだ城の廊下と倉庫と治療室くらいしか知らない。リューネが何を怖がって、何を守って、何に怒るのかも、ちゃんとは知らない。知らないまま書いたら、たぶん嘘になる」
言い終えてから、胸の奥が妙に冷えた。
綺麗なことを言いすぎた気がした。
リューネも、そこを見逃さなかった。
「それ、魔王様に褒められたいだけじゃないの?」
まっすぐ刺してきた。
俺は否定しようとして、できなかった。
「それもある。魔王様に褒められたいし、役に立ちたい。魔王様が嬉しそうにしてくれるなら、たぶん俺はかなり頑張れる」
リューネの目が細くなった。
呆れ、というほど軽くない。
怒り、というほど強くもない。
だが、信用はしていない。
「でも、それだけなら、昨日の夜で満足してたと思う」
言ってから、しまったと思った。
リューネの目が止まる。
「昨日の夜?」
廊下の空気が一段冷えた。
背後ではない。
横でもない。
少し離れた柱の影に、黒い外套の女が立っていた。
ヴェラだ。
いつからいたのかは、考えない方がいい。
「余計な想像をするな、リューネ。魔王様は、この男の濁った目を使えるか確認されただけだ」
リューネが、分かりやすく息を吐いた。
俺は少しだけ傷ついた。
いや、何に傷ついたのかはよく分からない。
「それで残念そうな顔をするな」
ヴェラの声が、廊下の石に落ちる。
反射的に背筋が伸びた。
「知りたいと言うなら、見ろ。ただし、見せられるものだけを見せる。お前が踏み込んでよい場所は、まだこちらが決める」
「はい」
「それと、書いたものはリューネが見る。必要があれば私も見る。破るかどうかは内容次第だ」
紙より先に俺が破られる可能性はあるのだろうか。
聞かなかった。
聞かない程度の知性は、俺にも残っている。
リューネは杖を抱え直し、廊下の先へ歩き出した。
「じゃあ、まず洗い場に行く。見たいって言ったんだから、ちゃんと見て」
その言い方は、少しだけ硬かった。
でも、拒絶ではなかった。
俺は頷き、彼女の後を追った。
洗い場は城の奥にあった。
水路から引いた水が石の溝を流れ、大きな桶がいくつも並んでいる。布を叩く音が響き、湯気と石鹸の匂いと、落ちきらない血の臭いが混ざっていた。
袖をまくった魔族たちが、外套や包帯や布を洗っている。
見てはいけない。
仕事だと言い張るには、少し無理がある。
リューネの杖の柄が、俺の脛に軽く当たった。
「今の目、記録する?線引こうか?」
「しなくていいです」
「じゃあ、こっち」
リューネは、洗い終えた布ではなく、まだ桶に沈んでいる布を指した。
白かったはずの布が、赤黒く染まっている。
包帯だった。
「これは?」
「外縁警備の人の。人間の矢で裂けた傷に使った」
リューネは淡々と言った。
その声が平らだから、余計に桶の中の赤黒さが目に残った。
「血、落ちにくいんだな」
「人間の矢傷は、深いから」
それだけ言って、リューネは別の布を持ち上げる。
小さい服だった。
袖に泥がついている。
血ではない。
ただの泥だ。
その汚れ方だけは、王都の子供と変わらなかった。
「人間の子供も、服を汚すの?」
「汚す。ものすごく汚す。俺は昔、泥のついた服を荷袋に突っ込んで、あとで全部まとめて怒られた」
「怒られて当然だと思う。ちゃんと反省した方がいい」
正論だった。
洗い場の女たちが、こちらを見ていた。
敵意だけではない。
警戒と、好奇心と、少しだけ呆れ。
その中の一人が、濡れた布を絞りながら言った。
「人間も怒られるんだね」
「かなり怒られますよ。泣く程」
「弱そうなのに?」
「弱いのと怒られるのは両立します」
彼女は少しだけ笑った。
その笑い方が普通だった。
普通に、少しだけ可愛かった。
リューネが紙に線を引いた。
早い。
「今のは違う。会話の流れだ」
「流れで見てた。真面目といやらしいのは両立するんだね」
リューネは、ため息をついた。
それでも、歩き出す足は止まらなかった。
次に向かったのは食堂の仕込み場だった。
大鍋から湯気が上がり、根菜の匂いがする。肉は少ない。干した豆と、硬そうな芋と、見たことのない黒い葉が山になっていた。
袋が積まれている。
乾いたもの。湿り気を帯びたもの。
目が勝手に動いた。
女ではない。
荷物だ。
「あの袋、下から使った方がいい」
口が先に出た。
食堂の魔族が、こちらを睨む。
太い腕をした女だった。肩幅が広く、角も立派で、笑えばたぶん豪快だろうが、今はまったく笑っていない。
「人間。食料に口を出すのかい」
「すみません。でも、下の袋、角が沈んでる。湿気を吸ってます。上の乾いた袋を先に使うと、下が駄目になる」
食堂の女は眉を寄せ、袋に手を突っ込んだ。
少しして、顔が渋くなる。
「……傷みかけてるね」
リューネが、見ただけで分かるのかという顔をする。
「袋の角と匂い。勇者パーティーの食料を何度も数えたから。湿った袋を放っておくと、元仲間にすぐ怒られた」
「……人間の仲間のことも、ちゃんと見てたんだ」
食堂の女は、袋を持ち上げながら小さく鼻を鳴らした。
「礼は言わないよ。人間に食料を見られるのは気分が悪い」
「言わなくても大丈夫です」
「でも、使う順番は変える。悪くなったら困るからね」
それだけ言うと、彼女は別の魔族に指示を出し始めた。
袋の山が少しずつ動く。
詰まっていた流れが、また変わった。
リューネが、紙を胸に寄せたまま言う。
「女の子以外も、ちゃんと見るんだね」
「たまには」
「そこは、いつもって言って」
「努力目標として」
リューネは、信じていない顔をした。
食堂を出たあと、少しだけ静かな廊下に入った。
そこは城の奥へ続いている。
壁には古い傷があり、灯りは少ない。
リューネはそこで足を止めた。
「あなたは、魔族を知りたいって言ったよね」
「ああ」
「知ったら、書くの?」
彼女は前を向いたまま聞いた。
「書くと思う。書かないと、人間には見せられないから」
「それって、私たちを並べるってことじゃないの?」
返事が止まった。
リューネは振り返る。
責める顔ではなかった。
嫌がっている顔だった。
「洗い場も、食堂も、治療室も、私たちの場所だよ。人間に見せるためにあるんじゃない。あなたが書いたら、それを誰かが読むんでしょ。知らない人間が、私たちの服とか、ご飯とか、怪我とか、そういうのを見るんでしょ」
リューネは杖を抱え直した。
「あなたが可愛いって書いたら、人間は私たちを斬らなくなるの?」
返事が出なかった。
「洗い場も、食堂も、治療室も、あなたのためにあるんじゃない。人間に見せるためでもない。私たちが、生きるためにあるの」
リューネは杖を抱え直した。
「知りたいって言ったなら、そこを間違えないで」
喉が重くなった。
「分からない」
正直に言った。
「でも、見せ方を間違えたら、たぶんリューネに破られると思う」
「破るのは紙だけにしたい」
「できれば俺も紙だけでお願いしたい」
リューネは、少しだけ困ったように息を吐いた。
「じゃあ、書く前に聞いて。嫌な書き方なら、嫌って言う」
「分かった。聞く」
「それと、勝手に可愛いとか書かないで」
「そこは内容によるんじゃないか。可愛さを伝えるのは大事だと思う」
リューネの杖が、脛に入った。
痛い。
かなり痛い。
「内容によらない」
「はい」
俺は深く頷いた。
生存本能は、今日も色欲より少しだけ強い。
夕方、部屋に戻って報告書を書いた。
リューネは向かいに座っている。
杖は膝の上。
紙を破る準備も、俺の脛を打つ準備も、どちらも整っている。
俺は筆を持った。
魔族は、戦う者だけではない。
洗う者がいる。
煮る者がいる。
包帯を畳む者がいる。
怪我人のために道を空ける者がいる。
そこまで書いたところで、リューネが少しだけ目を伏せた。
「……それは、いい」
「続けるぞ」
「変な方向に行かないなら」
行かない。
たぶん。
俺は続きを書いた。
リューネは、怖がりながらも外へ出る。
怖くないからではなく、怖いまま行く。
そこで、筆が止まった。
リューネが、じっと紙を見ている。
「それ、書くの?」
「駄目か?」
「……少しだけ、嫌」
小さな声だった。
俺は、その行に線を引いた。
「じゃあ、別の言い方にする」
リューネが、こちらを見た。
「消すんだ」
「嫌って言われたからな」
「いつもそれくらい聞いてくれたらいいのに」
でも、少しだけ口元が緩んでいた。
俺は書き直す。
リューネは、外へ出る回復役だ。
怪我をした者のところへ、間に合うために。
それを読んで、リューネはしばらく黙っていた。
「……それなら、いい」
リューネは紙を覗き込み、最後に小さく印を一つつけた。
「明日、外の畑を見る?」
「いいのか」
「魔王様の命令だし。あなたが、知りたいって言ったから。変な書き方をしたら、そこで終わりだけど」
知りたいと言った。
その言葉を、リューネは少しだけ信じてくれたらしい。
魔王様に褒められる方が、たぶん嬉しい。
それでも、リューネに少しだけ信じてもらえたことは、思ったより軽くなかった。




