6話 月明かりの魔王様 【挿絵】
リューネの監視のもとで城を見るようになって、数日が経った。
正式な役職はまだない。
捕虜ではない。
臣下でもない。
魔王様の命令で城の中を歩き回り、人間の目で見えたものを紙に書く、よく分からない人間。
たぶん、それが今の俺だった。
城の中は、想像していたよりずっと堅実だった。
魔王軍の城、などと聞けば、人間はもっと禍々しいものを思い浮かべる。黒い壁、血の池、骸骨の山、よく分からない儀式の間。少なくとも、王都の酒場で歌われる魔王城はそんな感じだった。
実際には、そんなものはない。
あるのは、石の廊下。薬草を運ぶ魔族。水桶を抱える兵。補修中の外套。怪我人のために空けられた通路。食堂から漂う煮込みの匂い。
もちろん、物騒ではある。
鎧の音は絶えないし、壁は厚いし、門は重い。ヴェラのように、視線だけで人間の首を落とせそうな女もいる。
ただ、それだけではなかった。
魔王様が言っていた、数が少ないという言葉。
あれは本当だった。
人手が足りない。
だから、物の置き方に無駄が少ない。怪我人の通る道は空けられ、薬草箱はすぐ動かせるように積まれている。食料庫の袋も、重いものは下、軽いものは上。水場から治療室までの距離も短い。
考えられている。
少ない人数で、この城を回すために。
けれど、見ているうちに、別のものも見えてきた。
弱い。
城そのものが脆いわけではない。
門は硬い。壁も厚い。魔族の兵は人間の兵よりずっと強い。
それでも、数で押されたらどうなる。
怪我人が増えたら。
水場を潰されたら。
薬草倉庫を焼かれたら。
門を叩く兵と、裏で火をつける兵と、逃げ道を塞ぐ兵が同時に来たら。
持たない。
たぶん、長くは持たない。
そんな内容を報告書に書くかどうかで、俺はずっと筆を止めていた。
書くべきだ。
でも、書きたくない。
魔王様が、そんなことを分かっていないはずがないからだ。
机の上には、書きかけの紙がある。
魔王城は、攻める城というより、受けて、分けて、生かす城に見える。
そこまでは書いた。
その先に、数で囲まれれば数日しか持たない、と続けようとして、筆が止まった。
こんこん。
控えめに、扉が叩かれた。
リューネなら、もっと短い。
ヴェラなら、そもそも叩いた時点で入ってくる。
「どうぞ」
声をかけた。
扉は開かれなかった。
少し待つ。
やはり、開かれない。
不思議に思って扉を開けた。
そこに、魔王様が立っていた。
頭が止まった。
まず、なぜ、という言葉が浮かんだ。
次に、悲鳴に近いものが喉の奥で詰まった。
魔王様は、いつもの黒い衣ではなかった。
ゆったりした薄い布の服。寝間着に近い。肩から胸元にかけての線が柔らかく、腰もいつものように締められていない。長い黒髪はほどかれていて、肩から流れ落ちている。
角も、紫の目も、魔王様であることに変わりはない。
でも、玉座に座る王ではなかった。
月明かりの廊下に立つ、ひどく綺麗な女の人だった。
それなのに、少しだけ年相応にも見えた。
駄目だ。
これは、駄目だ。
「ま、魔王様」
それを絞り出すので精一杯だった。
「少し、話をせぬか」
いつもより控えめな声だった。
その声が、耳の奥で甘くほどける。
返事をしなければならない。
扉を開けたまま固まっている場合ではない。
「ど、どうぞ。部屋は、その、狭いですが」
「構わぬ」
魔王様は部屋へ入った。
それだけで、狭い部屋の空気が変わった。
机。椅子。寝台。書きかけの報告書。水差し。俺の荷物。
何も特別なものはないはずなのに、魔王様がいるだけで、全部が急に粗末に見える。
魔王様は椅子へ視線を向けた。
慌てて紙をどける。
「こちらへ」
「よい」
魔王様は椅子に腰を下ろした。
玉座ではない。
ただの椅子だ。
それでも、座った瞬間に部屋の中心がそこになった。
俺は立ったまま、どうしていいか分からずにいた。
「座れ、アードゥ。首が痛くなる」
「魔王様の首が痛くなるくらいなら、俺は床でも何でも」
「では床に座るか?」
魔王様が少しだけ目を細めた。
意地悪な顔だった。
かわいい。
「椅子に座ります」
「そうしろ」
向かいに腰を下ろす。
近い。
机を挟んでいるのに、まったく安全ではない。布の柔らかい匂いがする。いつもの香とは少し違う。石の広間では分からなかった、夜の体温みたいなものが混じっている。
見てはいけない。
でも、見ないわけにもいかない。
魔王様がいるのだから。
魔王様は、机の上の紙へ視線を落とした。
「読ませてもらった」
「すみません。まだ途中で」
「途中で止まっている理由も、だいたい分かる」
喉が詰まった。
魔王様は、俺が隠したい場所を正確に踏んでくる。
「この城は、攻める城というより、受けて、分けて、生かす城に見える。そこまでは書けた」
「はい」
「その先が書けぬ」
「言ってみよ」
命令ではなかった。
けれど、逃げられない声だった。
「……この城は、よくできています。人が少ないのに、ちゃんと回るように考えられている。怪我人も、物資も、水も、薬草も、詰まらないように」
魔王様は黙って聞いている。
月明かりが、窓から差し込んでいた。
黒髪の輪郭が淡く光る。
見惚れかけて、言葉に戻る。
「でも、それは人数が少ないからです。少ない人数で回すための作りだから、そこを崩されたら脆い。水場を潰されて、薬草を焼かれて、怪我人を増やされて、門を叩かれたら……たぶん、長くは持ちません」
魔王様は怒らなかった。
ただ、静かに頷いた。
「正しい」
その一言が、思っていたより重かった。
「悔しいがな」
魔王様は小さく笑った。
笑ったのに、楽しそうではなかった。
それから、少しだけ視線を落とした。
魔王様の指が、袖口を軽く握る。
初めて見る仕草だった。
「アードゥ」
「はい」
「どうすれば、皆を守れると思う?」
声は静かだった。
俺は、すぐには答えられなかった。
魔王様は、城をどう守るかとは聞かなかった。
皆を、と言った。
リューネ。
ヴェラ。
中庭で担架を運んでいた魔族。
薬草箱を押していた女。
治療室で寝台に横たわっていた怪我人。
食堂で鍋をかき混ぜていた兵。
水桶を抱えて廊下を歩いていた小柄な魔族。
顔が、いくつも浮かぶ。
俺は、喉を鳴らした。
「魔王様なら、戦えると思います」
「戦えるな」
「ヴェラも、たぶん強いです」
「強い」
「魔族の兵も、人間よりずっと強い。俺なんかより、何十倍も」
「それでも、数は覆らぬ」
魔王様の声は、少しだけ低かった。
「最後まで戦えと言うことは簡単だ。魔王らしくあれと言うこともできる。私が先頭に立てば、兵はついてくるだろう」
魔王様の唇が、ほんの少しだけ歪む。
「だが、それで皆が死ぬなら、何の王だ」
部屋が静かになった。
外から、夜の風が窓を撫でる音がした。
俺は、机の上の報告書を見た。
守る。
城を守る。
壁を厚くする。
薬草を分ける。
水場を増やす。
避難路を作る。
どれも必要だ。
でも、それだけではない。
魔王様が聞いたのは、皆を守る方法だった。
城ではない。
人だ。
人を守る方法。
考えろ。
必死に考えろ。
俺は戦えない。
魔法も使えない。
魔王様みたいに強くない。
ヴェラみたいに怖くもない。
リューネみたいに治せもしない。
でも、見た。
数日だけだが、城を見た。
人間の目で見た。
「守らない方がいいと思います」
魔王様の目が、わずかに動いた。
怖い。
今の言い方は、たぶん相当まずい。
「城を捨てよ、という意味か」
「違います。いや、そういう選択も必要な時はあるかもしれませんけど、今言いたいのはそうじゃなくて」
言葉がもつれる。
魔王様は急かさなかった。
ただ、待っている。
その沈黙に背中を押される。
「守るって、攻められてからの話ですよね。城壁を厚くするとか、物資を分けるとか、逃げ道を増やすとか。それは必要です。でも、人間の数が多すぎるなら、守り続けるだけではいつか潰れます」
「続けよ」
魔王様の声は低い。
でも、怒ってはいない。
「だから、攻めさせない方がいいです」
「どうやってだ」
すぐに返ってきた。
甘い声ではない。
王の声だった。
「人間は、魔族を見ていません。魔族の城も、魔族の暮らしも、魔族の怪我人も、魔族の女の子も。全部まとめて、魔王軍の拠点とか、討伐対象とか、資源地帯の障害物として見ています」
魔王様の指が、袖から離れた。
「なら、見せるしかないと思います」
「何を」
「この城が、ただの魔王軍の要塞じゃないことを。ここに怪我人がいて、治療室があって、食堂があって、水を運ぶ人がいて、リューネみたいに怖くても外へ出る回復役がいて、ヴェラみたいに怖いけど綺麗な人がいて」
そこまで言って、少し止まった。
危ない。
真面目な流れのまま変なところへ滑りかけた。
魔王様が、じっとこちらを見ている。
見抜かれている気がする。
「そして、魔王様がいる」
「私を見せるのか」
魔王様の声が、少しだけ低くなった。
喉が鳴る。
「見せ方は、考えないといけません。人間は、魔王様を見たら怖がると思います。俺は可愛いと思いますけど、普通の人間はたぶん怖がります」
「貴様も最初は怖がっていたな」
「今も怖いです。でも、可愛いです」
魔王様は、少しだけ黙った。
月明かりを受けた横顔が可愛くて、沈黙が怖くて、頭が忙しい。
「アードゥ。真面目な話の最中に自分で穴を掘る癖は、少し抑えよ」
「努力します」
「期待はせぬ」
かなり妥当な判断だった。
魔王様は、そこでほんの少しだけ笑った。
その笑みで、固まっていた胸が緩む。
「つまり貴様は、我らを守るのではなく、人間が我らを攻める理由を鈍らせろと言うのだな」
「たぶん、それです」
「魔族を攻めることが、ただの討伐ではなくなるようにする。魔王城を攻めることが、ただ悪の城を落とすだけではなくなるようにする。人間が剣を抜く前に、一回だけ迷うようにする」
魔王様は黙っていた。
袖を握っていた指が、今度は机の上の報告書に触れる。
「迷わせる、か」
「はい」
「一度迷えば、剣は鈍る」
「少なくとも、何も見ないまま振るうよりは」
言いながら、リュシオンの聖剣を思い出した。
あの剣は止まった。
俺が飛び込んだからではある。
でも、止まった。
止められるのだ。
人間の剣も。
たぶん。
少しだけなら。
「そうか」
魔王様が言った。
声が、さっきとは違っていた。
低くて、静かで、でもほんの少しだけ弾んでいる。
「そんな方法もあるのだな」
魔王様は嬉しそうだった。
それは、玉座で見せる楽しそうな顔とは違った。
新しいおもちゃを見つけた顔でもない。
もっと静かで、少しだけ幼い。
思いつかなかった道を、遠くに見つけたような顔だった。
月明かりが窓から差し込んでいる。
ほどけた黒髪の輪郭が白く光り、紫の目が淡く揺れていた。寝間着みたいな薄い服の袖を、魔王様はもう握っていない。
ただ、報告書の上に指を置き、ほんの少し笑っている。
それはそれは、可愛かった。
どうしようもなく可愛かった。
でも、その笑みを見た時、俺は初めて少しだけ思った。
魔王様を守りたい。
でも、俺にはそんな力はない。
剣もない。
魔法もない。
盾になるほどの根性も、たぶんない。
それでも。
できる、とはまだ言えない。
でも、運べるかもしれないとは思った。
俺には、荷物持ちしかできないのだから。
「魔王様」
名前を呼ぶと、魔王様がこちらを見る。
「俺には、荷物持ちしかできません」
「知っている」
「魔王様が背負っているものを、全部は無理です。でも、少しだけなら、運べるかもしれません」
言ってから、喉が乾いた。
できるとは言えない。
でも、言わずにはいられなかった。
魔王様はしばらく黙っていた。
月明かりの中で、紫の目が少しだけ細くなる。
「ならば、運んでみせよ」
魔王様は、机の上の報告書に指を置いた。
「誓いはまだ受け取らぬ。だが、今宵の言葉は預かっておく」
預かる。
その言葉が、妙に胸の奥に残った。




