5話 濁った目にも見えるもの 【挿絵】
「おはよう」
扉が開き、リューネが部屋に入ってきた。
今日は軽装鎧ではなく、動きやすそうな布の服だった。
城の中を歩き回るための格好に見える。
「お、おはようございます」
反射的に頭を下げると、リューネが少しだけ眉を寄せた。
「それ、やめて」
何か邪な視線を向けただろうか。
変な感想は抱いていない。
せいぜい、昨日より体の線が出ない服だなと思ったくらいだ。
「その、しゃべり方。くすぐったい。普通でいい」
「なんだ、しゃべり方か」
胸の奥で、小さく息が抜けた。
「でも、今は捕虜というか、なんというか、よく分からない立場だろ。魔王様の城で、魔王様の命令を受けて、見張り付きで動く人間だし」
「捕虜じゃない」
リューネは、そこだけすぐに否定した。
強い声ではない。
けれど、言い間違いを正すような迷いのなさがあった。
「魔王様の命令を聞いてるなら、捕虜じゃない。少なくとも、今は」
「じゃ、じゃあ、こっちの方がいいのか?」
いつもの調子に戻すと、リューネは少しだけ目を細めた。
「うん。その方がいい」
ふわりと、ほんの少しだけ笑った。
ああ。
本当に、この笑顔が世界から失われなくてよかった。
俺が勇者の荷物持ちをやめたことと、この笑顔。
どちらが世界にとっての損失なのか。
考える必要もない。
「魔王様からの命令」
リューネは杖を抱え直し、表情を少しだけ仕事用に戻した。
「今日は、城を見てもらう」
「城?」
「人間の目で見ろって。余計な説明はしないように言われてる」
「なかなか難しい命令だな。俺の目、濁ってるらしいし」
「分かってるなら、少しは澄ませて」
正論だった。
部屋を出ると、廊下の空気はひんやりしていた。
石壁には灯りが置かれ、朝の足音がいくつも重なっている。
人間の城とは違う。違うが、朝は朝の景色が同じように繰り広げられる。
リューネはあまり説明しなかった。
角を曲がる時に「こっち」と言い、扉の前で「ここは倉庫」と言う。その程度だ。
すれ違う魔族たちは、俺を見るたびに少し足を止めた。
警戒、好奇心、敵意。
いろいろ混じっている。
腰の武器に手を近づける者もいる。
当然だ。
昨日までの俺たちは、見つけた魔族を斬る側だった。
それでも、誰も俺に斬りかかってはこなかった。
リューネが隣にいる。
魔王様の命令がある。
その二つがなければ、廊下の空気はもっと違っていたはずだ。
ただ、足は迷わない。
すれ違う魔族が小さく手を上げると、リューネも同じように返す。包帯を巻いた男が廊下の端で荷を落としかけた時は、何も言わずに駆け寄って支えた。
俺への説明は少ないのに、城の中の小さな滞りにはよく気づく。
「ここが正門前」
リューネが足を止めた。
重い門の前に、広い石畳の空間がある。
壁は厚い。
門は高い。
人間なら、まずこう言うだろう。
魔王軍の要塞だ、と。
俺も、そう見えた。
「怖い?」
リューネが聞いた。
こちらを見ず、門を見上げたままだった。
「少し」
「正直なんだ」
「嘘をつくとヴェラに止められる気がする」
リューネは小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
それ以上は説明せず、門の内側へ歩き出す。
「次。中庭」
中庭に入った瞬間、声が重なって聞こえた。
荷を運ぶ声。
何かが床を擦る音。
水桶が揺れる音。
寝台ごと運ばれている魔族がいて、片側の通路では薬草箱を積んだ荷車が止まっている。そこへ布袋を抱えた魔族が横切ろうとして、さらに水桶を持った女が立ち往生していた。
完全に詰まっている。
リューネが小さく息を呑んだ。
「ごめん。少し待って。あれ、先に――」
「薬草箱を右に寄せろ!」
声が出ていた。
中庭の魔族たちが一斉にこちらを見る。
視線が硬い。
何人かの手が、自然に腰へ落ちた。
しまった、と思った。
だが、止まれなかった。
「担架が曲がれない。水桶は壁際じゃなくて中庭側へ置け。戻る時にぶつかる。布袋は今じゃない、先に下ろすな。そこの箱、軽い方を上にしろ。下が潰れてる」
魔族たちの視線が刺さる。
人間が何を言っている、という顔だった。
その奥に、今すぐ黙らせたいという色もある。
リューネが慌てて俺の袖を掴む。
「勝手に指示しないで」
「でも詰まってる。あれ、今のままだと担架が止まる」
担架を運んでいた大柄な魔族が、苛立ったように舌打ちした。
リューネが少しだけ声を張る。
「魔王様の命令で見てもらってるの」
その一言で、空気がぎりぎりのところで止まった。
それでも、薬草箱の荷車が右に寄る。
水桶を持った女が、俺の言った通り中庭側へ下がる。
布袋を抱えた魔族が、一度荷を抱え直して道を空けた。
担架が通った。
止まっていた流れが、するりと動き出す。
俺はそこで、自分がまだ手を上げたままだと気づいた。
何かを指示する時の癖だった。
荷物持ちは、荷が詰まると怒られる。
それより前に動くしかない。
担架を運んでいた大柄な魔族が、通り過ぎ際にこちらを見た。
「礼は言わん。だが、その……助かった」
それだけ言うと、すぐに前を向いて歩いていった。
リューネの手が、俺の袖から離れる。
彼女は流れ始めた中庭を見て、それから俺を見た。
「ちゃんと分かるんだ」
「今さっきも言われた気がする」
「今のは、少し違う」
リューネはそう言って、胸元の杖を抱え直した。
俺は少しだけ背筋が伸びた。
その瞬間、薬草箱を運んでいた女性の腕が視界の端に入った。
袖をまくっていて、青灰色の肌に筋が綺麗に出ている。
リューネが紙に短い印を一つ書いた。
「今、何を書いた?」
「気にしないで」
気にするなと言われると、少し気になる。
だが、聞き返す前にリューネが歩き出した。
中庭の中央には水場があり、その近くに荷置き棚がある。奥には治療室へ続く扉が見えた。
リューネは、少し黙って中庭を見ていた。
俺も、さっきまで詰まっていた場所を見た。
そこへまた、水桶を抱えた魔族が通っていく。
「治療室も見る?」
治療室には、薬草の匂いが満ちていた。
寝台には、数人の魔族が横になっている。大きな腕に包帯を巻かれた者、肩を固定されている者、片足を上げて苦い顔をしている者。
うめき声があった。
人間と同じだった。
それが少し嫌だった。
リューネは、包帯を替えながら短く教えてくれた。
転んで骨を折った者。
外の警戒中に魔物に噛まれた者。
それから、人間の矢が抜けずに運ばれてきた者。
最後の一つだけ、少し声が小さかった。
リューネは棚から包帯を取り出し、寝台の横へ置いた。
その手つきは慣れていた。
迷いがない。
ここでは、案内役というより回復役の顔をしていた。
「そういえば、リューネはなんであの時、外にいたんだ。回復役なんだろ」
彼女の手が、一瞬だけ止まった。
「外縁の巡回には、回復役が一人つくことになってるの」
「危なくないか」
「危ないよ」
返事は早かった。
「でも、怪我をしてから城まで運んだら間に合わないことがある。毒とか、出血とか、魔物に噛まれた傷とか。だから、その場にいないといけない」
リューネは棚へ包帯を戻した。
「回復役も多くない。安全な場所にだけ置いておけるほど、余ってないから」
「怖くないのか」
「怖いよ」
リューネは少しだけ笑った。
「でも、怖いから行かないって言ったら、たぶんもっと怖いことになる」
あの時、聖剣の前で震えていた背中を思い出す。
震えていた。
でも、そこにいた。
「……じゃあ、俺が飛び出したのも、少しは役に立ったか」
「役には立った」
リューネは、こちらを見ずに言った。
「理由は、まだ好きじゃないけど」
「そこは、少しずつ改善していきたい」
「改善できるの?」
「努力目標として」
リューネは、信じていない顔をした。
その後も、リューネは城を案内した。
倉庫では、食料袋と薬草箱がきっちり分けられていた。
食堂では、鍋の匂いに混じって、誰かが俺を見る気配がした。
修繕室では、破れた外套や革帯を直す音がして、休憩所では、怪我をした魔族が壁にもたれて水を飲んでいた。
リューネは、どこでも必要なことしか言わなかった。
俺が余計なものを見た時だけ、杖の柄が脛に飛んできた。
痛い。
修繕室を出たところで、リューネが紙にまた短い印をつけた。
「今のは何だ」
「気にしないで」
「いや、さっきから時々書いてるだろ」
「気にしないで」
二回言われた。
気にするなと言われると、かなり気になる。
リューネは紙を胸元に引き寄せ、俺から隠すように持った。
その仕草で、袖の隙間から細い手首が見えた。
まずい。
また見た。
リューネの目が細くなる。
その時、廊下の向こうに黒い外套が見えた。
ヴェラだった。
柱の影に立ち、こちらを見ている。
ついてきている気配はなかった。
なのに、最初からそこにいたような顔をしていた。
手元には、紙がある。
リューネの方を見ている間、ヴェラは紙に何かを書きつけていた。
その一瞬だけ、こちらへの視線が外れている。
黒い外套の下から伸びる立ち姿は、相変わらず無駄がない。
夕方、俺は紙に記録を書いた。
リューネは向かいに座り、杖を膝に置いている。
破る準備は万全らしい。
俺は真面目に書いた。
少なくとも、最初は。
最初に見た時、この城は魔王軍の要塞に見えた。
壁が高い。
門が重い。
魔王様がいる。
人間には、たぶんそれで十分だ。
でも、中は少し違った。
入ってきた者を止める場所がある。
怪我人を通す道がある。
水と薬草が奥へ流れる。
この城は、攻める城というより、受けて、分けて、生かす城に見える。
ただし、人間はそう呼ばない。
魔王様の城だから。
それだけで、全部が戦争の準備に見える。
ここまで書いて、リューネが少しだけ黙った。
「……ちゃんとしてる」
「だろ」
「そこで得意にならないで」
「難しいことを言う」
俺は続きを書いた。
案内役については、リューネが――。
紙が消えた。
正確には、リューネに奪われた。
「そこから先、いらない」
「まだ何も書いてない」
「書く顔だった」
顔で止められるようになったらしい。
成長なのか、監視体制の強化なのか。
その夜、報告書は魔王様の前に置かれた。
俺は少し離れた位置に立ち、リューネは報告書の横で妙に落ち着かない顔をしていた。
魔王様は紙を読み、時折、指先で肘掛けを叩いた。
「濁っているが、見えてはいるな」
その一言で、胸の奥が少し熱くなる。
ヴェラは無言で別の紙を確認していた。
リューネの報告書の末尾には、何かの印が書き連ねてある。
縦線のような、短い傷のような印。
「リューネ。この印は何だ」
魔王様が尋ねる。
リューネの肩が、びくりと揺れた。
「……あいつが、やらしい視線を向けてきた回数です」
魔王様が笑った。
低く、楽しそうな笑いだった。
「ほう」
ヴェラが、別の紙をリューネの前に差し出した。
そこには、リューネの報告書の倍はある印が並んでいた。
「リューネ。まだまだだな」
ヴェラは淡々と言った。
「この男の欲望を甘く見すぎだ」
リューネの表情が、ひどく曇った。
「……私、半分くらい見落としてたんですか」
「正確には分からん」
ヴェラは紙を見下ろした。
「私の記録も、完全ではない」
だが、ヴェラのことを見た分は、この紙に入っているのだろうか。
リューネの顔がさらに曇った。
「落ち込むな」
魔王様は笑みを残したまま言った。
「これを完全に見張れる者は、そう多くない」
俺は何も言わなかった。
それでも、魔王様の楽しそうな顔は、やっぱり可愛かった。
リューネの紙に、また一本、線が増えた。




