4話 惜しいところには手が届いた。
「魔王様。一つ提案があります」
声が出たのは、ほとんど反射だった。
アードゥ・テイカー。
名前を呼ばれた。
それだけで、床に転がっていた体の奥が変な熱を持った。
「ほう。申してみよ」
魔王様は玉座に身を預けたまま、こちらを見下ろしている。
その目には、まだ少しだけ楽しむような色があった。
「俺はこれでも、勇者パーティーの雑用係でした。それなりにあいつらのことを知っています。だから――」
「それ以上言うな」
声は大きくなかった。
けれど、広間の空気が凍った。
紫の目から、笑みが消えていた。
「お前が今やろうとしたことは、忠誠ではない」
魔王様は言った。
「裏切りだ」
喉が詰まる。
「ち、違います。俺は、魔王様の役に――」
「昨日まで共に歩いた者の情報を、私の前に差し出そうとした。補給、装備、癖、弱点。違うか」
違わなかった。
「一度裏切った者は、信用に値しない。なぜなら、もう一度裏切るからだ」
リューネが息を呑む音がした。
ヴェラは何も言わない。
ただ、いつでも俺を止められる位置に立っている。
「私は情報が欲しい。人間が我らをどう見ているのか。勇者がどう動くのか。補給路も、陣形も、弱みも、知れるなら知りたい」
魔王様は、わずかに目を細めた。
「だが、今のお前からは受け取らぬ」
「……なぜ、ですか」
「分からぬか」
分からなかった。
魔王様の役に立ちたかった。
この人に、使えると思われたかった。
「捨てることを忠誠と呼ぶな」
魔王様の声は冷たい。
「手近なものを投げ捨て、今いる場所に媚びることは誰にでもできる。仲間を売ることも、過去を切ることも、口だけなら容易い」
それでも、最後のところだけ、わずかに違って聞こえた。
「忠誠を誓うというのであれば、示してみよ」
魔王様は、俺を見下ろした。
「勇者の情報ではない。昨日までの仲間の命でもない。貴様自身の価値を」
何も言えなかった。
「捨てるのではない。貴様自身の価値を示し、差し出す。それが忠誠だ」
好きです、と言った時より恥ずかしかった。
昨日まで一緒に歩いていた連中の喉元を、俺は差し出そうとしていた。
「一晩考えろ」
魔王様の声が、少しだけ柔らかくなった。
「お前に何があるのか」
そして、ほんのわずかに口元を緩める。
「もし本当に何もないなら、その時は笑ってやる」
笑われたい。
そう思いかけて、すぐに違うと思った。
「ヴェラ」
魔王様が呼ぶと、黒い外套の女が静かに一歩前へ出た。
「牢へ。手荒くはするな」
「承知しました」
ヴェラの手が俺の肩に触れる。
それだけで、体の向きが決まった。
広間を出る直前、思わず振り返った。
魔王様はもう、こちらを見ていなかった。
それが、思ったより痛かった。
石造りの廊下は冷えていた。
壁には獣脂の灯りが等間隔に置かれ、足音が低く返ってくる。
すれ違う魔族たちは、俺を見ると足を止めかけた。
ヴェラが視線だけを向けると、誰も何も言わなくなる。
「人間」
ヴェラが前を向いたまま言った。
「魔王様のお言葉を、軽く扱うな」
返事をしようとして、うまく出なかった。
「次に同じことをしようとした時、私は止める。魔王様は斬るなと仰ったが、手段までは指定されていない」
「それ、止めるの範囲がかなり広くないですか」
「広い」
即答だった。
地下へ降りる階段は二つ。
一つ目は短い。
二つ目は長い。
途中で空気が少し湿った。
水音が聞こえる。
牢は、思っていたより清潔だった。
鉄格子。石の床。薄い毛布。水の入った桶。
魔族の牢、思ったよりまともだな。
そう思った自分に、少し腹が立った。
「入れ」
格子の扉が閉じる。
鍵の音が響いた。
ヴェラは格子の向こうから、しばらく俺を見ていた。
「一晩考えろ。明日、魔王様の前で何を口にするか。よく選べ」
黒い外套が揺れる。
足音が遠ざかっていった。
貴様自身の価値を。
勇者ではない。
剣士でもない。
魔法使いでもない。
治癒術師でもない。
荷物持ちだ。
しかも、雑魚と鑑定された荷物持ちだ。
鍵の位置。
見張りの数。
廊下の曲がり方。
ここへ来るまでに降りた階段の数。
癖で見ていた。
逃げるなら、鍵。
次に見張り。
廊下を右へ出て、長い階段を上がる。
その先で詰む。
仮に、この城から出られたとしても、その先は魔族領の森だ。
担がれていた時間を思い出す。
揺れ方。
足元の音。
湿った土の匂いが薄れたタイミング。
石の上に変わってから、さらに運ばれた距離。
境界林のすぐそばではない。
水場を知らない。
食える草を知らない。
魔物の避け方も知らない。
夜の方角も分からない。
俺一人では、生き残れない。
魔王様は正しかった。
少し森の奥にでも放っておけば、一晩も持たない。
雑魚と言われた時より深く刺さった。
俺は毛布の上に腰を下ろした。
逃げられない。
戻れない。
勇者パーティーの情報を売ることも、忠誠ではない。
では、俺には何がある。
魔王様は、人間がなぜ魔族を殺すのかを知りたがっていた。
リューネを助けた礼を言った。
ヴェラは、魔王様の言葉を本気で守ろうとしていた。
リューネは、俺に問うた。
あなたも、私を人だとは思ってなかったの、と。
いくつかの線が、頭の中で繋がりかけた。
答えではない。
ただ、方向だけは見えた気がした。
翌朝。
見張りが交代し、廊下の足音が増えた頃、ヴェラが現れた。
「出ろ」
俺は立ち上がった。
目は冴えていた。
体は重かった。
ヴェラは俺の顔を見ると、わずかに目を細める。
「何か思いついた顔だな」
「はい」
「ならば、口にする前に一度飲み込め」
ありがたい忠告だった。
一度飲み込んだ。
それでも、たぶん駄目なものは駄目なままだった。
広間へ戻ると、魔王様は昨日と同じ場所にいた。
黒い衣。
紫の目。
玉座に座る姿。
また息が止まりかけた。
かわいい。
いや、今はそれではない。
「一晩考えたか」
魔王様の声が降ってくる。
昨日の冷たさは、少しだけ薄れていた。
だが、甘くはない。
「はい」
「ならば聞こう。貴様の価値とは何だ」
ヴェラが横に立っている。
リューネも少し離れたところにいた。昨日より顔色はいい。こちらを見る目には、まだ警戒が残っている。
「魔王様は、本当に人間と戦いたいんですか?」
広間の空気が、ほんの少し変わった。
ヴェラの目が細くなる。
リューネが、杖を抱く指に力を込めた。
魔王様だけは、動かなかった。
「大きく出たな」
魔王様は笑わなかった。
「貴様は、我らをどれほど知っている」
「知りません」
すぐに言った。
言ってから、少し怖くなった。
「でも、何か引っかかるんです。俺なんかを捕虜にして、でも、さっきの情報は受け取ってくれなくて」
喉が乾く。
「尋問も、拷問もない。牢には毛布も水もありました」
リューネが、小さく瞬きをした。
ヴェラは何も言わない。
「そんな人が、なんで人間のことを聞くんだろうって」
「人間と話すのが楽しいと感じただけかもしれんぞ」
魔王様が言った。
声は静かだった。
「それならそれでいいんです」
「よいのか」
「はい。話ができるんですから」
広間は静かだった。
俺は、リューネの方を見た。
昨日、彼女に聞かれた言葉が、喉の奥に残っていた。
あなたも、私を人だとは思ってなかったのか、と。
「でも、人間は話そうともしないんですよ。魔族は滅ぼす。それだけで」
ヴェラの外套が、わずかに揺れた。
「人間側は、話す前に終わらせていると?」
「たぶん、それです」
ヴェラはそれ以上、何も言わなかった。
「俺は勇者ではありません。剣も魔法も使えません。でも、人間の側にいました。人間がどこで見なくなるのかは、少し分かります」
「では、あなたはどうするのです?」
ヴェラが言った。
冷たい声だった。
けれど、切り捨てる声ではなかった。
「だから俺は、人間に伝えたいんです」
魔王様の指が、肘掛けから離れた。
ほんの少しだけ。
「伝える?」
魔王様が問い返す。
「何をだ」
ここで止まるべきだった。
たぶん、ここで止まっていれば良かった。
だが、魔王様が聞いてくれている。
ヴェラが止めない。
リューネが逃げずに聞いている。
それが嬉しかった。
「魔族の女の子は、めちゃくちゃ魅力的だということを」
広間の空気が冷え切った。
リューネが、何とも言えない顔でこちらを見た。
ヴェラの手が、外套の下で動いた。
魔王様は、しばらく黙っていた。
どうやら、何かを間違えたらしい。
何が悪かったのかは、分からなかった。
「アードゥ」
魔王様が名を呼んだ。
魔王様は、少しだけ黙った。
沈黙が長い。
ヴェラが低く言う。
「惜しいところには手が届いたのですが」
魔王様は、ようやく口元を緩めた。
「なぜ最後に女の話になる」
「俺が、それで止まったからです」
「胸を張るな」
胸を張っていたらしい。
慌てて背を丸めた。
リューネが小さく息を吐く。
笑ったのか、呆れたのか、よく分からない音だった。
「人間の目。そこだけは使える」
息を止めた。
「ただし、濁っている」
「否定できません」
「リューネ。見張れ」
リューネが目を瞬かせた。
「私が、ですか」
「お前に関わる話でもある。それに、この男がまた道を踏み外した時、お前が一番早く気づくだろう」
リューネは少し困った顔で俺を見た。
まだ距離のある目だった。
「……分かりました」
それでも、逃げなかった。
俺は思わず頭を下げた。
「よろしくお願いします」
リューネは杖を抱え直した。
「変なことを書いたら、読まないで破ります」
「それは困ります。俺の価値が」
「困るなら、変なことを書かないでください」
正論だった。
魔王様が、肘掛けを指先で軽く叩いた。
「アードゥ・テイカー。忠誠はまだ認めぬ」
胸が、少しだけ沈む。
「だが、価値を示す機会は与える」
沈んだ胸が、すぐに跳ねた。
「命じる」
魔王様は言った。
「人間の目で、我らを見よ」
その声を聞いて、俺は深く頭を下げた。
道が一本見えた。
入口には、ヴェラが剣を持って立っている。
リューネは杖を抱え、こちらを見ている。
魔王様は、玉座の上で笑っていた。
かなり怖い。
でも、少しだけ嬉しかった。
頭を下げた拍子に、視線が落ちた。
ヴェラの黒い外套。その内側。
腰のスリットから、白い脇腹が覗いていた。
まずい。
「魔王様」
ヴェラの声が低く落ちた。
「この者は、やはりここで切り捨てるべきかと」
「済まぬ、ヴェラよ」
魔王様は、楽しそうに笑った。
「一度命を下した私の手前、刃を引いてくれ」
命拾いした。
たぶん、今ので二度目だ。
惜しいところには手が届いたらしい。
ただ、目線は届かせてはいけないらしい。




