3話 人間はなぜ魔族を殺すのか
魔王様の足先が、俺の肩から離れた。
少しだけ残念に思った瞬間、魔王様の声が降ってきた。
「人間よ」
低く澄んでいて、さっきより少しだけ柔らかい。
「大事な話をしよう」
はい、と答えようとして、喉が変な音を立てた。
魔王様が目を細める。
目元は少しだけきついのに、睫毛のせいで妙に甘く見える。
怖い。
なのに、かわいい。
「別に、私は貴様を殺すつもりはない」
優しい。
そう思った直後に、魔王様は続けた。
「どうせ捨て置いても大した脅威にはならん。少し森の奥にでも放っておけば、一晩も持つまい」
思わず頷いた。
頷いてから傷ついた。
魔族領の森で、武器は短剣一本。食料は少し。
勝てる相手がいない。
「処遇を決めるのは後だ。その前に、貴様に聞きたいことがある」
魔王様は玉座に身を預けたまま、肘掛けを指先で一度叩いた。
軽い音なのに、背筋が跳ねる。
そのすぐ横に、黒い外套の女が立っていた。
片目を覆う仮面。黒髪。白に近い肌。
外套の奥から覗く手は細いのに、指先にまったく隙がない。剣に手を伸ばす前から、俺の首が落ちるところまで見えているような女だった。
「ヴェラ」
魔王様が呼ぶ。
「この男が嘘をついたと思えば、その時は止めよ。斬れとは言っていない。まだな」
まだな。
今、まだなと言った。
ヴェラと呼ばれた黒い外套の女は、静かに頷いた。
「承知しました。止めるだけで済むよう、努力します」
済ませる気が薄い声だった。
怖い。
だが、外套の下から少し見える横顔は、正直かなり整っている。冷たい横顔。仮面の下に隠れた片目。細い顎。薄い唇。外套を外したら、たぶん相当な美人だ。
危ない。
魔王様が見ていなければ、もっと危なかった。
「リューネ」
魔王様がもう一人の名を呼んだ。
少し離れたところで、小柄な魔族の少女が肩を震わせた。
あの子だ。
兜が落ちた時、黒い髪がこぼれた。灰色がかった肌に、赤紫の瞳。今は軽い包帯を巻き、細い杖を胸元に抱いている。怯えがまだ残っているのに、こちらを見ようとして、見きれずに少しだけ視線を逸らす。
かわいい。
また声に出るところだった。
「お前も聞いておけ。これは、お前が助かった理由にも関わる」
リューネは小さく頷いた。
その仕草がまた可愛い。
また声に出るところだった。
「人間と話す機会があれば、一度聞いてみたかった」
魔王様の視線が、俺に戻る。
背筋が勝手に伸びた。
「なあ、アードゥよ。何故、人間は私たちを殺す? 何故、そこまで執拗に滅ぼそうとする?」
胸の奥が、少しだけ詰まった。
舌の根が冷えた。
魔王様は微笑んでいない。怒鳴ってもいない。ただ、俺を待っている。
「……人間は、魔族を人だと思っていません」
言葉にした瞬間、広間の空気が少しだけ冷えた。
リューネの指が杖を握りしめる。
ヴェラの外套が、ほんの少しだけ揺れた。
「続けよ。飾るな。顔を見て答えろ」
魔王様は足を組み替えた。
黒い布の奥で足先が揺れ、視線が持っていかれそうになる。
まずい。
慌てて顔へ戻す。
魔王様の目が、少しだけ細くなっていた。
見られていた。
「魔族は、人に仇なす魔の種だと教えられています。モンスターを操り、人の土地を脅かし、放っておけば人類を滅ぼす。だから見つけたら討つべきだと」
「我らは数が少ない」
魔王様は短く言った。
「人間より強い者は多い。だが、数では比べものにならん。人間の町一つ分の数すら、この城にはおらぬ」
その声には、怒鳴り声より静かな重さがあった。
「もちろん、我らも人間を殺す。踏み込んでくる者を斬り、攻めてくる兵を焼く。そこを綺麗に飾る気はない。だが、人間は我らの領域まで来る。森を越え、沼を越え、谷を越え、わざわざ殺しに来る」
魔王様の紫の目が、こちらを見下ろす。
「その理由を聞いている」
喉が乾いた。
リューネが、こちらを見ていた。
怯えも、困惑も、まだ消えていない。けれど、逃げずに聞いている。赤紫の瞳が少し潤んでいて、泣きそうというほどではないのに、ひどく頼りなく見えた。
あの顔を斬られるのは、やっぱり無理だ。
「魔族領には、魔鉱脈があります。希少な薬草も、古い遺跡も、強い魔物の素材もある。王国では、それらを人類の未来に必要な資源だと言います」
「つまり、人間は欲しいのだな。我らの住む土地が。そこにある鉱石が。薬草が。魔物の素材が」
否定できなかった。
人類の未来。
王国の繁栄。
辺境開拓。
魔族討伐。
王都で聞いた言葉が、喉の奥に並んだ。
「でも、人間はそれを奪うとは呼びません」
「何と呼ぶ」
「討伐です」
広間が静まった。
自分で言って、喉の奥がざらつく。
「魔族は人ではないから。人ではない相手から土地を取っても、それは侵略ではない。資源を取っても、略奪ではない。邪魔なものを取り除く。だから、討伐です」
ヴェラの気配が尖った。
リューネが小さく息を呑む。
俺は床に膝をついたまま、口を閉じたくなった。
けれど、魔王様はまだこちらを見ている。
逃げられなかった。
「モンスターは、我らの同胞ではない」
魔王様が言った。
「あれらを使役する者はいる。力で従わせ、荷を運ばせ、土地を守らせることもある。だが、あれらは自然に湧く獣だ。人間が馬や牛を使うのと、どれほど違う」
答えられなかった。
魔王様は顎に添えた指を動かさない。
答えを探すしかなかった。
「人間から見れば、違うんだと思います。モンスターは人間を襲います。村を襲うこともある。家畜も、人も食います。だから、そのモンスターを使う魔族も、やっぱり敵だと」
「馬に蹴られたから、馬を使う者をすべて殺す。そういう理屈か」
「たぶん、人間はそうは言いません」
「なら、どう言う」
「魔族は魔族だから、と」
答えた瞬間、声が軽く落ちた。
それでも、王都なら通じる。
魔族だから。
人ではないから。
討つべきだから。
「じゃあ」
細い声がした。
リューネだった。
彼女は杖を抱いたまま、こちらを見ていた。小柄で、まだ戦場の恐怖が抜けきっていない顔。それでも、赤紫の瞳だけは逃げていなかった。
「あなたも、私を人だとは思ってなかったの?」
刺さった。
魔王様の問いより、ずっと近いところに刺さった。
リューネは続けない。
ただ待っている。
沈黙が喉に絡む。
「……最初は」
声が掠れた。
「最初は、魔族だと思っていました。敵だと」
リューネの指が少しだけ震える。
ヴェラの視線が、今度こそ首筋に当たった気がした。
「でも、兜が落ちて、顔が見えて」
口の中が乾く。
魔王様の目が、逸らすことを許さない。
「女の子だと思いました」
リューネの顔が、よく分からない表情になった。
嫌悪。
困惑。
それから、ほんの少しだけ、怒りにも似たもの。
全部混ざっている。
「人としてじゃなくて?」
今度は魔王様が聞いた。
声は静かだった。
けれど、さっきより怖い。
「……最初は、たぶん、女としてです」
ヴェラの外套の下で、何かが小さく鳴った。
刃物ではないと思いたい。
「では問おう」
魔王様が、少しだけ身を乗り出す。
裾がわずかに揺れた。
視線がまた足に落ちかけて、慌てて顔へ戻す。
魔王様の目は、笑っていなかった。
「リューネが女でなければ、貴様は剣の前に飛び出したか?」
息が止まった。
広間が、やけに静かになった。
リューネの目が俺を見ている。
ヴェラも見ている。
玉座の周りの魔族たちも、たぶん見ている。
綺麗な答えなら、いくつか浮かんだ。
でも、言えなかった。
「……分かりません」
声が落ちた。
「分からないのか」
「はい」
顔が熱い。
恥ずかしい。
怖い。
「男だったら、動けなかったかもしれません。老人でも、子供でも、たぶん分かりません。でも、あの時は女の子の顔が斬られるのが嫌で、体が動きました」
ひどい理由だ。
それが一番近かった。
リューネは黙っていた。
泣いてはいない。
怒鳴りもしない。
ただ、少しだけ目を伏せた。
杖を抱く指が、白くなる。
その仕草が痛かった。
「浅ましいな」
魔王様が言った。
「はい」
「誇れるものではない」
「はい」
「だが、今の答えは飾っておらぬ」
魔王様の声が少しだけ柔らかくなる。
胸が跳ねた。
怖い話をしているのに、声に反応してしまう自分が嫌になる。
「貴様の欲望は浅い。だが、浅いからこそ、我らを魔族という言葉だけで塗り潰せなかった。人として見る前に女として見た。ひどい話だが、その一点で剣の前に飛び出した」
否定できなかった。
「魔王様」
リューネの声がした。
まだ少し震えている。
「その人間を、信じるのですか」
「信じはしない」
魔王様は即答した。
少し傷ついた。
「だが、この男は今、嘘で自分を飾らなかった。信じるには足りぬが、聞く価値はある」
冷たい距離だった。
「ヴェラよ、この男に水を。ああ、毒は入れるなよ?」
「……はい」
なんだ今の間は。
ヴェラは外套の奥から手を出した。
白い指。細い手首。外套がずれて、銀の留め具が見える。仮面の下の片目が、ぞっとするくらい冷たいのに、横顔は綺麗だった。
外套を外したら、やっぱりかなりの美人だと思う。
危ない。
だが、魔王様が近くにいる。
ヴェラは水の入った杯を持ってくると、俺の前に置いた。
手渡しではなかった。
床に置いた。
扱いとしては、まだ捕虜か犬に近い。
喉が乾いていたので飲んだ。
悔しいくらい美味かった。
「続きは後にしよう」
魔王様はそう言って、玉座の肘掛けに指を置いた。
「貴様の処遇も、貴様が我らに何を差し出せるかも、まだ決めてはおらぬ」
ほんの少しだけ息が詰まる。
「だが、アードゥ・テイカー」
さっきまで人間と呼ばれていたのに、名前になった。
それだけで背筋が伸びる。
「今の話は覚えておく」
魔王様は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「人間が我らをどう見ているのか。貴様が我らをどう見てしまったのか。その両方をな」
返事をしようとして、声が詰まった。
魔王様の指が、肘掛けを軽く叩く。
その音が、妙に胸に残った。
魔王様は、すごく楽しそうな顔をしていた。
新しいおもちゃを見つけた子供のような。
それでいて、こちらの壊れ方まで楽しんでいるような表情。
殺されなかった。
信じられたわけでもない。
それなのに、また少し、魔王様の側を離れがたくなってしまった。




