2話 魔王様、超かわいい 【挿絵】
「痛い、痛いって!」
どれだけ文句を言ったところで、運び方は改善されなかった。
両腕ごと胴を縛られ、足首までまとめられている。縄の位置が絶妙に悪い。揺れるたびに肩と腰と尻が順番に悲鳴を上げた。
魔族の女が二人がかりで俺を担ぎ、がたがたした森の地面を進んでいた。
荷物持ちが荷物になる日が来るとは思わなかった。
「もっと丁寧に運んで、うぐぅ!?」
口の中に、何か布を突っ込まれた。
「黙ってろ」
低く冷たい声だった。
ふぐぅ、としか返せない。
しかし、口に押し込まれた布から、かすかに甘い香りがした。
なんだこれ。
花ではない。薬草でもない。汗と革と金属の匂いに混じって、少しだけ柔らかい。女物の布なのだろうか。いや、待て。俺は今、猿轡を噛まされている。状況はかなり悪い。悪いはずだ。
「急に静かになったな」
「なんだこいつ」
呆れた声がする。
違う。屈服したわけではない。
口を塞がれたからだ。
あと、少しだけ匂いに意識を持っていかれた。
後半は認めたくない。
目も布で覆われた。
視界が消える。
そのせいで、耳と鼻だけが妙に敏感になった。
足音が近い。革鎧の擦れる音。金属の揺れる音。俺を担いでいる女たちの息。森の湿った匂いに、知らない香草みたいな匂いが重なる。
近い。
いや、近いどころではない。運ばれているのだから当然だが、女の腕が体の下にある。肩に当たる。腰にも当たる。まずい。非常にまずい。
簀巻きでなければ、色々と終わっていた可能性がある。
いや、今も十分終わっている。
そんなことを考えていると、耳元に小さな詠唱が届いた。
聞いたことのない言葉だった。
けれど、響きで何となく分かる。魔法だ。たぶん、俺に向けられている。
体の表面を、薄い膜で撫でられるような感覚が走った。
「鑑定する」
誰かが言った。
俺の能力なり何なりを見ているのだろう。
見ても面白いことはない。
「……こいつ、本当にただの荷物持ちだ」
ほらな。
「魔法も剣もからっきし。体力も普通。反応も鈍い。戦闘に関しては雑魚」
雑魚って。
これでも頑張った方だと思っているのだが。
「でも、運搬と整理だけ少し高い」
「何その偏り」
「地図記録もある。逃走経路の確保もそこそこ」
「勇者パーティーにいた理由、それ?」
ひどい。
ひどいが、否定できない。
「そんなことないでしょ。雑魚でも勇者パーティーの人間なんでしょ? そんなことって」
その声は、足の方から聞こえた。
震えがまだ残っている、細い声。
聞き覚えがあった。
さっき助けてしまった、あの回復役の魔族だ。
「リューネ、自分で見てみる?」
「……見る」
また、薄い膜みたいな感覚が走った。
少し沈黙。
「うわ。ほんとだ。可哀そう」
ふぐぅ。
猿轡越しに抗議した。
抗議したが、声にならなかった。
「何か言ってる」
「放っておけ」
放っておかれた。
可哀そうは刺さる。
雑魚より刺さる。
足元の感触が変わった。
土ではない。
石だ。
担がれた体が、ごつごつと跳ねる。森の湿った匂いが薄くなり、冷えた岩と、獣脂の灯りの匂いが混じってくる。どこか建物の中に入ったらしい。
声が増えた。
女の声。低い声。高い声。鎧の音。布の擦れる音。
魔族の拠点。
たぶんそうだ。
見えないのが怖い。
なのに、低い声で命令する女、短く返事をする女、笑いを押し殺す女の声が妙に耳に残る。
命の危機にあるはずなのに、耳が忙しい。
「魔王様がお呼びだ」
その言葉で、周りの音が少し変わった。
軽口が消える。
俺を担いでいる女たちの動きまで、ほんの少し硬くなった気がした。
魔王様。
人類が滅ぼすべき悪の名。
森でその名を聞いた時、少しだけ期待してしまった。
できれば女性であってほしいなどと考えた自分を、心底どうしようもないと思った。
今も思っている。
だが、思ってしまったものは仕方がない。
扉が開く音がした。
重い。
木ではなく、石か金属の扉だ。
空気が変わる。
広い場所に出た。
音の響きが遠い。足音が高く返ってくる。冷えた石の匂いに、香のような甘い煙が混じっていた。
担いでいた女たちが足を止める。
「連れてきました」
「置け」
声がした。
女の声だった。
低い。
けれど澄んでいる。
耳の奥を通り抜けて、胸の真ん中に落ちるような声だった。
まだ顔も見ていないのに、かなりまずい。
「痛っ!」
床に転がされた。
魔王様の前でも雑なのか。
「目隠しを外せ。猿轡もだ」
少し名残惜しい。
いや、名残惜しんでいる場合ではない。
目隠しも解かれる。
ぼやけた視界に、光が戻ってきた。
最初に見えたのは、玉座ではなかった。
足だった。
黒い布の奥から伸びる、すらりとした足。
細いだけではない。膝から足首までの線が綺麗で、無駄がない。肌は人間より少し暗く、灯りを受けるとしっとり光って見えた。
床に触れているだけなのに、何かの儀式みたいに見える。
今まで見た中で、一番綺麗な足だった。
視線を上げる。
黒を基調にした衣は、肌を隠しすぎず、見せすぎもしない。布の奥にある体の線だけが、こちらの目を引っ張ってくる。
腰は細い。
胸元で、一度視線が止まりかけた。
ここで止まったら死ぬ。
さらに視線を上げる。
首筋。顎。唇。目。
そこから先は、もう駄目だった。
深い色の唇は笑っていないのにどこか柔らかいし、鼻筋は綺麗だし、頬の線はすっとしているし、紫の目は宝石みたいなんて雑な言葉では全然足りないし、長い睫毛のせいで冷たい目つきのはずなのに妙に甘く見えるし、角は滑らかな曲線で黒髪の艶は玉座の灯りを吸っているし、俺を見る目は完全に意味の分からないものを見る目なのに、そのわずかに寄った眉が困っているようにも見えて、怖いのに、綺麗なのに、それ以上に、どうしようもなくかわいい。
魔王様、超かわいい。
「人間」
やはり綺麗な声だった。
「リューネを助けたこと。まずは礼を言う」
リューネ。
あの回復役の名。
魔王様は、まっすぐこちらを見ていた。
「ありがとう」
その一言で、頭の中から色々なものが抜け落ちた。
魔王。
人類の敵。
滅ぼすべき相手。
そう教わってきたはずなのに。
目の前の女は、俺に礼を言った。
声は優しくて、顔はかわいくて、足は本当にとんでもなかった。
無理だ。
こんなのは無理だ。
「だが、なぜ助けた」
魔王様が続ける。
「魔族は人間にとって、滅ぼすべき存在のはず。それも、勇者の一行である貴様がなぜだ」
答えたい。
とても答えたい。
だが、口の中には布の名残があり、喉は変に乾いている。
何より、魔王様の顔が近い。
実際には玉座の上にいるのに、意識だけが勝手に距離を詰めていた。
まずい。
ちゃんと喋れる気がしない。
「答えられぬか」
「い、いえ」
声が裏返った。
広間の空気が少し揺れた。
誰かが笑いかけた気配がする。
やめろ。笑うな。今の俺はかなり真剣だ。
真剣なはずだ。
「話せ」
魔王様の声が、少しだけ柔らかくなる。
その声は駄目だ。
優しく命令されると、人間は判断を誤る。
全人類がそうとは言わないが、少なくとも俺は誤る。
「魔王様」
言うべきことは分かっている。
リューネが女だったから。斬られるのが嫌だったから。つい体が動いたから。
そう言えばいい。
「好きです」
広間が凍った。
あれ。
違う。
少なくとも、今言うべきことではない。
魔族の女たちの視線が一斉に刺さる。痛い。縄より痛い。セレネの杖より痛い。
リューネらしき細い声が、どこかで小さく息を呑んだ。
黒い外套の女が、呆れたように言う。
「殺しますか」
待ってほしい。
早い。
判断が早すぎる。
「待て」
魔王様が言った。
広間が静まる。
俺も止まる。
魔王様は、しばらく俺を見ていた。
やはり、意味の分からないものを見る目だった。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑った。
多分、笑った。
心臓が変な跳ね方をした。かわいい。
「今のは、質問への答えか」
「違います」
即答した。そこは即答できた。偉いぞ。
「いえ、違わない部分もありますが、今聞かれたことへの答えとしては違います」
「では、改めて問う。なぜリューネを庇った」
今度こそ間違えてはいけない。
喉を鳴らす。
床に転がされたまま、簀巻きのまま、魔王様を見上げる。
我ながら最悪の姿勢だった。
「女でした」
また静かになった。
魔王様は目を細める。
「それだけか」
「かわいい女の子でした」
リューネが、どこかで短く息を呑んだ。
もう止まらなかった。
「正直、めちゃくちゃタイプの女の子でした」
沈黙が深くなる。
魔王様の目が、さらに細くなった。
「……私よりも、か?」
広間の空気が変な方向に固まった。
何を聞いているのですか魔王様。
今それを聞きますか。
しかし、聞かれた以上、答えるしかない。
「魔王様の方がタイプです!」
自分でも驚くほど、迷いのない即答だった。
黒い外套の女が、額に手を当てた気配がした。
リューネの声が震える。
「そこは……迷うところでは……」
すまない。
迷えなかった。
魔王様は、しばらく黙っていた。
それから、肩をわずかに震わせた。
笑っている。
今度ははっきり分かった。
「そうか」
魔王様は、楽しそうに言った。
「貴様は、ずいぶん分かりやすい人間だな」
褒められたのだろうか。
たぶん違う。
でも、魔王様の声が楽しそうだったので、もう何でもよかった。
リューネが小さく言う。
「理解できません」
それはそうだと思う。だって、俺も何言ってるのかあんまり理解してないし。
黒い外套の女が、魔王様へ視線を向ける。
「処分すべきです。勇者の一行です。能力は低くとも、情報を持っています」
「情報は取れる」
魔王様は俺を見下ろしたまま言った。
「それに、この男は嘘をついていない」
「だからこそ危険です」
「違う」
「分かりやすいのだ」
嫌な予感がした。
魔王様が、玉座の上で足を組み替えた。
それだけで視線が持っていかれる。
黒い布の下から伸びる足先が、俺の肩を軽く突いた。
息が止まった。
「ここまで欲望に忠実なのであれば、使い道の一つや二つあるだろう?」
魔王様は、楽しそうに目を細める。
「なあ、人間?」
思わず頷いた。
頷いてしまった。
なんで俺の体はこんなに正直なんだろうか。
自分でもちょっと引く。
「殺すな」
黒い外套の女が眉を動かした。
「よろしいのですか」
「ああ。少なくとも、今殺すには惜しい」
魔王様の足先が離れる。
離れた瞬間、少しだけ残念に思った。
魔王様は、俺を見下ろしている。
かわいい。超かわいい。
そのうえ、かなり賢い。
この人には、たぶん逆らえない。
体の方が、先に諦めている。




