1話 人類の敵を女として見た日 【挿絵】
魔族領との境界に近づいて、森の匂いは徐々に変わってきた。
湿った土の匂いに混じって、錆びた鉄のような臭いがする。魔力の濃い土地はこういう匂いがするらしい。
王都の学者が偉そうに言っていたが、どうやら本当らしい。
頭上に伸びる深い緑は、日の光をうっすらとしか通してくれない。風も重い。耳に届くのは、踏みしめる土の音と、遠くで鳴く名も知らない鳥の声くらいだ。
実につまらない景色だった。
そんな景色から、視線を前へ向ける。
そこにあるのは、見慣れた、それでもまだまだ魅力的な脚部。
濃紺のローブの裾が、歩くたびに少しだけ揺れる。その隙間から見える足運びを、ついつい目で追ってしまう。仕方ない。綺麗なものは綺麗だし、目が追ってしまうのは男の性だ。というか、勇者パーティーの荷物持ちなんて大役を引き受けているのだから、これくらいの役得はあっていいと思う。
「アードゥ」
そんな魅力的な脚の持ち主が、低く掠れた声で俺の名を呼んだ。
セレネ。
勇者パーティーの魔法使い。銀色の髪を高い位置で束ね、濃紺のローブの袖を雑にまくり、杖を肩に担ぐようにして歩く女だ。口も態度も悪いが、あの声で名前を呼ばれるのは嫌いじゃない。
「見るなら私にしときな。レイネにその目を向けたら、あんたの眉毛だけ焼くよ」
「俺は魔素濃度がローブの布地に与える影響をだな、記録係として観察していただけであって」
「なら記録しな。『魔法使いセレネの尻を観察しても魔族の位置は分からない』ってね」
正論だった。
しかし、人間は正論を突きつけられた時こそ、己の知性を試される。
「いや、分からないとは限らないだろ。尻の揺れ方で地面の傾斜とか――」
「続けたら燃やすよ」
「はい」
口を閉じた。
生存本能は、色欲より少しだけ強い。
横から、金属板を指で叩く小さな音がした。
「セレネ、眉毛は残してください。人相が変わると次の町で不要な説明が増えます」
治癒術師のレイネが、淡々と言う。
淡い白の外套。術式の刻まれた薄い金属板。柔らかい顔立ちに、やたら冷静な目。近づくと、乾かした薬草と清潔な布の匂いがする。あの匂いは妙に背筋が伸びるから困る。
「それからアードゥさん。私の方に視線を移した場合は、治療の優先順位を一段下げます」
声もまた、冷たい水みたいだった。
ぞくっとする。
怖いのに、これはこれで悪くない。
「具体的で怖いな、レイネは」
「あなたにはまだ使い道がありますから。ですが、不快は不快です」
「俺の扱い、道具寄りじゃないか?」
「道具は手入れすれば文句を言いません」
そこは否定してほしかった。
セレネが喉の奥で笑った。笑い方は雑だが、少し低く響くその声がまた耳に残る。
「そういうこと。あんたはヘタレだから許されてるだけだ。仮に血迷っても、私が三秒で床に転がす。それくらい分かってるだろ」
分かっている。
分かっているから悲しい。
「俺にも男としての矜持はあるんだが」
「あるなら荷物を持ち直しな。口より足を動かして」
言い返そうとしたところで、先頭のリュシオンが足を止めた。
勇者が黙ると、空気が硬くなる。
俺が黙ると、世界が少し平和になるらしい。
納得はしていない。
「遊びはそこまでだ。ここから先は魔族領の外縁に入る。セレネ、索敵を続けろ。レイネ、支援術式の準備を。アードゥは記録と後方確認に徹しろ」
「了解。後方確認は得意分野だ」
セレネの杖の石突が、俺の足の甲を正確に踏んだ。
痛い。
女に踏まれるのは嫌いではないが、足の甲は違う。そこは情緒がない。
「今回の任務は、境界林に現れた魔族の小隊を討つことだ。斥候の報告では、彼らは鉱脈地帯の下見をしていた可能性がある」
「魔鉱脈か。王都の連中が欲しがってるやつだろ」
「必要だから確保するんです」
レイネは金属板から目を離さずに言った。
「魔鉱があれば、結界も治癒薬も増やせます。魔族に持たせておく理由はありません」
「でもさ、一回くらい話してみたりはしないのか?」
何となく口から出た。
言葉が通じるなら、少しくらい話してもいいんじゃないか。
その程度の、軽い疑問だった。
セレネが横目で俺を見た。
「試す価値があると思ってる時点で、あんた結構危ないよ」
「いや、ほら、言葉が通じるなら、多少は……」
「気にするところじゃありません」
レイネが切った。
ばっさりだ。
「仕組みではない」
リュシオンの声が、それより低く響いた。
喉が詰まる。
勇者は森の奥を見据えたまま、当然のことのように続ける。
「魔族は人類の敵だ。女子供であろうと、老いた者であろうと関係ない。人ではないのだから、人として扱う理由もない。奴らが増えれば、いずれ人の土地が奪われる。人の命が奪われる。だから見つけた時に討つ。俺たちが迷えば、後ろにいる人々が死ぬ」
何も言い返せなかった。
神殿でも、冒険者ギルドでも、酒場の歌でも。
魔族は敵。見つけたら討つ。
本気で疑ったことはない。
ただ、たまに言葉の端が喉に引っかかる。
「分かったよ。次からは黙って記録してる」
「本当に黙ってられるなら、あんたにも取り柄が一つ増えるんだけどね」
「黙ってたらこの美声が世に出ないだろ。人類の損失だ」
「安心しな。人類はそれくらいの損失ならかすり傷にもならないから」
セレネがそう言い終えるより早く、杖先に青白い火花が散った。
笑いが消える。
リュシオンが右手を上げた。全員が足を止める。俺も身を低くし、背負い袋をそっと下ろした。
森の奥から、金属の擦れる音がした。
枝を踏む音。低く交わされる声。喉の奥を鳴らすような硬い発音。
魔族だ。
短剣を抜いた。
頼りない。
敵を倒すための武器というより、縄を切ったり、枝を払ったり、どうしようもない時に逃げる時間を少し稼ぐための道具だった。
茂みが割れた。
現れたのは四体の魔族。
三体は男に見えた。灰色の肌。額の短い角。革鎧に縫いつけられた金属板。人間より一回り大きく、筋肉のつき方も違う。
汗と獣の革と、濃い魔素の匂いが押し寄せる。
最後尾の一体だけが小柄だった。兜を深く被り、背に細い杖を負っている。
先頭の魔族が何か叫んだ。
リュシオンは答えなかった。
聖剣が光る。
速かった。
初撃は目で追い切れない。先頭の魔族が斧を上げる前に、白銀の刃が胸を斜めに裂いた。黒に近い血が飛び、鉄錆の匂いが一気に濃くなる。
セレネの氷矢が二体目の足元を砕く。凍った土に足を取られた魔族へ、リュシオンが二撃目を入れる。
レイネの金属板から淡い光が伸び、リュシオンの肩を包んだ。
三体目の槍は鎧に届く前に弾かれた。セレネの氷矢が肘を撃ち抜き、落ちた槍を俺が慌てて蹴り飛ばす。
大声で知らせる。落ちた武器を蹴る。短剣を握って、汗をかく。
勇者は体勢を崩した魔族の首元に剣を滑らせた。
戦いというより、処理に近かった。
最後に残った小柄な魔族が、震える手で杖を構えた。足元に淡い緑の光が広がり、倒れた仲間の傷口に向かって伸びていく。
レイネの目が細くなった。
「治癒役です。殺すなら早く。放置すると面倒です」
リュシオンは頷きもしなかった。
小柄な魔族へ歩み寄る。
そいつは後ずさった。背が木に当たり、逃げ場がなくなる。兜の奥で、荒い息だけが聞こえた。
息が近い。
怖がっている息だった。
「終わりだ」
勇者が剣を上げる。
その時、セレネの氷矢の残滓が弾けた。
兜の留め具が砕ける。
兜が落ちた。
黒い髪がこぼれた。
角は細い。耳は人間より少し長い。灰色がかった肌は血の気を失っていて、それでも妙に滑らかだった。怯えに震える唇は淡く色づき、見開かれた瞳は赤紫の宝石みたいだった。
兜の奥にこもっていた息が、外へ漏れる。
血と土と魔素の匂いの中に、少し甘い匂いが混じった。
人間とは違う。
だが、綺麗だった。
息が止まった。
セレネが眉を上げる。レイネは一度だけ装備を見て、すぐに杖と術式へ視線を戻した。リュシオンは彼女の顔を一瞬だけ見て、何の感慨もなさそうに剣先を下げる。
「女までこんな前線に出てくるのか。魔王軍の人材不足も甚だしいな」
セレネが舌打ちした。
「私も女なんだけどね。前線で魔法を撃って、あんたの背中を何度も守ってる」
「お前やレイネは特別だ。人類の肝入りだからな。だが、こいつはどうだ」
リュシオンの声に迷いはない。
「そんな次元でもない。雑魚だ」
小柄な魔族の肩が震えた。
彼女は何か言おうとした。けれど、人間の言葉ではなかった。
「消えろ」
聖剣が振り下ろされる。
その瞬間、体が勝手に動いていた。
女だ。
しかも、かなり好みだ。
その顔を斬るのは、無理だ。
「待て!」
リュシオンと彼女の間に飛び込んだ。
聖剣は寸前で止まった。
止めたのはリュシオンだ。刃は鼻先から指二本くらいのところにあった。冷たい光が頬を撫でる。
遅れて膝が笑った。
森の音が消える。
セレネが、信じられないものを見る目で俺を見ていた。
木の根元で、小柄な魔族だけが震えている。
「どけ、アードゥ」
リュシオンの声は静かだった。
静かだから怖い。
唾を飲み込み、背中に彼女の気配を感じながら、それでも動けなかった。近い。背中側にいるのに、息の熱が分かる気がした。
「いや、その、待て。こいつ、女だろ」
「魔族だ」
「魔族なのは分かってる。でも女だろ。見れば分かるだろ。角とか耳とか肌の色とか、そういう違いはあるけどさ、普通に女だ。いや、普通以上に――」
言ってから、自分でも分かった。
終わった。
完全に言う場所を間違えた。
セレネの目が細くなる。
「アードゥ。あんた、まさか魔族にまでその目を向けてるの」
反射的に否定しようとした。
でも無理だった。
「いや、だって、女だし……」
自分でも情けなくなるほど小さい声だった。
背後で、彼女が息を呑む。
リュシオンが静かに息を吐いた。
「アードゥ・テイカー」
正式な名で呼ばれた瞬間、背筋が冷えた。
聖剣は収められない。白銀の刃が俺を向いている。
「お前は弱かった。軽薄で、女にだらしなく、戦力としても足りなかった」
言い返せない。
全部その通りだから困る。
「それでも、仲間だと思っていた。人類の側に立つ意思だけは、疑っていなかった」
胸の奥が変なふうに詰まった。
そのつもりだった。
まだ人間の側にいるつもりだった。
「お前は今、人類の敵を女として見た」
リュシオンは言った。
「魔王を討つ旅に、そんな者は連れて行けない」
「違う。俺は魔王側につくとか、そういう話をしてるわけじゃ――」
「魔族に耳を貸すな。欲を向けるな」
リュシオンの声が、少し低くなった。
「それができないなら、お前はもう俺たちの仲間ではない」
仲間ではない。
思ったより刺さった。
「リュシオン、俺は――」
「剣を抜け」
息が止まった。
「ここで俺と戦うなら、敵として扱う。戦わないなら、今すぐ荷を置いて去れ。この場で斬らないだけ、かつての同行者への温情だと思え」
短剣の柄に手が触れる。
抜けない。
抜けるわけがない。
勝てない。戦う理由もまとまらない。膝は笑っているし、背中には汗が流れているし、鼻先にはまだ聖剣の冷気が残っている。
セレネが低く笑った。
「最後までそれか。あんたらしいよ、アードゥ。女のために飛び出しておいて、剣は抜けない」
何も返せなかった。
レイネが金属板を下ろす。
「残念です。ですが、置けません」
その時、背後で小さく杖が鳴った。
彼女が震える手で、また治癒術式を広げようとしていた。倒れた仲間へ向かう淡い緑の光が、土の上を這う。
セレネの杖先が即座に彼女へ向いた。
「リュシオン。こいつは殺すよ。今逃がしたら、こっちの動きが魔王軍に漏れる」
「治癒役を残す理由がありません。アードゥさんを置いていくとしても、その魔族は処理すべきです」
喉が乾いた音を立てた。
セレネの杖先に氷の光が集まる。レイネの術式が、彼女の足元を縛るように伸びる。
一歩も動けない。
もう飛び込めない。
でも、見ていることもできなかった。
「リュシオン」
「何だ」
「最後に、一つだけ頼む」
勇者は答えなかった。
震える息を吐いた。
「その女は見逃してくれ。置いていっていい。荷物も返す。もうついていかない。だから、その女だけは斬らないでくれ」
セレネが舌打ちした。
「最後の最後までそれかよ」
レイネは黙ってリュシオンを見た。
リュシオンはしばらく俺を見ていた。
その目は、ひどく遠かった。
「……お前の最後の願いとして聞く」
「リュシオン」
セレネが顔をしかめる。
「いい」
勇者は短く言った。
「これが、仲間として聞く最後の言葉になる」
セレネは杖を下ろした。納得していない顔だった。
レイネも術式を解く。彼女の足元に伸びていた光が、薄く消えた。
リュシオンは聖剣を鞘に収めた。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「アードゥ。お前はもう、勇者パーティーに不要だ」
何も言えなかった。
「行くぞ。任務は続行する。魔族の残党を追う」
セレネは最後に一度だけ俺を見た。
「あんたには、もう背中を預けない」
それだけ言って、杖を担ぎ直す。
レイネは去り際に、背負い袋を一瞥した。
「水袋はあります。携帯食も二日分。地図もあなたが持っています」
そこで一度だけ、目が合った。
「ここまでです」
何も言い返せなかった。
レイネはリュシオンの後を追う。
勇者パーティーは森の奥へ消えていった。
白銀の鎧の光も、濃紺のローブも、淡い白の外套も、すぐに木々の影に呑まれた。
残されたのは、俺と、木の根元に座り込んだ彼女だけだった。
沈黙が落ちる。
ゆっくり振り返る。
彼女は杖を抱きしめるようにして、こちらを見上げていた。怯えは消えていない。警戒もある。
その奥に、ほんの少しだけ、別の色が混じっていた。
理解できないものを見る目だった。
近くにいるせいか、さっきの甘い匂いがまだ残っている。
血と土と魔素の中で、それだけが妙に浮いていた。
それでも、彼女は生きている。
助けてしまった。
実感が、遅れて胸に落ちた。
魔族の味方になったつもりはない。
人間を裏切ったつもりもない。
それでも、もう戻れない。
「……ええと」
声は、森の湿った空気に吸われるように小さかった。
彼女は答えなかった。
代わりに、森の奥で枝が折れる音がした。
一つじゃない。
複数。
背筋が凍った。
振り返ると、木々の影から、角を持つ女たちが現れていた。
弓を引く青灰色の肌の女は、淡い金の髪を揺らしていた。その横で、褐色に近い肌の女が槍を構える。背が高く、目が鋭い。黒い外套の女は、片目を仮面で隠していた。白に近い肌と艶のある黒髪だけが、影の中でやけに目立つ。
人間の女とは、肌の色も、角も、耳の形も違う。
違うだけだった。
女たちが距離を詰めてくる。
森の湿った匂いの中に、革と金属と、知らない香草みたいな匂いが混じった。
近い。
近づくほど、匂いが濃くなる。
喉が鳴った。
最低な感想が頭の片隅をよぎる。
魔族、思ったより美人が多い。
弓を構えた女が、人間の言葉で冷たく告げた。
「人間。両手を上げろ。妙な動きをすれば射る」
すでに上げていた両手を、さらに高く掲げた。
「妙な動きはしない。できれば、射るのもなしでお願いしたい。俺は見ての通り、勇者とかじゃなくて、どちらかというと荷物持ち寄りの人間で――」
「黙れ」
冷たい声だった。
背筋がぞくっとした。
恐怖のせいだ。
たぶん。
そういうことにしておきたい。
「はい」
即答だった。
女たちはさらに距離を詰めてくる。木の根元にいた回復役が、仲間の姿を見てようやく息を吐いた。
黒い外套の女が、俺を頭から足先まで見た。
「縛れ。魔王様の前に連れていく」
魔王様。
人類が滅ぼすべき悪の名が、森の湿った空気の中でやけにはっきり聞こえた。
縄を持った魔族の女が近づいてくる。
革の匂い。金属の匂い。湿った髪の匂い。
人間とは違う、知らない甘さ。
怖いのに、頭のどこかが馬鹿みたいに反応している。
どうしようもなく震えながら思った。
魔王様も女だったら、どうしよう。
その考えが浮かんだ瞬間、心底、自分をどうしようもない男だと思った。




