10話 元荷物持ちからの手紙
捕らえた人間は、畑近くの番小屋に運ばれた。
城には連れて行かない。
ヴェラがそう決めた。
あの男を返すかもしれないのなら、魔王城までの道を見せる理由はない。目隠しをしても、道の傾き、音、匂い、運ばれる時間で、ある程度は分かる。俺がそうだった。
番小屋は、農具と見張り道具を置くための小さな建物だった。
軒下には乾かした縄と、魔物避けの鈴。奥には椅子と机が一つずつ。人間の男は、その椅子に座らされ、手を縛られていた。
縛りは強くない。
リューネがそうした。逃げられないが、痛みすぎない程度に。
男は、そのことにもまだ戸惑っていた。
ガルムさんは番小屋の外に立ち、畑を見ている。
鉈は腰に戻っていた。
けれど、顔はまだ硬い。
畑に人間が入り込んだ。
その事実は、根菜を食わせたくらいでは消えない。
「お前は来い」
ヴェラが俺に言った。
黒い外套の影が、番小屋の薄暗さの中でやけに濃い。
「魔王様へ報告する。お前の提案だ。自分の口で説明しろ」
「俺が、ですか」
「他に誰が言う。私が言えば、処分を進言するだけだ」
それはそうだった。
ヴェラは嘘をつかない。
その分、容赦もない。
リューネが少しだけこちらを見る。
けれど、何も言わなかった。
「その人は?」
「ここに置く。目隠しをし、見張りを増やす」
ヴェラは当然のように言った。
男はその言葉に、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
魔王城へ戻る道は、来た時よりも長く感じた。
ヴェラは前を歩く。
畑の道を抜け、外縁の門を通り、石の廊下へ入る。黒い外套の裾は揺れるが、足音はほとんどしない。
怖い。
美人かどうかで言えば、たぶんかなり美人なのだが、今はそれを確認する勇気がない。
確認したら、たぶん首ではなくても何かが飛ぶ。
「アードゥ」
「はい」
「余計なことは言うな。だが、必要なことを喋れ。今回の件は、軽い思いつきで済む話ではない」
ヴェラは振り返らないまま言った。
「この男を返せば、人間は畑の位置を知る。次に来る者は、観察ではなく火を持つかもしれない。お前の言葉一つで、ガルムの畑も、リューネたちの治療薬も、外縁の者たちの食料も危うくなる」
ヴェラの声は、少しも揺れなかった。
「その時、お前はどう責任を取る。畑が焼けたあとで、最初の一歩だったなどと言っても、燃えた食料は戻らぬぞ」
喉が乾いた。
分かっているつもりだった。
でも、ヴェラの声で並べられると、逃げ場がなくなる。
それでも、俺が言い出したことだ。
「俺に責任は取れません」
声に出すと、思ったより情けなかった。
ヴェラの足が止まる。
黒い外套の影が、石の廊下に落ちていた。
「畑が焼けたら、俺には元に戻せない。火を消す力もない。人間の兵を止める力もない。ガルムさんの畑も、リューネたちの薬も、俺一人じゃ守れません」
言いながら、喉が乾いていく。
それでも、言わなければならなかった。
「でも、運びます」
ヴェラは何も言わない。
「焼けた畑が元に戻るのに必要なものを運びます。食料でも、水でも、土でも。……言葉でも、たぶん。何度でも。重くても」
顔を上げる。
ヴェラの片目が、こちらを見ていた。
「俺には、荷物持ちしかできません。それでも、荷物持ちなら、できます」
少しの間、廊下に沈黙が落ちた。
死んだかと思った。
だが、ヴェラは剣に手を伸ばさなかった。
「軽いことを言えば斬っていた」
「言わなくてよかったです」
「今の言葉も、軽くなれば斬る」
それだけ言って、ヴェラはまた歩き出した。
魔王様は玉座の間にいた。
先日の夜の姿が、嘘みたいだった。
ほどけた黒髪も、ゆったりした薄い服も、俺の部屋の椅子に座っていた距離の近さも、今はどこにもない。
黒い衣。
整えられた髪。
紫の目。
玉座に座る姿は、どこからどう見ても魔王だった。
怖い。
圧がある。
でも、だからこそ品があった。
玉座に置いた指先も、少し傾けた顎も、こちらを見る目も、綺麗に決まっている。
可愛い。
今はそれだけではない。
でも、可愛い。
「戻ったか」
魔王様の声が広間に落ちる。
夜の部屋で聞いた声より遠い。
けれど、同じ声だった。
そのことに、なぜか少しだけ胸が跳ねた。
ヴェラが片膝をつき、報告する。
俺も慌てて膝をついた。
少し遅れた。
ヴェラの視線が刺さる。
痛い。
「外縁の畑に人間の斥候が侵入しました。現在は畑近くの番小屋に拘束しています」
「よい判断だ。返す可能性のある者に、城を見せる理由はない」
魔王様は静かに頷いた。
それから、俺を見る。
「アードゥ。貴様が返すべきだと言ったそうだな。その者は、何を見た」
声は責めていない。
だから、余計に逃げられない。
「畑です。ガルムさんの野菜と、魔族の子供と、土を起こすモンスターを見ました。あと、自分が踏んだ畝も見ました」
魔王様の目が、少しだけ細くなる。
「畝」
「はい」
俺は唾を飲み込んだ。
「最初、あいつは畑を踏みました。魔族に殺されると思って怯えてました。でも、ガルムさんが怒ったのは、あいつが人間だからじゃなくて、畑を踏んだからでした」
広間は静かだった。
ヴェラは何も言わない。
魔王様も、まだ何も言わない。
「そのあと、連れていかれる時に、あいつは畝を避けました。魔族を信じたわけじゃありません。怖くなくなったわけでもない。でも、そこは踏んじゃいけない場所だと、少しだけ分かったんだと思います」
「それが、返す理由になると?」
魔王様の声は低い。
王の声だった。
俺は、膝の上で手を握った。
「大きな理由にはならないかもしれません。でも、始まりにはなるかもしれません。魔族は怖い。でも、畑は踏むな。たぶん、最初はそれくらいでいいんじゃないかと」
言い切ってから、背中に汗が滲んだ。
魔王様は、こちらをじっと見ている。
紫の目は、先日の夜よりずっと遠い。
それでも、見ているのは俺だった。
「ヴェラ」
「はい」
「反対か」
「反対です」
早かった。
迷いがない。
「返せば危険は増します。畑の位置、外縁の警戒、使役しているモンスターの存在。持ち帰らせる情報としては多すぎます。斥候を返すことは、人間に次の侵入経路を教えることでもあります」
ヴェラの視線が、今度は俺に向く。
「その結果、畑が焼かれた時、責任を負うのは魔王様です。貴様ではない」
俺は何も言えなかった。
反論する言葉が、喉の手前で全部止まった。
魔王様は頷く。
「その通りだ」
胸が沈む。
けれど、魔王様の声はそこで終わらなかった。
「だが、アードゥの言うことも分かる。殺せば、そこで終わる。見たものは外へ出ぬ。安全ではある。だが、安全なだけでは、何も変わらぬ」
魔王様の指が、玉座の肘掛けを軽く叩いた。
その音が、広間に小さく響く。
「一度だけだ」
顔を上げた。
「この試みが、我らの者を危険に晒すだけなら、次はない。次に同じことが起きた時、私は殺す。アードゥ、それでも言葉を持たせるか」
喉が鳴った。
でも、運ぶと口にした。
できるとはまだ言えない。
それでも、運べるかもしれないと思った。
「持たせたいです」
「ならば書け」
魔王様は言った。
「ただし、軽く書くな。可哀想だと飾るな。美しいと媚びるな。貴様が見たものだけを書け」
「はい」
「リューネに見せろ。ガルムにも確認させろ。畑はあの者の場所だ。勝手に使うな」
リューネに言われた言葉が、また喉の奥で響いた。
人間に見せるためにあるんじゃない。
生きるためにあるの。
「分かりました」
魔王様は少しだけ目を細めた。
「アードゥ。貴様の荷を、一つ預ける」
「荷、ですか」
「言葉だ。軽く扱うな」
背筋が伸びた。
言葉。
俺が運ぶもの。
水袋より軽い。
けれど、落としたらもっと厄介だ。
「はい」
魔王様の前で、深く頭を下げた。
手紙は、城の一室で下書きした。
ヴェラは扉の近くに立っている。
逃げ道を塞ぐように、ではない。
たぶん、俺が変なことを書いた時にすぐ止めるためだ。
それはそれで怖い。
俺は筆を持つ。
書き出しで、いきなり止まった。
魔族領には、美しい畑がある。
違う。
美しいと書くな、と言われたばかりだ。
魔族領には、温かな畑がある。
これも違う。
温かいなどと書いたら、見物に来る馬鹿が出るかもしれない。
畑は見物小屋ではない。
俺は紙を一枚潰した。
ヴェラの視線が刺さる。
結局、最初の一文はこうなった。
魔族領には畑がある。
それだけ。
飾らない。
でも、嘘ではない。
俺は続きを書いた。
魔族領には畑がある。
そこを焼けば、軍事施設ではなく食べ物が燃える。
土を起こすモンスターがいて、子供が水を運び、農家の親父が野菜を育てている。
それでも攻めるなら、せめて何を踏むのか見てから来い。
最後に、少し迷ってから署名する。
元勇者パーティー荷物持ち。
アードゥ・テイカー。
書いた瞬間、妙な汗が出た。
名乗った。
人間側へ向けて。
魔族の畑について。
ただの手紙だ。
ただ、畑を踏むなと書いただけだ。
番小屋へ戻る頃には、日が傾き始めていた。
捕虜の男はまだ椅子に座っていた。目隠しをされ、手を縛られている。リューネが横に立ち、ガルムさんは入口の近くで腕を組んでいた。
「書いたの?」
リューネが聞いた。
「書いた。見るか」
「見る。嫌な書き方なら破る」
当然のように言われた。
俺は手紙を渡す。
リューネはゆっくり読んだ。
途中で眉を動かし、ある一行で指を止める。
「子供は消して」
「でも、そこも見たものだ」
「見たもの全部を書いていいわけじゃない。人間に知られたら、そこを狙う人もいるかもしれない」
返事が詰まった。
その通りだった。
俺はその場で、子供が水を運ぶ、という一文を消した。
リューネはもう一度読み直し、最後まで読んでから、ガルムさんへ渡す。
「可愛いって書いてない」
「我慢した」
「そこは偉くない」
厳しい。
だが、破られなかった。
ガルムさんは手紙を読んだ。
文字を追うのは少し遅い。
けれど、一文字ずつ確認するように読んでいた。
やがて、鼻を鳴らす。
「俺の野菜をだしにするなよ」
「はい」
「だが、畑を踏むなと書くなら、まあ、好きにしろ。そこだけは人間にも言っとけ。魔族だろうが人間だろうが、畑を踏むやつは許さん」
それで、ガルムさんの許可は出たらしい。
分かりやすい。
でも、重い。
男の目隠しを外す前に、ヴェラが手紙を折った。
「これを持たせる。中身は見たな」
男は頷いた。
顔色はまだ悪い。
「お前を返すかどうかは、まだ決まっていない。だが、もし返されたなら、この紙を境界詰所へ持っていけ。破れば、それもお前の選択だ。だが、破るなら畑の外で破れ」
最後の一文は、たぶん俺の影響だ。
ヴェラが言うと、妙に怖い。
男は小さく頷いた。
その手に、手紙が握らされる。
ついでに、ガルムさんが根菜を投げた。
男は慌てて受け取る。
「持ってけ。食いかけを置いていかれると気分が悪い」
男は、何か言おうとした。
だが、言葉にならなかった。
俺は思わず言った。
「それ、捨ててもいい。でも、捨てるなら畑の外で捨てろ。ガルムさんに怒られる」
男は根菜を握り直した。
ほんの少しだけ。
それを見て、ガルムさんが小さく鼻を鳴らした。
捕虜は、目隠しをされたまま境界近くまで運ばれることになった。
城は見せない。
畑からも、できる限り離れた場所へ運ぶ。
ヴェラ、リューネ、俺、それから数人の魔族兵が同行した。
森の中で、男はずっと黙っていた。
時々、手紙を握る指が動く。
境界近くで、ヴェラが目隠しを外した。
男は夕方の森の光に目を細める。
人間側の道は、そこからそう遠くない。
「走れ」
ヴェラが言った。
男は一瞬だけ動かなかった。
それから、こちらを見た。
俺ではない。
リューネでもない。
ヴェラでもない。
手の中の根菜を見ていた。
「……あれ、本当に畑で作ったのか」
小さな声だった。
誰に聞いたのかも分からない。
ガルムさんはここにはいない。
だから、俺が答えた。
「そうだよ。ガルムさんが作った。丹精込めてな」
男は顔を歪めた。
泣きそう、というほどではない。
怒っている、というほどでもない。
ただ、何をどう受け取ればいいのか分からない顔だった。
それから、踵を返した。
走り出す。
途中で一度だけ、足元を見た。
森の土だ。畑ではない。
それでも、男は根を避けるように足を置いた。
明日には忘れるかもしれない。
それでも、今は避けた。
手紙と、食いかけの根菜を持って、人間は森の向こうへ消えた。
その日の夜。
境界の詰所に、泥だらけの斥候が戻った。
彼はしばらくまともに話せなかった。
魔族に捕まった。
畑を見た。
野菜を食った。
畑を踏んで怒鳴られた。
そんな断片ばかりを繰り返すので、詰所の兵たちは誰も要領を得なかった。
ただ、彼は一枚の紙を持っていた。
その紙は、最終的にセレネの手へ渡った。
濃紺のローブを羽織った魔法使いは、焚き火の横でその紙を開く。
隣には、淡い白の外套を纏ったレイネがいた。
セレネは最初の一行を読んで、眉をひそめた。
「……アードゥ?」
レイネが横から覗き込む。
「筆跡は本人ですね」
「生きてたんだ、あいつ」
「少なくとも、死んではいないようです」
セレネは手紙を最後まで読んだ。
読んで、しばらく黙った。
焚き火が小さく爆ぜる。
手紙の末尾には、見慣れた名前があった。
元勇者パーティー荷物持ち。
アードゥ・テイカー。
その少し上に、ひどく馬鹿みたいな一文がある。
それでも攻めるなら、せめて何を踏むのか見てから来い。
セレネは、低く息を吐いた。
「馬鹿じゃねえの」
声は、怒りだけではなかった。




