11話 荷物持ち、重さに負ける
手紙を持たせた人間が森の向こうへ消えてから、一日が経った。
畑は燃えていない。
魔王城も攻められていない。
外縁の見張りが慌ただしく駆け込んでくることもなく、ガルムさんが鉈を持って俺を殴りに来ることもなかった。
それなのに、変な汗が止まらなかった。
机の前に座っているだけで、首の後ろがじっとり濡れる。筆を持つと、軸が滑った。
報告書を書こうとした。
外縁の畑における人間斥候返還後の経過。
その書き出しだけで、文字が歪む。
人間。
畑。
返還。
その三つを書いただけで、頭の中に火が走った。
畑が燃える。
ガルムさんが土を掘る。
リューネが薬草の灰を握る。
ヴェラが、燃えた食料は戻らぬぞ、と言う。
俺は筆を置いた。
「顔色、悪いよ」
昼過ぎに来たリューネが、扉のところで足を止めた。
いつものように杖を抱えている。見張り兼検閲役。最近は、少しだけ世話係も混じっている。
「魔王様のことを考えていただけだから大丈夫だ」
「その言い訳で誤魔化せると思ってるの? いつものあなたは、もっと気持ち悪く元気」
ひどい言い方だった。
だが、反論できない。
いつもの俺なら、魔王様の横顔だけで白飯が食える。声と紫の目と、先日の夜の薄い服の記憶があれば、かなり頑張れる。
今は、その記憶ですら汗になる。
魔王様に預けられた言葉を落としたらどうなる。
俺は笑おうとして、たぶん失敗した。
「少し寝不足なだけだ。荷物持ちは体が資本だからな。たまには資本が値崩れする」
「冗談が意味わからない。今日はもう書かない方がいいよ。変な文章を書いたら、読まされる私が可哀そう」
リューネはそう言って、机の上の紙へ視線を落とした。
歪んだ文字。
途中で止まった報告書。
彼女は何も言わず、水差しをこちらへ押し、窓を少し開けた。
外の土の匂いがして、また畑を思い出した。
二日目の夜、眠れなかった。
横になって、目を閉じる。
何度も寝返りを打つ。
それでも、眠りに落ちるたびに、夢の中で畑が燃えた。
黒い煙。
焦げる葉の匂い。
魔物避けの鈴が、火の中で鳴っている。
ガルムさんが土を掘り返していた。怒鳴ってはいなかった。ただ、焦げた畝を手で掘っている。
リューネは、焼けた薬草を両手に抱えていた。治せない怪我人の前で、何も言わずに立っている。
ヴェラは、俺を見ていた。
その時、お前はどう責任を取る。
目が覚めた。
息が荒い。
部屋は燃えていない。
外はまだ夜で、廊下の奥から見張りの足音が聞こえる。
夢だった。
それでも、焦げた匂いだけが鼻に残っている気がした。
俺は起き上がり、机に向かった。
紙を広げる。
筆を持つ。
魔族領には畑がある。
そう書きかけて、手が止まる。
もう書いた。
もう、運んだ。
なのに、まだ手が震える。
三日目、リューネは見張りではなく、普通に部屋へ来た。
扉を開けた瞬間、彼女は眉を寄せた。
「あなた、気持ち悪い」
第一声がそれだった。
「それはいつも言われてることでは?」
「いつもの気持ち悪さじゃない。今は、沈んだ濁り方をしてる」
ひどい。
俺は椅子に座ったまま、両手を膝に置いていた。
動きたいのに、動いた先が全部悪い方へ繋がっている気がした。
リューネは向かいに座る。
杖は膝の上。
今日は、紙も筆も持っていない。
「責任って言葉に潰されてるんでしょ」
言われた瞬間、喉が詰まった。
優しい声で急所を刺すのはよくない。
「潰れてはいない。少し沈んでいるだけだ」
「沈んでるなら、ほとんど同じだよ。あなた、魔王様の前では少し格好よかったのに、今は昨日の芋より顔色が悪い」
「芋より」
リューネは真面目な顔で頷いた。
しかし、笑う気力はあまり出なかった。
「俺のせいで畑が燃えたらどうするんだろうな、と」
声が勝手に出た。
少しだけ胸が軽くなり、同時に余計に重くなった。
「ガルムさんの畑が燃えて、薬草がなくなって、外縁の食料が減って、それで誰かが困ったら。俺は何もできない。火も消せない。兵も止められない。責任は取れない。でも、言った。返した方がいいって」
リューネは、少し黙っていた。
慰めるでもなく、否定するでもなく、ただ聞いていた。
「それ、私に言ってどうするの」
喉が詰まった。
慰める顔ではなかった。
ただ、逃げ道を塞ぐ顔だった。
「魔王様に言いなよ」
「いや、それは……」
「格好いいことを言ったんでしょ。返した方がいいって、自分で言ったんでしょ。なら、怖くなったところまで持っていきなよ。荷物持ちなんだから」
きつい。
かなりきつい。
でも、何も言い返せなかった。
「怖いなら、怖い顔のまま行けばいい。平気な顔をしてたら、たぶん魔王様はそっちの方を怒るよ」
俺は立ち上がった。
足元が少しふらつく。
リューネは支えなかった。
四日目。
ヴェラは、玉座の間へ向かう途中の廊下で待っていた。
黒い外套。
冷たい目。
いつも通り、刃のような雰囲気。
ただ、こちらを見た時、ほんのわずかに眉が動いた。
「酷い顔だな」
「リューネには芋以下と言われました」
「芋に失礼だ」
今日は世界が厳しい。
ヴェラはしばらく俺を見ていた。
そして、少しだけ視線を外す。
「……少し、強く言いすぎたか」
廊下の空気が止まった。
リューネが、目を見開く。
俺も、たぶん同じ顔をしていた。
「ヴェラさんが、反省してる」
リューネが小さく言った。
ヴェラの目が、即座に細くなる。
「反省ではない。運用上の誤差だ。この男の耐久値を少し高く見積もった」
「俺、運用されてたんですか」
「されている」
即答だった。
つらい。
でも、少しだけ息がしやすくなった。
ヴェラは歩き出す。
「言っておくが、責任を忘れろという意味ではない。忘れれば斬る。だが、潰れて使い物にならなくなるのも困る。魔王様の前で、今の情けない顔を隠すな」
「隠した方が魔王様の目に優しくないですか」
「手遅れだ。そんなことくらい魔王様にはお見通しだ」
厳しい。
玉座の間に入ると、魔王様がいた。
黒い衣。
紫の目。
玉座に座る姿は、今日も王だった。
俺は膝をついた。
少しだけ、床が近く感じる。
魔王様は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が怖い。
畑が燃えたのか。
手紙が失敗したのか。
悪い方へ悪い方へ、荷が転がっていく。
「アードゥ」
名前を呼ばれた。
肩が跳ねる。
「はい」
「よく運んだな」
それだけだった。
それだけで、膝から力が抜けた。
床に手をつく。
息が、勝手に漏れた。
情けない。
でも、止まらなかった。
「……怖かったです」
声が震えた。
広間に、自分の声が落ちる。
「畑が燃えたらどうしようとか、ガルムさんの野菜が灰になったらどうしようとか、ずっと頭から離れなくて。俺、あんな格好いいこと言いましたけど、全然平気じゃなかったです」
言いながら、だんだん情けなくなってきた。
穴があれば入りたい。
いや、床があれば十分だ。
魔王様は玉座から立ち上がらなかった。
でも、声は少しだけ近くなった。
「馬鹿者」
怒られた。
終わった。
そう思ったのに、次の言葉は違った。
「その荷を、貴様一人に背負わせた覚えはない」
顔を上げた。
魔王様は、俺を見ていた。
「決めたのは私だ。危険を見たのはヴェラだ。言葉を削ったのはリューネだ。畑を許したのはガルムだ。貴様は運んだ。全てを貴様一人の荷にするな」
言葉が、胸の中に落ちる。
重さが消えるわけではなかった。
でも、少しだけ形が変わった。
「荷物持ちとは、すべてを一人で背負う者のことか」
「違う、と思います」
「ならば覚えろ。荷は分けるものだ。必要なものを、必要な場所へ運ぶ。それがお前の役目だ」
魔王様の声は、静かだった。
王の声だった。
けれど、先日の夜の部屋で聞いた声と、どこか同じだった。
「よく運んだ」
二度目だった。
今度こそ、胸の奥で何かが切れた。
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
本当はもっと格好いい言葉を言いたかった。
魔王様の御ために、とか。
この命尽きるまで、とか。
でも、喉から出たのは、それだけだった。
それで精一杯だった。
魔王様が、少しだけ笑った気がした。
その笑みを見た瞬間、俺の中の何かが急速に戻ってきた。
怖さが消えたわけではない。
責任が軽くなったわけでもない。
ただ、魔王様に褒められた。
それはもう、仕方ない。
荷物持ちの心は、そこまで強くできていない。
「魔王様」
俺は顔を上げた。
リューネが、嫌な予感に気づいたようにこちらを見る。
ヴェラの手が、剣の柄へ近づいた。
「一つ、お願いがあります」
魔王様は、ほんの少しだけ目を細めた。
「申してみよ」
「人間に伝えるべき、魔王様の素晴らしさについての文章を書かせてください」
広間が静まり返った。
かなり静かだった。
リューネが額を押さえる。
ヴェラの指が、剣の柄に触れる。
魔王様は、しばらく黙っていた。
「……なぜ、そうなる」
当然の疑問だった。
しかし、俺の中ではかなり筋が通っている。
「今回の手紙で、俺は分かりました。畑を踏むな、という言葉は大切です。でも、それだけでは魔王様の偉大さが人間に伝わりません。魔王様は怖くて、気高くて、品があって、しかも可愛い。そこを伝えないのは、人間側にとって大きな損失です」
「損失なのか」
「損失です」
断言した。
ここは譲れない。
リューネが呻く。
「また可愛いって書くやつだ」
「今回は可愛いだけじゃない。王としての品格、守る者を持つ強さ、そして月明かりの下での――」
空気が切れた。
ヴェラが一歩前に出ていた。
「そこから先を口にするな」
俺は口を閉じた。
命は大事だ。
魔王様は、玉座の上で肩を揺らした。
たぶん、笑っている。
それを見て、胸の奥が一気に軽くなった。
やはり魔王様は可愛い。
王で、怖くて、品があって、俺の情けなさを見ても見捨てない。
そして笑うと、信じられないくらい可愛い。だからこそ、伝えたい。
「アードゥ」
「はい」
「書くことは許す」
リューネが顔を上げた。
ヴェラも目を細める。
俺の心は跳ねた。
「本当ですか」
「ただし、リューネとヴェラの検閲を通せ。人間に出すかどうかは、その後に私が決める」
「ありがとうございます!」
「礼を言うには早い。おそらく大半は破られるだろうな」
それでもよかった。
書くことは許された。
それだけで十分だった。
その夜、俺は新しい紙を用意した。
手はまだ少し震えていた。
怖さも、完全には消えていない。
けれど、筆は動いた。
題名。
人間に伝えるべき魔王様の可愛さについて。
翌朝。
リューネに見せたら、表紙だけで破られた。
ここまで、第1章です。




