12話 畑なんて聞いてない
セレネは、焚き火の横で紙を見下ろしていた。
紙は薄く、端が少し汚れている。
折り目には土が入り、森の湿り気を吸ったせいか、ほんのわずかに波打っていた。
そこに書かれている字は、見覚えがあった。
綺麗ではない。
癖がある。
荷物の数を記録する時も、食料の残りを書きつける時も、地図の余白に変な注意書きを残す時も、アードゥの字はこうだった。
少し急いでいて、でも見落としたくないものだけは妙に細かい。
セレネは手紙の末尾をもう一度見る。
元勇者パーティー荷物持ち。
アードゥ・テイカー。
「……生きてたんだ、あいつ」
口から出た声は、自分で思ったより低かった。
隣に立つレイネは、手紙を横から覗き込んだまま、冷静に頷く。
「筆跡は本人のものと見てよいでしょう。少なくとも、アードゥさんの字を知っている者が、わざわざ下手に似せたのでなければ」
「下手って言い切るんじゃないよ。あいつ、そこそこ気にしてたから」
「気にしていてあれなら、なおさら本人らしいです」
容赦がない。
セレネは手紙を握る指に、少しだけ力を込めた。
周囲には境界詰所の兵たちが集まっている。
焚き火の光が、革鎧や槍の穂先を赤く揺らしていた。戻ってきた斥候は、少し離れた丸太に座らされている。顔は青白く、片手には食いかけの赤紫の根菜を握ったままだった。
捨てろと言われても、捨てなかったらしい。
それが余計に気味悪かった。
「魔族に捕まって、無傷で戻ってきた。しかも手紙つき。おまけに野菜まで持って帰った。どう処理すればいいの、これ」
セレネが言うと、レイネは少しだけ目を細めた。
「まずは事実を分けましょう。彼は魔族に拘束され、目隠しをされ、境界付近で解放された。手紙を持たされ、食用と思われる根菜も持ち帰った。本人は、魔族領に畑があったと証言しています」
「最後の一文が一番おかしいんだよ」
「同感です。ですが、おかしいことと、嘘であることは別です」
その時、背後から金属の擦れる音がした。
リュシオンが近づいてくる。
白銀の鎧には、森の泥が薄くついていた。それでも、彼が歩くと兵たちの背筋が伸びる。
セレネは手紙を差し出した。
「アードゥから。たぶん本人」
リュシオンは紙を受け取り、最初から最後まで一度で読んだ。
表情は変わらない。
焚き火が小さく爆ぜる。
その音だけが妙に大きく聞こえた。
「魔族の工作だ」
リュシオンは静かに言った。
即断だった。
「囚われたアードゥに書かせた可能性がある。生きた斥候を返し、手紙を持たせた時点で、魔族側には何らかの意図がある。こちらの判断を鈍らせるためか、外縁の調査を妨害するためか、あるいはアードゥが魔族側に与していると見せるためか」
セレネは舌先で奥歯に触れた。
「本人が書いたとしても?」
「本人が書いたなら、なおさらだ。魔族に囚われた者の証言は、そのまま扱えない。恐怖、洗脳、取引、脅迫。いくらでも可能性がある」
レイネが手紙へ視線を落とした。
「ただ、工作文としては妙です。魔族を哀れむ言葉も、人間への脅しも、魔王の正当性も書かれていません。書いてあるのは、畑がある、焼けば食べ物が燃える、畑を踏むな、という程度です」
「程度って言うけど、それが一番意味分かんないんだよ」
「はい。なので厄介です」
レイネは、そこで斥候の方へ歩いた。
兵たちが場所を空ける。
斥候は肩を震わせた。まだ森の中にいるみたいな目をしている。
「あなたが見たものを、順に話してください。魔族に何をされましたか」
レイネの声は落ち着いていた。
治療の時と同じ声だ。
斥候は唇を舐め、掠れた声で答える。
「縛られました。目隠しをされて、殺されると思いました。魔族の女がいて、黒い外套の、怖い目の……それから、角のある回復役みたいな女もいて」
セレネは眉を動かした。
魔族の回復役。
アードゥが飛び出して庇った、あの小柄な魔族を思い出す。
赤紫の目。
甘い匂い。
震えていた肩。
あの時のアードゥの顔も。
どうしようもなく馬鹿で、どうしようもなく本気だった。
「続けてください」
レイネが促す。
斥候は根菜を握ったまま、視線を落とした。
「畑にいました。魔族領に、畑があったんです。俺、隠れて見てたんですけど、出てこいって言われて。畑に隠れるな、踏むなら顔を見せろって」
兵の一人が笑いかけた。
でも、笑い声にはならなかった。
斥候の顔が真剣すぎたからだ。
「畑を踏んだら、怒鳴られました。殺されると思ったのに、足をどけろって。そこに若芽があるからって。魔族が、俺じゃなくて、足元を見てたんです」
セレネは手紙を見る。
畑を踏むな。
馬鹿みたいな一文。
でも、斥候の声と重なると、少しだけ違って聞こえた。
「野菜を渡されたというのは?」
レイネが聞く。
斥候は、握っていた根菜を両手で持ち直した。
泥がついている。
半分ほどかじられている。
「農家みたいな魔族が、くれました。毒なんか入れない、入れるならもっと高いものに入れる、これは俺の作物だって。俺、食べました」
「味は」
レイネが聞く。
斥候は一度、目を閉じた。
「甘かったです」
その一言で、焚き火の周りが少し静かになった。
セレネは、なぜか何も言えなかった。
甘かった。
工作の言葉にしては、あまりに間が抜けている。
それなのに、斥候の顔は笑っていなかった。
レイネは根菜を受け取り、匂いを確かめた。
銀の細い針を取り出し、断面に触れさせる。針の先に淡い光が宿り、すぐに消えた。
「毒性はありません。軽い魔素は含んでいますが、食用です。少なくとも、食べ物として育てられたものと見ていいでしょう」
「本当に、ただの野菜ってこと?」
セレネが聞くと、レイネは根菜を見たまま答えた。
「人間領の作物とは違います。ですが、役割としては食料です」
食料。
その言葉が、手紙の一文に重なる。
そこを焼けば、軍事施設ではなく食べ物が燃える。
セレネはその行を見た。
アードゥの字だった。
あいつは、戦術だの大義だのを語る男ではない。
でも、食料袋の湿りなら気にしていた。
雨を吸った袋を見つけると、誰よりも先に渋い顔をして、乾いた分から使え、下の袋が駄目になる、と歩きながらぶつぶつ言っていた。
腹の立つ声だった。
けれど、食料を駄目にしたことはほとんどなかった。
「セレネ」
リュシオンの声で、思考が戻る。
勇者は手紙を持ったまま、まっすぐこちらを見ていた。
「魔族領に畑があるとしても、それは補給地帯だ。魔王軍の糧秣を支える場所なら、戦略上は攻撃対象になる」
セレネは反射的に言い返しかけ、止めた。
まだ、何を言えばいいのか分からない。
「……それは、そうかもしれないけど」
「迷うな。魔族は、人類の土地を奪い、人を殺す。こちらが躊躇すれば、次に燃えるのは人間の村かもしれない」
「分かってる」
強く言いすぎた。
自分でも分かった。
リュシオンの目が少しだけ動く。
セレネは手紙を握り直した。
「分かってるよ。あんたの言ってることは、間違ってない。魔族領の畑なら、こっちから見れば補給地帯だ。そこを潰すのが戦略だっていうのも、分かる」
そこで言葉が止まった。
レイネが静かに口を開く。
「正しいことと、処理しやすいことは別です。この手紙は、上へ報告すべきでしょう。魔族の工作として扱うにせよ、アードゥさんの所在確認として扱うにせよ」
「それも魔族の狙いかもしれない」
リュシオンが言う。
「はい。ですが、無視してよい情報ではありません」
レイネは根菜を紙布に包み、兵の一人に渡した。
「検査に回してください。食用であること、魔素の量、人間への影響。それから、この斥候は治療を。怪我はないようですが、精神的な混乱があります」
斥候は俯いたまま、小さく言った。
「畑なんて、聞いてないんです」
誰もすぐには返さなかった。
その声は、言い訳のようで、言い訳になっていなかった。
「魔族領には、砦とか、洞窟とか、魔物の巣とか、そういうのがあるって聞いてました。畑があるなんて、誰も言ってなかった。農家みたいな魔族が野菜を育ててるなんて、そんなの、聞いてないんです」
セレネは目を伏せた。
リュシオンは手紙を折り、セレネへ返した。
「処分しろ。少なくとも、兵の間に回すな。噂になる」
セレネは手紙を受け取った。
焚き火はすぐ横にある。
紙一枚を灰にするくらい、簡単だ。
アードゥの字も、馬鹿みたいな一文も、畑を踏むなという声も、火に入れれば消える。
セレネは焚き火を見た。
手紙を見た。
それから、紙を折って懐にしまった。
「あとで燃やす」
リュシオンは何も言わなかった。
レイネは、一度だけこちらを見た。
セレネは斥候が残した言葉を、胸の奥で繰り返す。
畑なんて、聞いてない。
アードゥ。
あんた、何を見たの。




