13話 魔王様布教文は検閲されました
表紙だけで破られた。
人間に伝えるべき魔王様の可愛さについて。
題名を書き終えた瞬間、リューネの手が伸び、紙は見事に二つに裂けた。
「待て。さすがに早くないか。まだ本文どころか、一行目にも入っていない」
「題名で駄目だったから。むしろ本文に入る前に止めた私の優しさを、あなたはもっと理解するべきだと思う」
リューネは破った表紙を机の端に置いた。
置いた先には、すでに破られた紙の山がある。
リューネの後ろにも紙束が積まれていた。
明らかに、誰かが一晩で正気を失いながら書いた量だった。
もちろん、俺だ。
右手には包帯が巻かれている。指にはペンだこができ、握るだけで痛む。だから筆は包帯で指に固定した。
痛みはある。
かなりある。
だが、魔王様の素晴らしさはまだ一割も書けていない。
「こんなに書いたのに、全部駄目って。リューネ、酷くないか?」
俺は包帯で固定した筆を掲げた。
努力の証である。
忠誠の形である。
少なくとも、俺の中ではそうだった。
リューネは、俺ではなく自分の後ろに積まれた紙束を見た。
「全部に目を通させられる私の方が可哀想だよ。反省して。あと、その包帯の使い方はたぶん治療用じゃないから、あとで巻き直す」
「魔王様への忠誠に反省などない。もちろん後悔もない」
「文章にはどっちもある」
厳しい。
だが、リューネは全部読んでから破っている。
目の下に、うっすら疲れが見えた。
少しだけ申し訳ない気はした。
部屋の奥では、魔王様が紙束の一枚を手に取っていた。
黒い衣の袖口から白い指がのぞく。紙をめくる仕草は静かで、王らしい落ち着きがある。
ただ、口元がほんの少し緩んでいた。
怒ってはいない。
むしろ、少し機嫌がいい。
可愛い。
これはもう、続きを書かなければならない。
「アードゥ」
魔王様が紙から目を上げる。
「貴様の忠誠は、量だけなら疑う余地がないな」
「ありがとうございます!」
「褒めてはいない。量より質という言葉もあることを忘れるな」
そう言いながら、魔王様の口元はまだ少し緩んでいる。
褒めてはいないらしい。
だが、俺の心には届いた。
つまり、量は認められた。
質はこれからだ。
ヴェラは部屋の壁際に立っていた。
剣ではなく、紙束を持っている。
しかし、その姿は剣を持っている時より少し怖い。
なぜなら、紙を破る速度に迷いがないからだ。
俺が命をかけて書いた第三章、月明かりの下で見た魔王様について、は題名を読まれた段階で破棄された。
第四章、魔王様の足先に宿る王威について、も本文二行目で消えた。
「そこは重要だろう。足先にまで王としての品格が宿っているという、非常に大事な観察記録だ」
「重要だから破った。外に出すな」
ヴェラは淡々と言い、破った紙を破棄済みの山へ重ねた。
悲しい。
だが、魔王様の前で泣くわけにはいかない。
俺は次の紙を差し出した。
リューネがそれを受け取る。
「これは何?」
「第一章の改稿版だ。魔王様の御声について、欲望を押さえて書いた」
リューネは疑わしそうに目を細め、本文を読み始めた。
すぐに止まった。
「魔王様の声は澄んでいる。命令されると魂が正座する……魂が正座するって何?」
「するだろう」
「しないよ」
「俺はしたんだが。簀巻きにされてたけど」
「人間に見せていいわけないでしょ」
また駄目だった。
リューネは紙を破りはしなかったが、赤筆で大きく線を引いた。
魂が正座する、が消える。
かなり良い表現だと思ったのだが。
ヴェラが別の紙を拾う。
少しだけ目を通し、眉を動かした。
「魔王様は玉座に座ると、空気の方が従う。ここまではまだ分かる」
「分かるのか」
「黙れ。続きが悪い。玉座も羨ましい、とは何だ」
「魔王様を支えているからだが。変わってほしいくらいだ」
ヴェラは紙を破った。
聞いても破るのだろうけど。
魔王様はそれを見て、とうとう小さく笑った。
笑った。
俺の書いた文章で、魔王様が笑った。
これはもう、実質的には大成功ではないだろうか。
「アードゥ。お前は本当に、私をそのように見ているのか」
「はい。まだ三割も書けていませんが、現時点での観測結果としてはかなり正確です」
「量はもうよい」
「まだ一割も」
「量はもうよい」
魔王様は二度言った。
王の命令だった。
残念だ。
リューネは疲れた顔で、次の紙束をめくる。
そこには、俺がかなり真面目に書いた文章があった。
魔王様は可愛い。
それは人間も魔族も等しく認めるべき真実である。
リューネの赤筆が止まる。
次に、俺を見る。
「そこ。真実って書かない」
「真実だろ」
「あなたの中ではね」
俺は反論のために息を吸った。
ここは譲れない。
「魔王様が可愛くないと言うのか」
リューネは少しだけ口を閉じた。
目線が一瞬、魔王様へ行く。
魔王様は、何も言わずにこちらを見ていた。
リューネは諦めたように息を吐く。
「魔王様は可愛い」
「だろう!」
「でも」
リューネは、背後に積まれた紙束を指さした。
「あなたの好きは、誰かの好きじゃない。もちろん、みんながそうだったら嬉しいけど。そうじゃないでしょ?」
「魔王様は可愛い」
「そこに戻らないで。私も魔王様を悪く言われたくない。でも、人間が最初に見るのは、たぶん可愛さじゃない。魔王って名前とか、魔力とか、怖さとか、そういうものだよ」
リューネの声は、いつもの呆れだけではなかった。
「でも、見れば分かるだろう」
「分からない人もいる。分かりたくない人もいる。利用できるって思う人もいる。だから、最初に投げる言葉を選ばないといけないの」
リューネは、破った紙ではなく、まだ残している一枚を指で押さえた。
俺は口を閉じた。
指が痛む。
包帯で固定した筆が、少しだけ重く感じた。
魔王様は可愛い。
それは俺にとって真実だ。
だが、真実と書けば、人間がそのまま受け取るわけではない。
そこまでは、たぶん分かる。
納得できるかどうかは、別として。
「では、どう書けばいい」
リューネは少し考え、紙束の中から一枚を抜き出した。
それは、俺が途中で勢いのまま書いた一文だった。
魔王様は、滅ぼすための王ではなく、守るものを持つ王である。
リューネはその一文を、赤筆で囲った。
「少なくとも、これは読める」
「そこ、可愛いって書いてないんだが」
「だから残ったんだよ」
ひどい理由だった。
ヴェラがその紙を受け取り、しばらく眺める。
無言の時間が長い。
破られるかと思った。
しかし、紙は破られなかった。
「文章としては稚拙。文字も汚い。魔王様への私情がにじみすぎている」
「にじみます。魔王様なので」
「黙れ」
ヴェラは紙へ視線を戻した。
「だが、読めない内容ではない」
「見てもらえる!」
「そこまで喜ぶ評価ではない。最低条件を突破しただけだ」
最低条件。
突破した。
つまり、進歩だ。
俺は包帯で固定した筆を握り直した。
痛い。
だが、まだいける。
「よし。では、この方向であと百枚ほど」
「書かないで」
リューネの声は疲れ切っていた。
魔王様は、残った一枚を眺めている。
その横顔は、少しだけ静かだった。
「滅ぼすための王ではなく、守るものを持つ王、か」
魔王様が小さく呟く。
俺は背筋を伸ばした。
「はい。魔王様は、そのような方です。怖くて、気高くて、品があって、可愛くて、そして守るものを持つ王です」
「最後に戻ったね」
リューネが赤筆を構えた。
俺は黙った。
命が惜しい。
その時、扉の外から足音が近づいた。
軽くはない。
急いでいる。
ヴェラが先に動いた。紙を机に置き、扉の方へ目を向ける。
入ってきたのは、外縁の兵だった。
畑の土が靴についている。
息が少し上がっていた。
「報告いたします。境界付近にて、人間側の斥候が増えています。数はまだ小規模ですが、荷に火油と思われる壺を確認しました」
部屋の空気が変わった。
紙束の山も、破られた表紙も、包帯で固定した筆も、急に遠くなる。
魔王様は、手元の一枚を机に置いた。
さっきまで少し緩んでいた口元から、笑みが消える。
王の顔だった。
「ヴェラ」
「すぐに外縁へ向かいます。リューネ、必要な治療具を用意しろ。アードゥは――」
ヴェラの視線が、俺の包帯を巻いた手で止まった。
少しだけ、眉が動く。
「……荷を持てるのか」
俺は自分の手を見た。
痛い。
かなり痛い。
筆を握るために固定した包帯は、荷物持ちにはあまり向いていない。
けれど、紙を書くためだけに動く手ではない。
「持ちます」
そう言いかけたところで、横からリューネが俺の手首を掴んだ。
「こんな巻き方じゃ荷物なんて持てない。貸して」
返事をする前に、包帯がほどかれる。
細い指が、俺の手の甲に触れた。
ひやりとした指先。
けれど、触れたところだけ、妙に温かい。
「にやにやしないで。今はそんな場合じゃないでしょ」
「そう言われても、体は正直なんだ」
「気持ち悪い」
ぱしん、と巻き直された包帯の上から手をはたかれた。
痛い。
でも、痛みの中にリューネの指の温かさだけは残った。
かなり悔しい。
少し嬉しい。
「ちゃんと働いて。そしたら、あとで回復魔法をかけてあげる」
「今かけてくれてもいいんじゃないか」
リューネは包帯の端をきゅっと結び、俺を見上げた。
「だめ。これは戦闘用。そんな、しょうもない怪我に使わない」
「魔王様への忠誠の結果なんだが」
「しょうもない怪我」
断言された。
リューネの巻き方は、さっきまでと違っていた。
指は動く。
擦れたところは守られている。
握れば痛いが、持てないほどではない。
魔王様がこちらを見る。
「アードゥ」
「はい」
「次の荷だ」
さっきまで魔王様の可愛さについて書いていた。
今度は、たぶん火に向かう。
それでも、荷物持ちは呼ばれたら荷を持つ。
俺は机の端に置いてあった小さな鞄を手に取った。
「……はい。運びます」




