14話 畑に来た火
外縁へ向かう道は、来た時よりも短く感じた。
リューネに巻き直された包帯の上から、鞄の紐が指に食い込む。痛い。だが、持てないほどではない。鞄の中身は、さっきまで机の上に広げていた紙束とはまるで違っていた。
水袋。濡らした布。火傷用の軟膏。替えの包帯。小さな鋤。
剣よりは、ずっと分かる。
先頭を歩くヴェラの黒い外套が、石の廊下を抜けるたびに低く揺れる。その後ろへ兵たちが何人か合流し、足音が増えていった。リューネは俺の少し後ろで、治療具の袋を肩にかけ直している。顔は硬い。
魔王様は同行しない。
けれど、出発前に聞いた声が、まだ耳に残っていた。
「畑を守れ。だが、怒りで追いすぎるな」
魔王様はそう言った。
「火を消せ。火で返すな」
その言葉に、ヴェラが短く頷いた。俺は深く頭を下げることしかできなかった。
外へ出ると、風の匂いが違った。
土の匂い。草の匂い。まだ火は見えない。それでも、背中に嫌な汗が滲む。
畑が見えてきた。
ガルムさんは柵の近くに立っていた。腰には鉈、手には鍬。どちらを武器と呼べばいいのか分からない顔で、森の方を見ている。
畑の中では、すでに魔族たちが動いていた。水桶を運ぶ者、荷車を寄せる者、小屋の奥へ人を下がらせる者。土起こしの魔物は小屋の前で落ち着かないように鼻を鳴らし、背中の甲殻を揺らしている。
魔物避けの鈴が、風に鳴った。
ちりん、と細い音。
畑には似合う音だった。
「来たか」
ガルムさんが俺を見る。いつもの農家の親父の顔ではない。それでも、怒鳴りはしなかった。
「火を持って畑に入る奴は、魔族でも人間でも馬鹿だ。覚えとけ」
「はい」
「覚えたら、水を運べ。そこに置いてある桶、全部だ。燃えたら説教は後だ」
説教はあるらしい。
でも、後ならいい。
今は水だ。
森の向こうで、人影が動いた。
五人。
いや、七人。
革鎧の兵たちが、木々の間から少しずつ姿を見せる。先頭の男は盾を持ち、背後の二人は壺を抱えていた。壺の口には布が巻かれている。
火油。
本当に、火油だ。
ヴェラが外套の下から剣の柄へ手を添える。その動きだけで、周囲の魔族兵が配置についた。
リューネは俺の横を通り、薬草区画に近い場所へ下がる。治療具を置く位置を探している。戦うためではなく、倒れた誰かへ届くための場所だ。
人間側の先頭の男が、こちらへ声を張った。
「魔族ども。その畑は魔王軍の補給地帯と判断する。抵抗するなら、焼却対象となる」
言葉は整っていた。
補給地帯。
焼却対象。
畑という言葉は、出てこない。
ガルムさんの手が、鍬の柄を握った。
「補給だろうが畑だろうが、火を持って入るな。燃やすなら、お前の靴底から燃やすぞ」
かなり怖い農家の親父だった。
人間兵の一人が笑う。
「魔族が畑を守ってるぞ」
別の兵が壺を構えた。
俺は喉が乾く。
手紙の一文が、頭の中で勝手に浮かんだ。
魔族領には畑がある。
そこを焼けば、軍事施設ではなく食べ物が燃える。
畑がある、と知ったから。
燃やせる、と考えたのだろうか。
「アードゥ」
ヴェラの声が飛ぶ。
「水の位置を見ろ。火が入れば、まず藁から移る。薬草の干し棚へ行かせるな」
「はい!」
返事をした瞬間、人間兵の手から壺が投げられた。
壺は柵の端に当たり、鈍い音を立てて割れる。油の匂いが弾けた。次の壺には火がついている。赤い筋が飛び、乾いた藁に落ちた。
火が立つ。
本当に、火だ。
畑が燃える。
夢ではない。
俺が――
「水だ」
ガルムさんの声が、頭を叩いた。
大声ではない。だが、土の奥から響くみたいに重い。
「謝る暇があるなら、水を運べ」
俺は桶を掴んだ。
手が痛む。
リューネの包帯が、指の皮を守ってくれている。
痛い。
持てる。
桶を運ぶ。畝の間を走る。踏むな。畑を踏むな。畝の端を避けろ。水がこぼれる。こぼしても止まるな。次を運べ。
火は藁から柵へ移っていた。
ヴェラが前へ出る。黒い外套が翻り、人間兵の前に影が落ちた。剣が抜かれる音は聞こえなかった。ただ次の瞬間、盾を持っていた男の足元が裂け、土が跳ねる。
「下がれ。命令は、追いすぎるな、だ。殺さぬうちに退け」
ヴェラの声は低い。
人間兵たちは、一瞬だけ動きを止めた。
その隙に、ガルムさんが燃えた藁の束を蹴り飛ばす。燃えた部分だけを畑の外へ出し、鍬で土をかぶせた。
「アードゥ、次! 薬草の棚へ水を回せ!」
「はい!」
返事だけは出る。
足はもつれそうだった。水桶を持つ腕が重い。包帯の下の皮膚が熱を持っている。息が喉に引っかかる。
濡れた布はリューネへ。
火傷用の軟膏は、治療具の箱の右奥。
薬草の干し棚は、軽いものから先に燃える。
焦げた藁は、畑の外へ。
水は、足元ではなく、火の行き先へ。
「こっちじゃない、あの棚だ! 風がそっちへ行ってる!」
自分の声だと、少し遅れて気づいた。
近くにいた魔族の若者が俺を見て、それから棚を見た。すぐに動く。
ありがたい。
疑う暇も惜しい。
人間兵の一人が、最後の壺を持って走った。ヴェラが止めに入る。だが、その男は足を滑らせた。
壺が手から離れ、燃えた柵の近くで割れる。
火が跳ねた。
男の足に移る。
「ぎゃあああっ!」
人間兵が転がった。仲間が引こうとするが、火は布へ移っている。男は泥の上で暴れ、走ることもできないまま、腰の短剣へ手を伸ばした。
ヴェラの外套が揺れる。
刃が、男へ向かった。
「待って」
リューネの声が、間に落ちた。
ヴェラの剣先が、男の喉元で止まる。
「止めるな。ここで斬らねば、また被害が出る」
「火なら、馬鹿に水を運ばせればいい」
馬鹿。
たぶん俺だ。
リューネは治療具を抱えたまま、人間兵へ近づいた。杖を握る手は震えている。
ヴェラがそれを見る。
「無理をするな。震えているぞ」
「でも、やる」
リューネは低く言った。
「魔王様のため」
人間兵の短剣が、泥の上に落ちた。
リューネは膝をつき、火傷した足へ手を伸ばす。顔は険しい。優しい顔ではない。
緑の光が、彼女の指先から広がった。
焼けた皮膚が少しずつ戻る。
男が息を呑む。
リューネの額に汗が滲んだ。
「勘違いしないで。許したわけじゃない」
治療しながら、リューネは言った。
「ここで死なれると、魔王様が困る。それが嫌なだけ」
ヴェラは剣を下げないまま、リューネの前に立った。
「魔王様のため、か」
リューネは顔を上げなかった。
俺は濡れ布を掴んだ。
まだ火は消えていない。
人間小隊は、ヴェラに押されて森の方へ下がっていった。
完全には追わない。
やがて、火は土と水で押さえ込まれた。
柵の端が焦げた。
藁の束がいくつか駄目になった。
薬草の干し棚は、半分だけ残った。
畝の端は黒く焼けている。
俺は桶を置いた。指が痛い。包帯の端が焦げて、少し黒くなっている。
リューネが治療を終えて、人間兵から手を離した。男はまだ怯えた顔でこちらを見ていたが、足は動くようだった。
「立てるなら、帰って。二度と畑に火を持ってこないで」
男は何も言わなかった。
仲間に支えられながら、森の方へ下がっていく。
ヴェラは追わなかった。
ガルムさんは、焦げた畝の前にしゃがみ込んでいた。
俺は近づいた。
謝らなければならないと思った。
けれど、言葉が出る前に、ガルムさんが立ち上がる。
「立ってるな。食えるものと、駄目なものを分けるぞ」
「はい」
「焦げた葉は集めろ。土に戻せる分もある。薬草はリューネに見せてからだ。水をかぶった箱は干せ。腐る前に中を出す」
指示が、次々に飛ぶ。
俺は頷き、動いた。
日が落ちる頃、ようやく一段落した。
焦げた匂いはまだ残っている。
魔物避けの鈴は、半分焦げた縄にぶら下がったまま、風に小さく鳴っていた。
リューネが俺の手を取った。
今度は、何も言わずに包帯を外す。
焼けた端を見て、少しだけ眉を寄せた。
「ちゃんと働いたから」
それだけ言って、回復魔法をかける。
柔らかい緑の光が、指の熱を少しずつ引かせていく。
「戦闘用じゃなかったのか」
「戦闘だったでしょ。あなたは戦ってないけど」
「かなり厳密だな」
「しょうもない怪我よりは、まし」
ありがたい。
扱いは低い。
ガルムさんが、焦げた野菜を籠に分けていた。
俺が近づくと、彼は一つを持ち上げる。
「半分は食える。半分は駄目だ。畑も、まあ、そんなもんだ」
「すみません」
ようやく言えた。
ガルムさんは、焦げた根菜を見たまま鼻を鳴らした。
「謝るなら明日も来い。土を戻す。焦げたところを起こして、灰を混ぜて、水を入れて、支柱を立て直す。謝罪より手がいる」
「来ます」
「なら、今はそれでいい」
それだけ言うと、ガルムさんは籠を持ち上げた。
そして、少し遅れて付け足す。
「助かった」
短い言葉だった。
俺は返事をし損ねた。
胸の奥が、変なふうに詰まった。
ガルムさんは、明日の仕事を数えている。
魔物避けの鈴が、焦げた縄の先でまた鳴った。
ちりん、と細い音。
俺は焦げた畝を見てから、ガルムさんに向かってもう一度頷いた。
「明日も、運びます」




