68話 旧中継所
旧中継所は、使われていない建物らしい。書類上はそうなっている。
とてもそんな面構えではないが。
石壁は欠け、看板は薄れ、窓枠には古い雨染みがある。
でも、戸口の周りの土は踏み固められている。
中へ入ると、灯油の匂いが鼻についた。
奥の机は拭かれ、紙筒を立てる木箱には新しい擦れ跡がある。灰色封の切れ端が炉の横で一枚だけ燃え残り、魔王軍の札紐に似た撚りの紐まであった。
セレネは俺の背を軽く押した。
「そこ、座りな」
拘束者を座らせるには随分豪華な椅子だった。
机と椅子の隙間に体を滑り込ませる。
少し遅れて、戸がもう一度鳴る。
入ってきたのは、年の読みにくい男だった。
襟の擦れた上着に、雨を吸った革靴。
指先に墨が残るが、足元は泥で汚れている。
書くのか走るのか。随分ちぐはぐな事をやっている。
「ご協力、感謝します」
男はそう言ってから、俺と戸口を交互に見る。
なんだ?
「あとは我々が」
セレネは笑わなかった。
「我々だって?」
「せめて所属くらいは堪えてくれてもいいんじゃないかい」
男は唇の内側を一度だけ舐め、返事の代わりに紙筒から罫線入りの紙を出した。
机へ置き、角を揃え、右手の親指で端を押さえる。
無駄に仰々しい。
「指令と場所と受け取り手。それが揃っていてもまだ不満だと?」
「へえ」
杖の先が石床を一度叩く。
「あたしに命令できる組織なんて聞いたことないけどね」
男はそこでようやくセレネを見た。
「ここで私の名を出すことに意味はありますまい」
「自分のことは秘密ってわけかい」
男の喉が小さく動いた。
男は答えない。
代わりに、筆を取った。
「よく喋る筆だよ。まったく」
セレネが言う。
俺は黙って見ていた。
何か言いかけて、やめた。
男の視線が俺へ来る。
顔じゃない。
先に見たのは、縛り目と椅子の脚と戸口までの距離だった。
紙のいちばん上には、薄い下書きがもう透けていた。
男は迷わずそこをなぞる。
「アードゥ・テイカー」
背中が冷えた。
俺が名乗る前に、俺の名前が紙の上へ収まる。
「まだ名乗ってないんだが?」
「前便の記録がありますので」
「聞く前から書けるんだな」
筆は止まらない。
元勇者一行所属。現魔王軍関係者。境界会談時に接触確認。
俺の顔より先に、紙の上の俺が出来ていく。
そこまで書いてから、男はやっと俺の手首へ目を落とした。
「確認します。抵抗の意思は」
「ないよ」
答えると、セレネが横から遮った。
「今はね」
男は少しだけ頷く。
「結構です」
そう言う前から、紙は半分埋まっていた。
どこに何を埋めるのかはあらかじめ決まっていたみたいだが。
男の親指が紙の下半分を押さえたまま離れない。
セレネがその紙を見て、ようやく少しだけ笑った。
「手際いいね」
「仕事ですので」
「そう」
彼女は俺の横へ回り込み、椅子の背に手を置いた。
「じゃ、続けな」
男は筆を取り、さらさらと書き始める。
俺の名前の横に拘束確認が入り、その下へ筆が滑る。
証言、処分、確認者。
下の欄だけが、まだ口を開けたままだった。
男は一度も俺の顔を見ない。
筆が止まったのは、確認者の欄に来た時だけだった。
そこだけ空けたまま顔を上げる。
親指が、またすぐ紙の縁へ戻った。
「証言確認に進みますか」
セレネが答える。
「もちろん。そっからが本番だ」
男が、そこでようやく筆を持ち直した。
紙の下半分は、まだ白かった。




