65話 踊らされる女
境界線の上の紙は、まだ湿ったままだった。
人間側の偽命令も、俺の名前が入った差出人欄も、魔族側から飛んできた伝達札も、まだ地面に貼りついている。
それなのに、弓兵の肩だけが先に強張っていく。
リュシオンが一歩前へ出た。
「セレネ、下がれ」
セレネは命令書を見たまま、下がらない。
「下がったら、こいつの思うつぼだろ」
紙の端が風でかすかに鳴る。
セレネはその紙を二つに折り、杖の先で地面を軽く叩いた。
「という訳で、拘束させてもらう」
「誰をだ」
人間側の空気がざわついた。
背中側の林でも、枝が短く鳴る。
ゲルデが何か言いかけた気配がしたが、聞き取る前にセレネが俺を見た。
「こいつに決まってるんだろ。この紙にもご丁寧にそう書いてあるんだ。その通りにしてやろうじゃないか」
リュシオンの声がさらに低くなる。
「セレネ」
「敵性接触の疑い、拘束準備。命令書にはそう書いてるんだ。何か不都合かい?」
「その疑いとやらを真に受けるのか」
「んなわけないでしょ。乗ってやるの」
セレネは杖を地面へ突いた。
「今ここで突っぱねても、従わなかった。って結果が残るだけ。向こうの手札を増やすだけでしょ」
レイネだけが、少しだけ目を細めた。
後ろの弓兵たちは、互いの顔を見合うばかりだった。
俺はそこで息を飲んだ。
喉の奥がひゅっと鳴る。
あの目だ。
止めても聞かない時の、嫌に静かなやつ。
セレネが近づいてくる。
縄じゃない。
治療具袋から抜いた細い布紐だ。兵の止血に使う、柔らかいやつ。
「両手、出しな」
俺は従った。
布が手首に触れたところで、変に暴れる気が失せた。
昔、勇者の荷を勝手に積み替えて、あとで隊長に殴られた時と同じ目だ。
面倒なことを、分かった上で踏みにいく目。
セレネは俺の手首へ布を回した。
きつく見えるのに、骨の出っ張りを外して巻いている。
力を入れれば擦れるが、血までは止まらない。
結び目も内側じゃなく横だった。
「逃げるんじゃないよ」
そう言いながら、布を引く手は前へ促していた。
俺は手首の布を見下ろした。
「分かった。乱暴にはしないでくれよ」
セレネの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「その減らず口もふさいだ方がいいかね?」
リュシオンはまだ納得していない様子だった。
「本陣へ戻せ」
「戻さないよ」
セレネは即答した。
「なぜだ」
「戻したところで、向こうの足取りは追えやしないよ」
一呼吸おく。
「だから本陣へは戻さない。境界に縫い付ける」
レイネが静かに聞く。
「どこまでやるつもりですか」
「最後までに決まってるでしょ」
セレネは俺から目を離さなかった。
「半端にやったところで得られるもんはないよ。やるなら徹底的にさ。違うかい?」
セレネの手は、俺を本陣へ向けなかった。
布の端は、境界沿いの道へ引かれている。
最後まで。どこまで行く気だ。
背中側の林で、ゲルデが怒鳴りかけた。
「おい、人間ども――」
だが、その途中でヴェラの低い声が割って入る。
「待て」
枝が鳴り止む。
「馬鹿の様子がおかしい」
俺は顔を上げなかった。
抵抗はしない。
ヴェラならたぶん何とかしてくれるだろう。たぶん。
セレネが布の端を引いて、俺を歩かせる。
「行くよ、荷物持ち」
「言い方」
「荷物になってないだけましだろ?」
口ではそう言いながら、歩幅はちゃんと合わせてきた。
境界線の泥を踏む。
紙の通りに、俺は捕まった。
手首の布が小さく揺れた。
震えてるのが俺か向こうか、それはまだ分からない。




