64話 会談の余白
人間側の弓兵が構え直す音は、思ったより小さかった。
その小ささが、逆に怖い。
背中側の林でも、気配が一段だけ近づく。ヴェラかゲルデかは見えない。見えないけれど、今こっちで変な動きをしたら、向こうも即座に動くのは分かった。
一歩間違えれば、そのまま戦闘だ。
リュシオンが低く言う。
「セレネ、下がれ」
セレネは下がらない。
「下がったら、この紙きれの思い通りになるよ」
その言葉で、少しだけ呼吸が戻った。
俺だけじゃなく、あいつも同じものを見ている。
「向こうも同じだ」
俺は言った。
「俺が戻ったら、たぶん捕まるな」
監視は増える。会談そのものが疑われる。紙の上では、もう俺の欄がどこかへ差し込まれ始めている気がした。
セレネは俺を見た。
「なら、真ん中で立ってな。どっちつかずのままで」
「死ぬほど怖いんだけど」
「怖がってるうちは死んでないから安心しな」
相変わらず容赦がない。
人間側の伝令は、まだ呼吸を荒くしていた。魔族側の連絡役も、林の陰で気配だけを強くしている。
俺は命令書ではなく、まず人間側の伝令を見た。靴の泥、紙筒の紐、封の巻き方、汗の匂い、肩へ残った荷の癖。急いではいるが、ただ全力で走ってきた足じゃない。途中で一度止まり、別の誰かから受け取っている。筒の紐にも結び直しが一回入っていた。
「燃やすな」
セレネの指先が紙の端を強くつまんでいたので、先に言った。
「紙からでも追いかけられることはある」
セレネがこっちを見る。
「あんた、本当に面倒くさい男になったね」
「たぶん、あいつのせいだな」
口にした瞬間、少しだけ胸が詰まった。
でも、嘘じゃない。
紙を見ろ、残せ、道を追え。
あいつが死んでから、そこだけ妙に骨へ残っている。
レイネが人間側の命令書を広げた。リュシオンがそれをセレネへ寄越す。俺のところからも文字が少し見えた。
差出人欄に、見覚えのある名がある。
アードゥ・テイカーより。
魔族側使者は囮。拘束準備。
喉の奥で、何かが冷たく固まった。
ほぼ同時に、背中側の林から伝達札がもう一度鳴る。今度はヴェラの声だった。
「荷物持ちより。人間側、交渉偽装の疑い」
俺の名が、両側で余白に差し込まれている。
知らない間に有名になったもんだ。
腹の底が、じわっと熱くなった。
「俺の名前を、勝手に荷札にするなよ。まったく」
セレネが一瞬だけ俺を見る。
「……そこが怒るところ?」
「大事だろ」
セレネの口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
「まあ、あんたらしいよ」
レイネはすでに紙へ目を落としている。
「墨が新しい」
指先で、差出人欄の端を示す。
「それから、持ち場の部分だけ、こちらの命令系統では使わない略字があります」
背中側で伝達札が二度、短く鳴った。
ヴェラの声が飛ぶ。
「同じ略字を確認」
肌が粟立つ。
セレネが紙を燃やしかけた。
怒りで、たぶん反射だった。
俺は一歩だけ前へ出る。
「まってくれ。記録して、残す。」
セレネの指先が止まる。
「ちょっと仕事できる感じが腹立つ」
「俺も自分でそう思う」
「調子のんな」
そう言いながらも、火はつけなかった。
リュシオンがしばらく紙を見ていた。俺の名が入った偽命令も、同じ略字も、同じ余白も、まとめて。
まだ俺を信じていないだろう。
それでも、今見るべきものが別にあることは分かったらしい。
白銀の勇者は、ようやく言った。
「弓を下げろ」
ざわつきが走る。
でも、弦は少しずつ緩んだ。
背中側の林でも、気配が一段だけ引く。
疑いも、敵意も、まだ残っている。
それでも今この瞬間だけは、互いの喉元には屋は向いていない。
セレネは命令書を畳む。
「あんたを信じたわけじゃない」
「分かってる」
「でも、この場所に妙な紙切れがある。それは事実だから」
人はまだ疑う。
でも、燃やさず残した紙の方は、いったん見てやる。
そこまでだ。
それで十分だった。




