62話 武器なしの馬鹿
境界林の朝は、湿った土と若い葉の匂いが濃かった。
俺はその真ん中で、武器も持たずに立っていた。
両手は肩より少し上。掌まで見えるように開いてある。剣も短剣もない。荷袋も置いてきた。もし今ここで射られたら、避けるより先に死ぬ。
背中側の林には、気配だけがある。
ヴェラか、ゲルデか、あるいは両方だ。
見えない位置で、ちゃんと見ている。
正面には人間側の弓兵が二列。矢羽根の並びだけで、どのくらい緊張しているか分かる。その後ろにレイネ。さらに奥、白銀の鎧のそばだけ空気が少し硬い。
リュシオンだ。
その列の前へ、セレネが出てきた。
杖を持ったまま、真っすぐ歩いてくる。昔より痩せたとか、疲れているとか、そういう感想より先に、ああ、本当に生きていたんだな、と思った。
同時に、喉がひりつく。
怖い。
人間側の矢も怖いが、今はこいつの最初の一言の方がたぶん怖い。
セレネは境界線の手前で止まった。
俺を頭から足先まで見て、それから低く言う。
「こんなところまで、本当に武器も持たずに来たんだな」
俺は両手を上げたまま、少しだけ笑った。
「できれば生きて帰りたいから、お手柔らかに頼む」
セレネは笑わない。
「しばらく見ないうちに、随分と図太くなったじゃないか。なあ?」
「今だって怖いよ」
正直に言うと、自分でも少しだけ楽になった。
「でも、この状況でお前まで敵に回すわけにはいかない。今は、それだけだ」
セレネの目が細くなる。
怒っているのか、測っているのか、その両方かもしれない。
「ふん。その度胸だけは買ってやるよ」
そこでようやく、少しだけ息が入った。
俺はゆっくり片膝をつき、持ってきた紙を地面へ置いた。魔王軍側の空欄つき命令書の写し、ハーゲンの鍵の拓本、死者名義で動いた命令の控え、セレネに送った手紙の控え。どれも軽い紙なのに、地面へ置く指先だけが妙に重い。
「こっちで見つかったものだ。写しだから、持っていってもらっていい」
少し下がる。
するとセレネも、自分の側の紙を地面へ出した。死んだ兵の名が補給受け渡し役に入っている命令、歩けない負傷兵が夜警に回されている命令、正規軍印つきだが持ち場と時刻と荷だけ後から入っている紙。境界線の上に、紙だけが並ぶ。
人間も魔族も、まだ線を越えない。
でも、紙だけは越える。
妙な眺めだった。
俺たちは顔を合わせるより先に、紙を見た。
俺は人間側の命令書の端を見た。墨の濃さも、後から入った字の浮き方も、乾き方の鈍さも似ている。
「こっちは、余白を作ってから人を入れられてる」
顔を上げる。
「そっちも同じか」
セレネは補給命令の一枚を杖先で押さえた。
「同じ。死んだ奴の名前が、あとから補給役に入ってた」
胸の奥が、嫌な納得で冷えた。
「じゃあ、少なくとも手口は一緒だ」
「あんたを信じたわけじゃない」
「分かってる。信じてくれなんて言えた義理じゃない」
言ってから、少しだけ笑いそうになる。
「俺も、俺の立場を信じきれてない」
セレネの眉が動いた。
「胸を張って言う台詞じゃないね」
昔なら、ここでたぶんもっと軽口が続いていた。
でも今は、その一往復で十分だった。
レイネが、セレネの横へ半歩だけ進む。
「見せてください」
セレネは止めない。
レイネは境界線すれすれへ膝をつき、人間側と魔王軍側の紙を見比べた。指では触れず、目だけで順に追っていく。墨の濃さ、筆圧の揺れ、後筆の位置。
沈黙が長い。
後ろで弓兵の弦が小さく鳴る。背中側の林でも、誰かが枝を踏みかけて止まった気配がした。
ようやくレイネが口を開く。
「墨の乾き方が似ています」
セレネが顔をしかめた。
「つまり、同じ奴が噛んでる?」
「そこまでは断定できません」
レイネの声は静かだった。
「書いた場所は違うはずです。それなのに、後から入れた部分だけ手順が同じです。墨の含ませ方、筆の返し、欄の埋め順。本人か、同じ仕組みの中にいる者か」
俺は境界線の上の紙を見下ろした。
敵味方で分かれているはずなのに、後から入った字だけが妙に仲がいい。
「俺たちは、何を追ってるんだろうな。同じなのか。違うのか。それも分からない」
口にした途端、自分でちょっと嫌になった。
セレネはもっと露骨に嫌そうな顔をした。
「気持ち悪い言い方すんな。……でも、否定できないのがもっと気持ち悪い」
風が境界の上を抜ける。
紙の端が、同じ向きに少しだけめくれた。




