61話 余白の外
朝の詰所には、湿った紙と獣脂の匂いがこもっていた。
境界へ運ばれる命令書は、たいてい夜のうちに束ねられる。見張りの交代、補給の受け渡し、負傷兵の移送。どれも地味で、遅れれば困るくせに、誰も英雄譚にはしない仕事ばかりだ。
セレネは机の上へ広げられた紙束を見下ろしていた。
懐には、まだ燃やしていない紙が二枚ある。
アードゥから来た手紙と、昨日届いた短い警告だ。
あとで燃やす、の「あと」が長すぎる。
「これ」
レイネが一枚を抜いた。
「夜明け前に届いた補給命令です。正規軍の印があります」
セレネは受け取る。
紙質はいつもの軍用紙だ。乾き方も、折り目も、印もおかしくない。
けれど、見ていると喉の奥に嫌なざらつきが残った。
「わざわざそんな言い方するってのはどこが変なんだ?」
「宛名です」
レイネが指した先には、見覚えのある名前があった。
昨夜、谷側の巡回で死体が見つかった若い兵だ。
首筋を短く裂かれ、荷札だけを残して転がされていた。
もう埋めた。
なのに、その名が補給受け渡し役として書かれている。
「死んだ兵の名前が入ってる、のか」
セレネの声は低かった。
「はい。しかも、ここだけ後筆です」
レイネの爪先が、墨の濃さの違いを示す。
持ち場も、時刻も、運ぶ荷も、そのあたりの字だけ少しずつ違っていた。
「わざわざ書き足せるようにしてるってことか」
口にすると、胃の奥が冷えた。
昨日の紙と同じだ。
リュシオンは少し離れた場所で腕を組んでいた。白銀の鎧は今日もきれいだが、肩のあたりにはまだ境界の泥が薄く残っている。
「他にもあるか」
短い問いだった。
レイネはすぐ次の紙を出す。
「こちらは負傷兵の移送命令です。治療室にいる兵の名が、夜警へ回されています」
「歩けないのに?」
「今はどうか知りませんが、少なくとも昨夜の段階では」
セレネは紙を机へ戻した。
嫌だった。
間違いでも書き損じでもない。ちゃんと仕事を知っている奴が、わざと余白を残し、誰かが死ねばその名前を入れ、倒れれば別の持ち場へ押し込む。
人の顔ではなく、空いた欄の都合で動かしている。
「人を、都合のいいように当てはめてるのか」
レイネは頷く。
「ええ。しかも、手順は完全に模倣されています」
詰所の入口で、伝令兵が一礼した。
「セレネ様。北側監視から急報です」
「何」
「魔族側の境界林に、一人、立っています」
部屋の空気が少し止まる。
伝令兵は唾を飲み込んでから続けた。
「武装なし。両手を見せたまま動きません。夜明け前から同じ場所です。林の手前より内には入ってきていません。名は名乗っていませんが、紙を持っていると」
セレネの指が、懐の上から紙を押さえた。
レイネがすぐに聞く。
「距離は」
「矢が届く手前です。こちらが動くのを待っているように見える、と」
リュシオンが視線を上げる。
「罠だ」
「そりゃそうでしょ」
セレネは即座に返した。
罠じゃない方が怖い。
正規軍の印つき命令に死者名義が混じる朝だ。そんな日に境界へ立つ武装なしの使者なんて、まともなわけがない。
でも、まともじゃないことと、会わない理由は別だった。
レイネが静かに口を開く。
「昨日の手紙の件と、時期が合いすぎています」
「分かってる」
分かっている。
だから嫌なのだ。
紙の向こうだけで気味悪がっていられなくなる。
セレネは懐から灰色の封を出した。末尾の斜め三本を親指でなぞる。
正規軍の印がある。
でも、臭い。
急げ。
短い文だった。
いつものぶっきらぼうな返書とは違う。急いで書き綴ったもの。
「セレネ」
リュシオンの声が落ちる。
止める声ではない。
先に覚悟を置かせる声だ。
「行くなら、俺も出る」
「あんたが出たら、向こうが引くよ」
「引かなければどうする?」
「その時は、その時だよ」
言ってから、少しだけ息を吐いた。
考える前に口から出た返しだ。
でも、今はきれいに考えている余裕がなかった。
行くべきかどうかじゃない。
この余白を作っている手が、どこまで同じなのかを確かめるしかない。
しかも、その境界をまたげる人間は多くない。
セレネは紙束を見た。死んだ兵の名が入った補給命令も、歩けない兵を夜警へ回す命令も、正規軍の印も、懐の中の燃えていない二枚の紙も、軽いくせに人を立たせて歩かせる重さを持っていた。
「私が行く」
伝令兵が顔を上げる。
レイネは何も言わない。
リュシオンだけが、少しだけ目を細めた。
「行くと言い切るなら、理由を言え」
「あっちが、私を出せって書いてるようなもんだから。それじゃ不満?」
自分で言って、少し腹が立つ。
勘みたいな言い方だ。
でも、本当だった。
「それに、あいつが関わってるなら、私が見た方が早い」
「アードゥか」
「たぶんね」
言い切れないのが、また腹立たしい。
でも、武装なしで境界へ立つ馬鹿なんて、そう何人もいない。
レイネが治療具袋の口を結ぶ。
「では、私は後方で待機します。毒、術式、発火、幻惑、どれでも見ます」
「ありがと」
「お礼は、戻ってからで結構です」
リュシオンが剣帯へ手をやった。
「弓兵を二列。森へ入るな。合図があるまで射つな」
伝令兵が駆けていく。
セレネは懐の紙をもう一度押さえた。
燃やしていない紙ばかり増える。
最低だ。
詰所の外へ出ると、朝の風はまだ少し冷たかった。境界林の向こうは薄く白んでいる。そこに誰が立っているのか、まだ顔までは見えない。
けれど、武器を持たずに立って待つ姿だけは見えた。
昔、荷崩れした食料袋の前で立ち尽くしていた馬鹿を、少しだけ思い出す。
「……本当にあんたなら」
声は風に紛れた。
怒るのが先か、殴るのが先か、自分でもまだ分からない。
それでも、セレネは境界へ向かって歩き出した。




