60話 余白の命令
夜明け前の記録室は、血の気だけが抜けたみたいに静かだった。
机の上には昨夜の残りが並んでいる。濡れた札、空封、空欄つきの命令書、古い鍵。死んだ使い走りの服から出た、ハーゲンの名まである。
軽い物ばかりだ。
なのに、どれも人一人ぶんの重さを持っている。
ヴェラは空欄つきの命令書を一枚持ち上げた。
「こいつらは、先に余白を作っている」
紙の端が、灯りの下でかすかに鳴る。
「余白って、何の余白だ」
ゲルデが眉を寄せる。
「宛名、持ち場、時刻、運ぶ荷。肝心なところだけを空けておく。あとから都合のいい者をそこへ入れるためだ」
ヴェラの指が、空欄を順に叩く。
「記録を改竄しているだけではない。記録に合わせて、人を動かしている。消えた者、死んだ者、生きている者。その区別すら、あとから書き換えられるようにしている」
リューネの顔がわずかに歪んだ。
「人を、帳面の部品にしてる」
「そうだ」
ゲルデが舌打ちした。
「胸糞悪いどころじゃねえな」
俺は命令書の端を指でなぞった。薄い紙の下に、昨夜の若い顔がまだ貼りついている気がする。あの細い足首も、泡を吹いた口も、きれいに消えてくれない。
ハーゲンの名も同じで、死んだはずの男の鍵が今もここにある。
死んだことにされた奴も、生きていることにされた奴も、同じ紙の上で入れ替えられる。
扉が二度叩かれた。
伝令兵が灰色の封を持って入る。糸二重。左巻き。
末尾を見る前から、差出人は分かっていた。
灰色の封には、短い文だけが入っていた。
『こっちも同じ。死者名義で命令が動いてる。正規軍の印がある。でも、臭い。急げ』
末尾に斜め三本。
セレネだ。
ゲルデが低く唸る。
「人間側にも同じ手口か」
「同じだ」
ヴェラは手紙を机へ置いた。
「魔王軍の内側だけではない。人間側にも、同じ余白が作られている」
部屋の空気が少し変わる。
内通の話じゃなくなる。
魔族だけで帳面を締め直して終わる話じゃない。
俺は机の上を見た。濡れた札も、空封も、空欄つきの命令書も、死んだはずの男の鍵も、セレネの手紙も、軽いくせに人を動かす重さを持っていた。
その時、廊下の外で兵の靴音が揃って止まった。
扉が開く。
魔王様が入ってくる。
紫の目が机上を一巡する。濡れた札、空欄つきの命令書、古い鍵、灰色の封。全部を見て、それから俺へ止まった。
「報告は受けた」
静かな声だ。
それなのに、部屋の奥までまっすぐ届く。
俺は一歩だけ前へ出た。
「魔王様」
自分でも驚くほど、声はまっすぐ出た。
「俺に行かせてください」
部屋の空気が止まる。
魔王様の紫の目が、こちらへ向いた。
「何をする気だ、アードゥ」
咎める声ではなかった。
確かめる声だった。
「セレネと会って、直接話してきます」
ゲルデが顔を上げる。
「勇者側の女とか」
「はい」
頷くと、喉がひどく乾いた。
それでも、ここで止まる気はなかった。
「俺たちは今、誰と戦ってるのかも分かってない。でも、この相手は魔族だけでどうにかできる相手じゃないです」
ヴェラも、リューネも黙っている。
「魔王軍の記録も、人間側の命令も、同じ手で触られてる。だったら、片方だけ見てたら駄目です。向こうで何が起きてるのか、セレネから直接聞きます」
魔王様はしばらく俺を見ていた。
「貴様は、人間だ」
「はい」
「今も、そうか?」
少しだけ答えに詰まった。
でも、逃げるところじゃない。
「たぶん、今もです。でも、魔王軍の荷物持ちでもあります」
魔王様はわずかに目を細めた。
「ならば運べ」
短い間のはずなのに、次の言葉が聞こえるまでやけに長く感じる。
「そして、戻ってこい。貴様が見たもの、聞いたもの。そして、貴様自身も。すべてと一緒に」
胸の奥が、痛いくらい強く鳴った。
「……はい」
魔王様が去ったあともしばらく、部屋は静かだった。
けれど、今度の静けさは重いだけじゃない。
向く先ができた静けさだ。
俺はセレネの手紙を見た。末尾の斜め三本は、昔、野営道具に付いていた小さな癖だ。
勇者パーティを追い出された時、もう戻らないと思っていた線だ。
今度は、そこへ向かう。
誰かが作った余白を埋めるためじゃない。
余白の外にいる人間と、話をするために。




