59話 静かな当番
夕方になっても、尋問室の前を通ると縄と胃液の匂いが残っていた。
その生臭さを鼻の奥へ引っかけたまま、俺とリューネは補給倉へ降りた。外の紙は、すぐ鼻に引っかかった。城の紙よりざらついていて、乾き切っていない草の匂いが混じる。荷物持ち時代に何度も触った、王都寄りの安い包み紙だ。紙束の底からは、宛先も封もない細い空封が三つ出た。
「中身だけ別で運んでるな」
俺が言うと、リューネが空封を指で弾いた。
「箱か筒?」
その時、ゲルデが補給倉へ飛び込んできた。
「北側第三班のラズが妙だ。正式通達もないのに荷をまとめてる。あいつ、普段なら箱一つ持つ前に文句を三つは言う」
そこで胸の奥が引っかかった。
静かな当番。
黙って動くラズなんて、それだけでもう別人みたいだ。
隣でリューネが髪を肩の上へ払う。薬草の青い匂いが寄って、耳の下の白い肌がちらりと見えた。こんな時でも目が勝手にそっちへ滑るんだから、我ながら救いがない。
「今、何を見てたの?」
「いや、紙の匂いが気になって」
「嘘。次に同じ顔したら薬湯をかける」
怖い。
でも、その一言で変に張り詰めていた肩が少しだけ戻る。
壁際からヴェラが声を落とした。
「餌になる気か。理由を言え」
「紙を見つけたのは俺だ。向こうもそれを知ったら寄ってくる。しかも、カイムじゃなくなったって分かれば、たぶん舐める」
喉がひりつく。
言えば本当に餌になる。
ゲルデが顔をしかめた。
「死に急ぐな」
「急いでない。……怖い。でも、ここで引いたら、次も誰かが紙の下に押し込まれる」
リューネが俺を見る。
「止めてもやる顔してる」
「止める気はあるんだな」
「ある。次に同じ顔したら、本当に薬湯をかける」
ヴェラが短く頷いた。
「分かった。餌に使う」
夜の見張り交代まで、もう長くない。
俺は空封を一つ掴んだ。
笑えるくらい軽い。
それなのに、掌へ乗せた途端、妙に重かった。
そのあと、俺は記録室に戻され、帳面を広げて待った。
交代の鐘が鳴って少ししてから、控えめなノックがした。
「記録引き継ぎ」
ラズだ。
「入れ」
扉が開く。無精髭に不機嫌面。なのに、文句がない。ゲルデの話どおりなら、それだけでもう妙だった。その静けさだけで、喉の奥が冷えた。
命令書筒を受け取る。紙筒の縁が、汗を吸った指先にやけに滑る。
やっぱり外の紙だ。
「遅いな」
わざとらしく言うと、ラズの口元が少しだけ引きつった。
「面倒だっただけだ」
俺は筒を机へ置き、わざと視線を空封へ流した。
その瞬間、ラズの目が同じ場所へ跳ぶ。
食いついた。
「もういい。戻れ」
「ああ」
ラズが出ていく。俺は三つ数えてから飛び出した。
廊下の角でゲルデが合流する。先へ進むラズの背中は早い。北側の細い連絡路へ入り、旧資材置き場へ曲がる。
そこで、小さな白布が金具に結ばれて揺れていた。
風で二度、震える。
「合図だ」
ゲルデが低く吐く。
ラズが布の下を通った先で、人影が一つ現れた。頭巾を被った、細い影だ。兵というより、書記か使い走りに近い体つきだった。
ラズが筒を渡す。
影は代わりに小箱を差し出した。
「止まれ!」
ゲルデが踏み込み、影が身を引く。短剣が閃き、ラズの肩を浅く裂いた。悲鳴。箱が落ちる。蓋が外れ、床へ散ったのは命令書の下書きだった。
全部、空欄つきだ。
宛名、持ち場、交代時刻、運ぶ荷。肝心なところだけがぽっかり抜けている。そこを埋めれば、誰でもどこへでも動かせる紙だ。
「クソが」
ゲルデが斬りかかる。影は紙を踏んで跳び、奥の格子へ走る。その逃げ道を、横から滑り込んだヴェラが断った。
低い一閃。
外套の裾が切れる。
影がよろめく。
そこで見えた足首は、思っていたよりずっと細かった。石床を蹴って逃げるには頼りない細さで、戦う役じゃないのが一目で分かった。
「遅かったですね、ヴェラ様」
声も若い。
次の瞬間、影は首元へ針を突き立てた。
「待て!」
俺の声より早く、泡が口からあふれる。リューネが駆け込んで押さえつけるが、間に合わない。
頭巾がずれて、まだ若い顔がのぞいた。
知らない顔だ。
知らないのに、見覚えがある気がした。城のどこにでもいる、目立たない雑務の顔だ。こういう奴から先に使い潰される。
「おい」
しゃがみ込むと、そいつの目がかすかに動く。
「誰に命じられた」
返事の代わりに、喉がひゅっと鳴った。
「……終わったことに……されたく……」
それだけだった。
そこで、目が止まる。
俺はしばらく動けなかった。敵か味方かより先に、今ここで一人、都合よく口を塞がれたって事実の方が重い。
ラズは壁にへたり込み、肩を押さえて震えている。どこまで知っていたのかは分からない。ただ、使う側の顔じゃない。紙を運ばされて、最後はこっちへ転がされた。
リューネがそいつの服を探る。
「鍵がある」
掌に乗せたのは、古い通路鍵だった。柄の根元に小さく名前が刻まれている。
「ハーゲン」
ヴェラの目が細くなる。
「死んだはずの監査補佐官だ」




