58話 帳面の歯抜け
昼までかかっても、気分は少しも乾かなかった。
巡回簿をめくるたび、指先がざらつく。紙のせいだけじゃない。
カイムの札と記録を合わせたところから、妙な穴がいくつも見つかった。
戦のあった日じゃない。
何もなかったはずの日の欄だけ、ひとつ名が消え、ひとつ印がずれ、何かを上から塗り潰したみたいな荒れが残る。
「歯抜けだな」
俺が言うと、リューネが肩越しに帳面を覗いた。
「印だけずらして、名前を抜いてる?急いで見たら、ただの書き間違いで流れる程度に」
「カイムは気づいてたみたいだな」
机の端には、あいつの癖のある印が残っている。丸でもなく、ばつでもなく、気に入らない行にだけ入れる短い引っかき線。
いつもなら嫌味の種にしか見えなかったそれが、今日は妙に頼もしい。
「ヴェラ」
記録棚の前に立つ背中へ声を掛ける。
「これ、カイムが追ってたんだと思う」
ヴェラはすぐには振り向かなかった。
「根拠を言え、根拠を」
「机の札だけじゃない。こっちにも、あいつの印がある」
帳面の端を指で叩く。
「あいつはずっと、この違和感を抱えてたんだと思います。それは、あの男とも別じゃない」
「だろうな。奴の動きは計画的過ぎる。いつから仕込んでいたのか読めんほどにな」
外から椅子の倒れる音がした。
次いで、喉を潰したような短い息。
嫌な音だった。
俺たちが駆け込んだ先で、尋問に回していた当番兵の一人が柱にもたれ落ちていた。拘束縄を自分の首へ巻いて、無理に体重をかけたらしい。
間に合ったのは、ほんの少し早かったからだ。
「水と布。押さえて」
リューネが膝をつく。俺は肩を支えた。兵の体は汗でぐしょぐしょだった。首に残った縄跡は赤黒く、吐いた唾が顎まで垂れている。
生々しい。
帳面の穴より、よっぽど生々しい。
「違う……俺じゃない……」
兵は咳き込みながら、同じ言葉を繰り返す。
「紙が来た……あれに従わないと……次は俺が終わるって……」
その言葉で、背中が冷えた。
終わる。
死ぬじゃない。終わる、だ。
帳面の穴と同じ言い方だった。
ヴェラが屈み込み、低く問う。
「誰が持ってきた」
「見てない……扉の下に、いつも……」
「声は」
「聞いてない……紙だけだ……」
紙だけ。
その言い方が、妙に腹に立った。
人を動かして、人を死なせて、最後に残るのが紙だけだなんてふざけてる。
リューネが兵の喉を確かめながら小さく舌打ちした。
「死なせるにはまだ浅い。脅されて、追い込まれてる」
「だけ、じゃないだろ」
思ったより強い声が出た。
自分でも驚いたが、引っ込める気にはならなかった。
「こいつも、カイムも、帳面の穴に押し込まれそうになってる」
ただ、それが嫌だった。
部屋が少し静まる。
ヴェラがこちらを見る。
怒るかと思った。
けれど、返ってきたのは短い言葉だった。
「ならば見ろ。だが、一人で先走るな」
そこでようやく、少しだけ息が抜けた。
兵は治療室へ運ばれた。去り際、爪が俺の袖をひっかいたまま離れた。床には擦れた靴跡と、落ちた涎、切れかけた縄。さっきまでここに人間が首を吊りかけていたのに、片づければすぐただの石床になる。
それが余計に嫌だった。
記録室へ戻る前、俺は振り返った。
「ヴェラ、この先は俺にやらせて欲しい」
「ほう。随分やる気じゃないか」
「カイムの仇をとる。なんて、格好つける訳じゃない。ただ、あいつには色々貰ったからそれを返したい」
「いいだろう。そのやる気に免じて認めてやる。だが、リューネか私を連れていけ」
俺は帳面を脇へ抱えた。
「これは俺が見つけた。だから、俺が先に噛む」
ヴェラの目が細くなる。
その横で、リューネが小さく息を吐いた。
「アードゥ、ちょっとだけましな顔になったね」
「カイムのお陰かもな」
カイムの机に残っていた濡れた札は、もう乾いている。
でも、あれが示した穴は乾かない。
なら、今日のうちに手を入れるしかなかった。




