57話 濡れた札
翌朝、雨は止んでいた。
止んでいたのに、城の石壁も、俺の頭の中も、まだ昨夜の水を吸ったままだった。
寝台へ横になった覚えはある。寝た覚えはない。目を閉じるたび、盛り土の端をヴェラが足先で寄せていた場面ばかり浮かぶ。
結局、夜が薄くなる頃には詰所へ来ていた。
誰もいない机が一つあるだけで、部屋は妙に広い。
カイムの机だ。
椅子は半端に引かれたまま、卓上の木皿には乾ききった蝋の削り屑、端の欠けた筆、まとめ途中の札紐。昨日までなら、そこへ本人がひょいと戻ってきて、嫌味の一つでも言っただろう。
今は戻らない。
「早いな」
振り向くと、ゲルデが入口で腕を組んでいた。
「寝てない」
「お互いさまだな」
近づいてきた拍子に、外気と鉄の匂いが流れてくる。あいつも埋葬からそのまま持ち場を回っていたらしい。
「ヴェラが探してた」
「ヴェラが?」
「お前が余計なこと始める顔してるってさ」
言い返しかけて、机の上に目が落ちた。
引き出しが、少しだけ開いている。
カイムがそんな閉め方をする男じゃないのは知っていた。あいつは気持ち悪いくらいきっちりしていた。だからこそ、その隙間が気になる。
指を掛けて開く。
中に入っていたのは替え手袋と紐束、それから泥で縁が硬くなった帰着札だった。
その下に、小さな紙片が一枚だけ挟まっていた。
『西札、合わない。戻り一つ多い。あとで詰める』
カイムの字だ。
昨夜、遺体と一緒に返ってきた荷のどさくさで紛れたんだろう。
札を取ると、湿り気は消えているのに、雨と土の匂いだけが残っていた。
その匂いに混じって、かすかに革油。カイムの手袋の匂いだ。
喉の奥が、少し痛んだ。
「何だ」
「札」
表を見る。
刻まれている巡回印は西側。
しかし、この札はいつの話だ。ここ数日はずっとカイムと一緒に居た。それでもこんな話はなかった。
裏に爪の跡みたいな引っかき傷があった。
文字じゃない。けど、ただの傷とも違う。誰かが何かを書きかけて、消したみたいな跡。
「ゲルデ」
「何だ」
「これ、昨日の報告にあった位置と合ってたか?」
ゲルデが札を覗き込み、眉を寄せる。
「……いや。少なくとも、カイムが普段回っていた場所じゃない」
それだけで十分だった。
気のせいで片づけるには、嫌な噛み方をしている。
「ヴェラのとこに行く」
「やめとけ。今のあの人は、その」
「知ってる」
立ち上がったところで、詰所の奥の扉が開いた。
ヴェラだ。
外套は乾いている。濡れた痕は残っていない。けれど、首筋だけが妙に白く見えた。昨日の雨の匂いはもう消えているのに、近づくと冷えた革と、ごく薄い鉄の匂いがする。そんなところへ意識が滑りかけて、今は違うだろと自分で自分の脳みそを殴りたくなった。
「いたか、アードゥ」
「いますよ。寝れなかっただけですけど」
「休めと言うつもりだった」
「それができればいいんですけどね」
俺は札を見せた。
「カイムの机に残ってました」
ヴェラは受け取って一目見ただけで、目を細めた。
「……どこで見つけた」
「替え手袋の下。引き出しが少し開いてて」
「他には」
「まだ見てないです。でも、これ、一緒に見てた時の話とずれてるんですよ」
ヴェラはしばらく黙っていた。
その顔に、悲しそうな色は出ない。けれど、指先だけが少し強く札を挟んでいた。
「だから、見に行きます」
「そんな命令を下した覚えはないぞ」
「分かってます」
自分でも驚くくらい、声はすんなり出た。
「でも、これを机に戻して終わりにはできません。カイムが死んだ後でこんなもんが出てきたのに、見ないのは無理だ」
ゲルデが小さく息を吐く。
ヴェラは俺を見たまま動かない。
その沈黙の間に、廊下の向こうから足音が近づいてきた。リューネだ。治療具袋を肩に掛けたまま、眠っていない顔でこちらを見る。
「何」
俺は札を差し出した。
「カイムの机から」
リューネは札の縁に親指を当て、ぬめるような泥の痕を見たあと、裏面の引っかき傷へ目を止める。
「消してる」
「やっぱり?」
「書き損じじゃない。削った跡」
ヴェラが短く言った。
「記録室を開ける」
「命令?」
「違う」
ヴェラは札を俺へ返す。
「お前が見ると言った。なら最後まで見ろ。私はそれを止めない」
胸の奥で、何かが強く鳴った。
命じられたからじゃない。
自分で足を出した、その感触だ。
記録室は冷えていた。棚の上には巡回簿が並び、昨日までただの紙だったものが、今日はやけに腹立たしい。
札の印、西側。
帳面の記録、北側。
照らし合わせると、該当欄だけ紙肌が妙に荒れている。消して書き直した跡だ。しかも、その行の下にある兵の名が、別の頁では「未帰還」になっている。
「何だよ、これ」
思わず声が漏れた。
リューネが隣から帳面を押さえる。
「終わったことにしたい書き方」
「死人を増やしたいのか、減らしたいのか、どっちだ」
「どっちでもない。痕跡を揃えたいだけ」
ヴェラが背後で低く言う。
「誰かが、死んだ奴と消えた奴を同じ箱へ押し込もうとしている」
箱。
その言い方で、昨夜の墓穴が頭に浮かぶ。
土と雨の下に埋めるのと、帳面の下に埋めるのは、たぶん少し似ている。
俺は札を握り直した。
まだ湿ってもいないのに、掌だけはじっとりしていた。
「俺、これを追う。追わないまま埋めたら、たぶん一生、あの机を見られない」
ヴェラもリューネも返事をしない。
けれど、止めもしなかった。
それで十分だった。




