56話 雨の葬送
雨は、朝から止まなかった。
城の外れに掘られた墓穴は、降り続ける水に縁から少しずつ崩れている。
掘り返した土は黒く、水を吸って重い。
踏むたびに泥が靴裏へまとわりつき、離れようとしなかった。
棺ではない。
厚い板と、布だ。
そこに包まれたカイムが、雨の下に置かれていた。
参列しているのは多くない。ヴェラとリューネ、俺とゲルデ、それから外縁の兵が数人。雨の音ばかりがうるさくて、人の声は妙に小さくなった。
雨が土を叩く音だけが、やけに細かく耳へ入ってくる。
穴の縁が、ぼこりと小さく崩れた。
その音で、喉の奥がひきつった。
土じゃない。
戻ってくるのは、その後だ。
梃子を差し込んで、兵が黙ったまま力を込める。軋む格子が少しずつ隙間を作り、その向こうに崩れた石と転がった死体が見えた。
その奥、留め具のそばにカイムがいた。片膝をついたまま崩れたみたいな姿で、最後まであそこを離れなかったのだと、嫌でも分かる場所だった。
ヴェラの手が俺の肩に触れた。
そこでようやく、息が止まっていたことを思い出した。
「今は、止まるな」
そう言ってヴェラは、カイムの元に向かっていった。
「アードゥ」
低い声で呼ばれて、顔を上げる。
ヴェラが見ていた。
黒い外套は雨を吸って、いつもより重そうに見える。
仮面には水が流れていた。
「ぼさっとするな。持て」
言われて、ようやく手が動いた。
板の端を掴む。濡れて滑るし、指にも力が入らない。それでも落とすわけにはいかない。向かい側では、顔色の悪いゲルデが片腕で板を支えている。一番重症の癖に。
少し離れた場所では、リューネが治療具の袋を抱えたまま立っていた。
「下ろすぞ」
ヴェラの声で、板がゆっくり傾く。
穴の中へ降ろされた布が、雨粒を吸って少しずつ色を濃くしていく。
俺の手の中には、古い刺繍の入った赤い布がまだ残っていた。
ゲルデが残した布と、同じもの。
そして、カイム・アーデントの名が縫われた布。
その名前を見た時だけ、息がうまく吸えなかった。落ちた水門の前では、ただ読んだだけだったのに、今は縫い目の一つまでやけにはっきり見えた。嫌でも、そういう場所まで来てしまった。
穴の底へ土が落ちる。
また、ぼこりと縁が崩れた。
その音で、今度は別のものまで戻ってくる。俺の肩を止めたヴェラの腕。喉が裂けたみたいに叫んだ声。布を掴んだ指。そして。
『後ろを見ろ、アードゥ』
小さかった。
なのに、今も雨音よりはっきりしている。
視界の端で、リューネが少しだけ俯いた。
濡れた髪が頬に張りついている。
治療の時みたいに動けばいいのに、今日はそれができないらしい。
ゲルデが、穴の底を見たまま言う。
「……馬鹿野郎」
短かった。それだけだったのに。嫌と言うほどその気持ちは分かってしまう。
本当に、馬鹿野郎が。
雨は止まない。
兵が土を入れる。
湿った土は重く、布の上へ落ちても乾いた音を立てない。
土は少しずつ積もり、そのたびに見えていたものが減っていく。見えなくなるほど、現実だけが嫌に濃くなった。
リューネが一歩だけ前へ出た。
そこで止まる。
杖を持つ指が少し白い。
「……無茶ばっかりして」
誰に向けた言葉だったのかは分からない。カイムか、ヴェラか、自分か。たぶん全部だったのだろう。
ヴェラは何も言わなかった。
ただ、兵の手からスコップを取る。
誰も止めない。
黒い手袋のまま柄を握り、自分で土を掬う。
雨を吸った土は重い。
なのにヴェラは、それを黙って穴へ落とした。
一度、二度、三度。そのたびに墓穴の縁が崩れ、掘った形が歪んで土が斜めに落ちる。まっすぐ埋まらないし、綺麗にも閉じない。
そこでようやく、ヴェラが口を開いた。
「……最後まで手がかかる」
小さかった。
叱るみたいな言い方だった。
その一言だけで、胸の奥が変に痛んだ。
ヴェラはそれ以上続けない。
仮面の奥の目も見えない。
ただ、スコップを持つ手だけが止まらなかった。
土が入る。
また崩れる。
また入れる。
雨が降る。
その繰り返しだった。
やがて、穴は埋まった。
高くもない、小さな盛り土ができる。
雨粒がそこを叩き、すぐに形を崩そうとする。
兵たちは一歩下がった。
誰も、終わったとは言わなかった。
俺はまだ、泥のついた靴の先を見ていた。
何か言わなきゃいけない気がした。
でも、綺麗な言葉なんか一つも出てこない。
「……どうせ、もっと綺麗に埋めろとか言うんだろ」
口から出たのは、それだった。
自分でも、ひどいと思った。
でも止まらなかった。
「後ろ見ろって、勝手に言って。自分は先に行くし。見ろって言うなら、最後まで自分で見てろよ」
雨に混じって、声がうまく落ちなかった。
格好悪い。
締まらない。
でも、今さら綺麗に言える相手じゃない。
カイムはたぶん、そういうのを鼻で笑う。
横で、ゲルデが小さく息を吐いた。
リューネは顔を上げなかった。
ヴェラだけが、少し遅れてこちらを見る。
何も言わないまま、また盛り土へ目を戻した。その沈黙で十分だった。
やがて兵が一人、低く頭を下げて離れる。
それを合図にしたみたいに、他の者も少しずつ散っていく。
ゲルデも、最後に布の端へ一度だけ目を落としてから背を向けた。
リューネはしばらく動かなかったが、治療具の袋を抱え直し、ようやく小さく息を吐いて歩き出す。
残ったのは、俺とヴェラだけだった。
雨はまだ降っている。
盛り土の表面が、もう少しずつ崩れ始めていた。
ヴェラが一歩前へ出る。
膝を折るでもなく、ただ立ったまま、その崩れた端へ足で土を寄せた。
それでもまた、雨が削る。
雨の野郎、最後まで雑にしていきやがる。
俺は少しだけ、後ろを見た。濡れた城壁、見張り台、遠くで持ち場へ戻る兵たち、リューネの小さな背中、ゲルデの重い足取り。あいつ、最後に面倒なもんを丸ごと押しつけていきやがった。
そう思ったところで、ヴェラは動かなかった。
最後まで墓穴の前に立っていた。
外套も髪も雨を吸って、その肌に張りついている。
仮面の奥は見えない。見えないのに、いつもよりずっと儚く見える。
「風邪ひきますよ」
何て声を掛ければいいのか分からない。
でも、何か言いたかった。
「馬鹿は風邪を引かん」
「いや、俺じゃなくてヴェラの話」
少しだけ間があった。
雨が盛り土を叩く音だけが、その間を埋める。
「私も大馬鹿だ」
その呟きは、雨音に紛れて落ちた。
聞き返すほどでもない。
聞き返したら、たぶん駄目になる。
ヴェラはまだ盛り土を見ている。
崩れた端へ、足先でまた少し土を寄せる。
それでも雨が削る。
最後まできっちり閉じさせてもらえないところまで、あいつらしいとでも言えばいいのか、そんなことを思った自分に少し腹が立った。
やがてヴェラが低く息を吐く。
それからようやく背を向けた。
「戻るぞ」
声はいつも通り低い。だが、少しだけ掠れていた。
「はい」
俺も歩き出す。
城へ戻る道はぬかるんでいたが、足はもう止まらなかった。
二章終了




