55話 後ろを見ろ
男の不敵な笑み。
それを切り払うようにヴェラが前に出る。
「カイム、合わせろ!」
その一声で、カイムの動きが変わった。
カイムでは引き分けていた男だが、ヴェラの連撃の前に押されていく。
「これが、魔族の力ということですか」
それでも男の口元は崩れない。
「その減らず口、いつまで持つ」
ヴェラの剣戟はさらに鋭さを増す。
男を抑えるだけでなく、さらにもう一人の兵士すら圧倒していく。
刃が鳴るたび、補助水門前の空気が少しずつ押し返されていく。
石の床に散った血が踏み荒らされ、靴裏で黒く伸びた。
もう、全部ヴェラ一人でいいんじゃないか。
「カイム!」
ヴェラの連撃に合わせた次の一歩で、カイムの膝がわずかに遅れた。
その隙に振るわれた剣。
気付いた時には、俺は短剣をそこに差し込んでいた。
「君にしては随分早かったじゃないか」
「ヴェラに脅されたからな」
金具同士が噛み、火花が散る。
衝撃が手首の骨まで突き抜けた。
まともに受けたら終わる。
それでも、一拍止まれば充分だった。
カイムを支え、距離を取り直す。
ヴェラが抑えている間に、こいつを落とす。
「行けるか、カイム」
「無論だ」
カイムの攻撃に合わせて短剣を突き出す。
相手の意識が逸れればそれで充分だ。
鬱陶しそうに突き出された足。
それが俺の腹にめり込んだ。
息が潰れる。
視界が一瞬だけ白く弾けた。
だが、それで充分。
「今だ、カイム! やれ!」
蹴った反動で、逸れた体。
そこにカイムの剣が突き刺さる。
人間兵が呻き、膝から落ちた。
その向こうで、昼間の男が笑みの形だけを深くした。
「貴様、何が狙いだ」
ヴェラの声が響く。
「見ての通り、時間稼ぎですよ。貴方を倒せるとは思っていない。ですが、死ぬつもりもありませんがね」
「鬱陶しい。男らしく攻めてくれば良いものを」
「私は、混乱が本職です。それに、魔族に男を説かれるのは不愉快です」
その瞬間、水門の向こうで金具が強く鳴った。
振り向く。
補助水門が、最初よりさらに上がっていた。
格子の隙間が広がっている。
向こう側で、鎖を巻き取る音が止まらない。
曇り空の下、水門の向こうだけが妙に暗く見えた。
そこにいる影は、一つや二つじゃない。
「ヴェラ! まだ向こうが動いてる!」
「見えている!」
ヴェラは答えながらも、前を離れられない。
昼間の男の剣が、まるでそこから退かせないためだけに絡みついてくる。
しつこい。
足を止めるための剣だ。
「ようやく見えましたか」
男は薄く笑う。
「こちらは最初から勝ちに来ていませんよ。貴方たちが目の前にかかずらう間に、奥は進む」
その言葉の間にも、鎖の音は続く。
水門の格子が、ゆっくり、だが確実に上がっていく。
腹を蹴られた痛みとは別の冷たさが背を走った。
「カイム!」
呼ぶと、カイムは男ではなく水門を見ていた。
半分外れた閂。
歪んだ格子。
石片に噛んだ下枠。
向こう側から押し上げる影。
「ヴェラ様!」
カイムの声が飛ぶ。
「前を!」
ヴェラは一瞬だけ、目だけでカイムを見た。
それで十分だった。
「アードゥ、下がるな!」
「は?」
返した時には、もう遅い。
カイムの体が低く沈む。
次の瞬間、半分上がった補助水門の下へ滑り込んでいた。
「カイム!」
鉄格子の影が、銀灰色の髪の上を走る。
向こう側へ着地した音が、重い水音に混じった。
そのまま一人を斬る。
もう一人の胸を蹴り飛ばす。
鎖へ手を掛ける。
「止めろ!」
昼間の男の声が、そこで初めて崩れた。
ヴェラの剣が、その焦りを逃がさない。
「貴様の声を聞く義理はない」
火花が散る。
男は下がる。
だが、それでも退かない。
俺は前へ出ようとした。
でも、目の前にはまだもう一人いる。
短剣を振るう。
弾かれる。
足が止まる。
向こう側で、カイムが鎖を引く。
だが、落ちない。
格子の下枠に、崩れた石が噛んでいた。
半端に上がったまま、重い金属が鈍く軋む。
「くそっ」
カイムが足元の石片を蹴る。
動かない。
向こうの兵が剣を振るう。
肩口が裂ける。
血が飛ぶ。
それでも、カイムは鎖から手を離さない。
「カイム、戻れ!」
喉が裂けた気がした。
カイムは一度だけ、こちらを見た。
その目は、もう迷っていなかった。
「後ろを見ろ、アードゥ」
小さかった。
なのに、やけにはっきり聞こえた。
次の瞬間、カイムは剣を逆手に持ち替え、噛んでいた石片へ叩きつけた。
石が砕ける。
歪んでいた格子が、一気に沈む。
同時に、向こう側の留め具が外れた。
鎖が跳ねる。
重い金属が断ち切れる音が、水門室いっぱいに響き渡った。
「カイム!」
前へ出る。
だが、その肩をヴェラの腕が横から止めた。
「行くな!」
轟音。
補助水門が、爆音を鳴らして落ちる。
石床が震えた。
格子と石片が噛み合い、火花みたいに破片が散る。
土煙が一気に上がった。
向こう側の影が、白く潰れる。
一拍だけ、何も見えなくなった。
さっきまで鳴っていた鎖の音も、剣戟も、怒号も消えた。
「……カイム」
自分の声だけが、やけに近かった。
返事はない。
土煙が少しずつ薄れていく。
落ちた鉄格子の隙間から見えるのは、暗い石と、向こう側に広がった赤だけだった。
ヴェラは、まだ俺の肩を掴んでいた。
その手が少しだけ強い。
昼間の男はもういない。
いつの間にか、もう一人も消えていた。
逃げたのか、巻き込まれたのかも分からなかった。
水門は閉じた。
向こうから入るはずだった連中は、止まった。
そして、カイムは戻ってこない。
ヴェラが、ようやく俺から手を離す。
すぐに水門へ近づき、格子の縁へ手を掛けた。
鉄が軋む音だけが鳴る。
「ヴェラ……」
「兵を呼べ」
少しだけ掠れていた。
「梃子を持ってこさせろ。ここをこじ開ける」
「でも、カイムが」
「分かっている!」
珍しく、声が跳ねた。
そのまま口を閉ざし、もう一度、水門を押し上げる。
動かない。
俺の足元に、何かが落ちてきた。
赤い布だった。
見覚えがある。
ゲルデが残したのと同じ、古い刺繍の入った布。
俺はしゃがみ込み、それを拾った。
湿った血を吸って、端が少しだけ重い。
刺繍の縫い目を、親指がなぞる。
そこには名前があった。
カイム・アーデント。
「アードゥ」
ヴェラが振り向かずに言う。
「泣くな」
「泣いてません」
言いながら、声が変なのは分かった。
でも、涙は出ていなかった。
兵の足音が、ようやくこちらへ近づいてくる。
梃子を抱えた兵。
縄を持った兵。
状況を見て、誰もすぐには口を開けなかった。
水門は閉じた。
侵入は止まった。
俺は手の中の布を握りしめた。
後ろを見ろ。
さっきの声が、まだ耳の奥に残っていた。
水門の向こうだけ見てる場合じゃない。
ここで止まったもの。
ここで落ちたもの。
ここからどう動くか。
水門の前に、曇った夕暮れの色だけが沈んでいた。
赤は雲に食われ、石の上には鈍い色だけが残る。
その鈍い色の中で、ヴェラはもう一度だけ水門に手を掛けた。
何も言わずに。




