54話 崩落の向こう
「多勢に無勢ですね。ここは退くとしましょう」
「簡単に逃がすと思うのか」
カイムの低い声が響く。
「ええ。退きますよ」
カイムが一歩踏み出す。
その前で、男の剣が横へ走った。
狙ったのは俺たちじゃない。
横穴の脇を支えていた、細い石の柱だった。
嫌な音がした。
乾いていたはずの古い石が、内側から軋む。
切られた柱の上で、小さな崩れが起きた。
それが終わりじゃない。
崩れた石が横の積みに当たり、積みの歪みがそのまま天井へ走る。
「これはまずい!」
「下がれ! カイム! 天井が落ちる!」
ゲルデの意識は半分落ちかけている。今も呼吸が荒い。
こちらを振り返ったカイムは、再び前を見て、そして。
走り出した。
「カイム!!!!」
俺の叫びは、轟音にかき消されていく。
石が落ちる。
土煙が一気に広がる。
頭上の暗がりごと、水路が潰れたみたいだった。
今は、ゲルデを外に運ぶしかない。
「ちょっと揺れるぞ」
返事はない。
ゲルデを担ぎ、水路を一気に駆け抜ける。
肩に掛かる重さが、さっきよりはっきり重い。
足元の石は濡れている。
滑る。
でも転べない。
「あと、ちょっと」
目の前に、光が見える。
しかし、背後ではすぐそこまで天井が崩れてきていた。
石の砕ける音が、背中を押すみたいに近い。
間に合え。
こういう時、人間は案外やれる。
自分にそう言い聞かせ、足を踏み出した。
轟音が背中で跳ねた。
次の瞬間、水路の外へ転がり出る。
湿った草が頬に当たった。
目の前が白い。
何度か瞬きをして、ようやく草が見えた。
倒れたらしい。
でも、水路の外だ。
「アードゥ!」
聞き慣れた声が落ちてくる。
「リューネか。俺よりこいつを頼む」
見上げた先に、リューネの鎧があった。
あーあ。普段着だったら太ももでも見えたのに。
「最低。ちょっと黙ってて」
どうやら漏れていたらしい。
こういう時にまで漏れる辺り、我ながらどうかと思う。
「おい、カイムはどこだ」
ヴェラの声が頭上から落ちる。
「……そうだ、それどころじゃない。カイムが敵を追って、水路の奥に!」
「全く。馬鹿を二人も放置した私の責任か」
ヴェラはそう言って、周囲の兵に指示を飛ばし始めた。
「水路の先はどこに繋がる」
「地図を持て」
「崩落の規模を見ろ。こっちから通れるかも確認しろ」
兵が散る。
リューネはゲルデの治療に当たる。治療具の袋が地面へ落ち、中の布と器具が湿った草の上へ広がる。
「おい、そこで寝ている馬鹿者」
「もしかしなくても俺ですか」
「他に誰が居る。リューネと兵は一度戻らせる。お前はついてこい」
そう言って、ヴェラは俺の脇腹を足で小突く。
息が戻る。
こういう時に限って、妙に効くから困る。 体は自然とヴェラを追う。
「お前たちの処分は後だ」
「あ、やっぱり怒られますか」
「当たり前だ。二人して命令違反。覚悟しておけ」
「ヴェラだって、魔王様の命令無視して仕事してた癖に」
「黙れ。それとこれは別だ」
草地へ出る。
踏み荒らされた草が足首に絡み、濡れた土が跳ねる。
低い灌木の枝が外套と袖を引っかいた。
「それは流石に都合よすぎないか」
それでもヴェラの速度は上がっていく。
「遅れるなアードゥ。カイムの分の罪まで被りたくはないだろう」
「言ってくれますね。でも、カイムは絶対に連れて帰る」
ヴェラは返事をしなかった。
代わりに、地図を奪うみたいに受け取って走りながら開く。
「崩落地点の先は支流に分かれる。右は古い補助水門。左は外壁沿いの点検路だ」
「カイムはどっちに行く」
「貴様はどう見る」
息がまだ荒い。
でも頭は動く。
「敵を追うだけなら左。でも、あいつが追うなら終点まで行く。止める場所がある方」
「同じ見立てだ」
ヴェラは地図を畳んだ。
「補助水門へ向かう」
城壁の脇を抜ける石段は狭い。
夜露で濡れた草が脛に当たり、斜面の土が靴裏で嫌に逃げる。
石段の角は欠け、踏むたびに砂利がぱらぱらと転がった。
走るたび、湿った土の匂いが喉へ上がってくる。
その先で、すぐに痕跡が見つかった。
壁の低い場所に新しい剣傷。
石を浅く抉り、その下に血が飛んでいる。
まだ乾ききっていない。赤が鈍く光っていた。
「まだ前だ」
ヴェラの声は低い。
だが、足は止まらない。
少し先、崩れた排水溝の脇に人間の死体が転がっていた。
喉が切られている。
だが昼間の男ではない。
「カイムがやったのか」
「そうだろうな。時間を稼いでいる」
「一人で、か」
「今さらそこで感心するな。あれは昔からそういう馬鹿だ」
ヴェラは死体を一瞥しただけで先へ進む。
外套の裾が石と草を払い、歩幅がまた一段広がる。
俺も続く。
その先で、通路の空気が変わった。
水の匂いが強い。
壁の向こうで、重い流れが動いている音がする。
ひんやりしていたはずの空気が、逆に息苦しく感じた。
「補助水門だ」
ヴェラが走りながら言う。
「ここを開かれれば、外から一気に入られる」
「だからあいつはそこを止めに行ったのか」
角を曲がった瞬間、金属音が響いた。
高い。
短い。
だが、何度も重なる。
湿った石壁に跳ね返って、耳の奥を細く叩く。
まだ戦っている。
「追いつける!」
「黙れ。息を乱すな」
吐き捨てるみたいに言って、ヴェラ自身もさらに速度を上げた。
仮面の奥の目だけが、さっきから一度も揺れていない。
補助水門前の広場は、古い石で組まれていた。
通路よりは広い。だが、水門そのものは半分朽ちている。
その前で、カイムが一人で剣を振るっていた。
昼間の男と、もう一人。
二人を相手に、まだ立っている。
だが、外套の脇が裂けていた。
血が落ちている。
石床に点々と続く赤が、ここへ来るまでの無理をそのまま残していた。
しかも、補助水門の閂は半分外れていた。
「カイム!」
俺の声に、銀灰色の髪が一瞬だけ揺れる。
振り向かない。
振り向く余裕がないのだろう。
昼間の男が一歩下がる。
その口元が歪んだ。
「遅かったですね」
その言葉に、ヴェラの足が半歩だけ強く石を打った。
ヴェラが前へ出る。
仮面の奥の目が、補助水門と、外された閂と、カイムの傷を一息に見た。
曇った空が、水門脇の隙間から低く覗いている。
夕暮れの赤は雲に食われ、石の上には鈍い色だけが落ちていた。
「だが、まだ間に合う」
その言葉と同時に、さらに奥で別の金具が鳴った。
水門の向こう側。
人の気配が、もう一つ、二つ。
曇天の下で水の匂いだけが濃くなる。
昼間の男は笑ったまま、刃を構え直す。
「本命はこちらです。さて、どこまで守れますか」




