53話 移される前に
横穴の口は、古い水路の壁に口を開けていた。
崩れた石の陰に半分隠れ、灯りだけが奥で小さく揺れている。近づけば近づくほど、水路の湿った匂いの中に、人の汗と油の臭いが混じった。
カイムは足を止めたまま、横穴の奥を見ている。
さっきまで散々走ったくせに、息はもう整っていた。
「行くのか、カイム」
「ああ。ここで指を咥えて待つわけにはいかない」
「でも、ヴェラ達も戻ってくるんだろ。それからでも遅くないんじゃ――」
そう言いかけた時、水路の奥から絶叫が響いた。
「――ぁ゛ッ!」
短い。だが、聞き間違えるはずがない。
「ゲルデ!」
大声を出しかけたカイムの口を、思わず塞いだ。
「落ち着け。こっちにはまだ気づいてない。攻めるにしても、それを捨てるな」
カイムは一度だけ強く目を閉じ、それからゆっくり頷いた。
まだ、ぎりぎり冷静ではいるらしい。
俺が手を離すと、カイムは小さく息を吐く。
「……済まない。取り乱した」
「珍しく君の言う通りだ。相手の出方は分からないが、奇襲をするならこちらからだ」
「その調子だ。ようやくいつも通りになってきたな」
「ふん。悔しいが今は君に感謝するよ」
そうして二人で、ゆっくりと水路を進んでいく。
足元の石は濡れていた。古い苔が薄く張りつき、踏むたびに嫌な滑り方をする。
周囲に最大限の警戒を配りながら、視線だけは前を向く。
横穴の口へ近づくほど、奥の話し声がはっきりしてきた。
「ちっ、たく。魔族ってのはどいつもこいつも無駄にしぶといな」
「ここまでしても口を割らねぇとはな」
「ここもすぐに魔族に発見される。場所を移す」
話し声だけで、三人。
「下衆共め」
隣で、カイムの憎々しげな声が落ちる。
「アードゥ、奥の様子は分かるか」
「正確には分からん。人の気配は四つ。一つはゲルデ。後の三つは人間。たぶん、そのうちの一人は昨日の奴だ」
「つくづく縁のある相手だな。今日こそ終わらせる」
「落ち着けよ。役割はちゃんと分けておくぞ。ちなみに、俺は戦えない」
「こんな時にまで、役立たず宣言をされても困るのだがな」
奥の気配が慌ただしくなり始める。
移す、という言葉の通り、ここは破棄して次の場所に向かうつもりなのだろう。
灯りの動きも早い。
時間がない。
「奇襲をするなら、一人は落とせる。その後は一対二か。君はゲルデの救出を優先しろ」
「分かった。でも無茶はすんなよ。ゲルデさえ無事に救出できれば上出来だ」
「ああ。深追いはしない。だが、逃がすつもりもないがな」
カイムのその表情には、狩人みたいな獰猛さが宿っていた。
深追いしないと言われても、信用しろという方が難しい。
「最後まで付き合う」
俺が言うと、カイムは珍しく笑った。
ほんの少しだけだ。
「では、付き合ってもらう」
「なんだよ改まって」
カイムはそれ以上何も言わなかった。
「突入の合図を出す。君はそれに続け」
横穴の前の空気が、ぴたりと張り詰める。
奥では、何か重いものを引く音がした。
ゲルデを立たせようとしているのか、縛りを引きずっているのか、それはまだ分からない。
ただ、もう次の瞬間には動くしかなかった。
「3、2、1、今だ」
小さなカイムの合図。
それと同時に、カイムは音もなく飛び出した。
丁度、こちらに背を向けていた一人の人間。その首が宙を舞う。
遅れて上がる血飛沫。
それに紛れるように、カイムの影が躍る。
その後を、俺も続いた。
ここまで来たら、隠密も何もあったものじゃない。
一瞬の混乱が広がる。だが、相手の出方も早い。
「敵襲!」
この場で冷静な判断を下したのは、やはり昼間の男だった。
こいつ、剣の腕だけじゃない。
カイムの剣戟の音が重なる空間を縫い、ゲルデの元にたどり着く。
鎧は剥がれ、体中傷だらけ。
それでも息はある。
「ちょっとの辛抱だ。待ってろ」
手足の拘束具を外す。
「お前、人間か」
「そうだ。でも、少なくとも今はお前の味方だ」
「信用できないな」
「俺のことは信じなくていい。代わりにカイムを信じてやれ」
そう告げると、ゲルデの目は剣線の方へ引き寄せられた。
「今日こそけりをつける」
「また、貴方ですか。しつこい方ですね」
口調だけはやたらと丁寧な男。ほんと、なんなんだこいつは。
「さっさと、解いてくれ。俺はまだ戦える」
ゲルデは今だ、ぎらついた目を向けたまま、窮屈そうに身をよじる。
「馬鹿言うなよ。そんな怪我で何しようってんだ」
「流石にカイム一人じゃ、あの二人はきついだろ。一人ひきつけるくらいはしてやる」
「俺の役目はあんたを助けることなんだよ」
「だったら、俺を助けると思って手貸してくれや。ついでにカイムも助けるんだよ」
そこまで言われちゃ、俺も男だ。
「……乗ってやる」
ゲルデの拘束は解けた。
だが、武器はない。
「お前は自分の剣を使え。足止めだけなら俺はこれで十分だ」
ゲルデはそう言うと、さっきまで自分を拘束していた鎖を拳に巻き付ける。
鎖の先端が床を引き、鉄の冷たい音が狭い穴蔵に響いた。
「ほんとにやる気かよ」
「今さら何を言ってやがる」
歯を剥くみたいに笑う。
顔色は悪い。立っているだけでもきついはずだ。
「右を取るぞ」
「分かった。転ぶなよ」
「そっちこそな、人間」
カイムの剣戟が正面で火花を散らす。
昼間の男が受け、もう一人が横から食い込む。
二対一。
カイムが押し返してはいるが、そこで止まっている。
なら、こっちで一人剥がすしかない。
「行くぞ!」
俺が先に踏み出した。
鎖を巻いた拳が、すぐ横を唸って通る。
敵は咄嗟に俺へ剣を向けた。
たぶん、俺の方が隙だらけに見えたんだろう。
正解だ。
だから、食いついた。
刃が振り下ろされる。
俺は半歩だけ遅らせて身体をずらした。
頬の横を風が切る。
「もらった!」
ゲルデの鎖が、剣を振り切った男の手首へ絡みつく。
そのまま強引に引く。
「ぐっ――!」
体勢が崩れた。
俺はその懐へ飛び込む。
短剣を抜くほどの距離じゃない。
肩からぶつかって、膝裏を払う。
男の足が折れたみたいに沈む。
そこへゲルデの拳が落ちた。
鎖を巻いた拳が、顔面を横から打ち抜く。
鈍い音がした。
人間の体が壁へ叩きつけられ、そのまま崩れる。
まだ動く。
壁に手をつこうとして、そのまま崩れた。
「一人!」
俺が叫ぶ。
その声で、カイムの剣がさらに前へ出た。




