52話 順調すぎる
ヴェラたちが出てからも、見張り小屋の空気は休まなかった。
搬入口の板は打ち直され、旧水門の見張りも増えている。夜のうちに泥を踏み荒らした兵たちは、眠る暇もなく持ち場を移されていた。
報告が一つ来るたび、カイムの赤筆が短く走る。
地図。書き板。伝令の口。地図。書き板。伝令。
その往復が速い。
速すぎる。
こいつ、体力どんだけあるんだよ。
俺も体力だけなら自信はある方だが、今のカイムはそういう話じゃない。
眠気で鈍るどころか、削れた分だけ尖っている。
「旧水門の見張りは数を減らしていい。今は、周囲の警護に当てろ」
「はっ!」
兵が走っていく。
その横で、別の兵が新しい報告を持ってくる。
「ヴェラ様の小隊、外縁南側の倒木地帯を通過。痕跡あり。血は少量。鎧の破片を一つ回収」
「場所は」
「ここです」
地図の一点を指された瞬間、カイムの筆がもう印を打っている。
地図の上に、ヴェラたちの足取りと、ゲルデの痕跡が並んで増えていく。
鎧の破片。血の跡。踏み荒らされた葉。
しかし、カイムは地図と書き板を交互に見つめたまま、厳しい表情を崩さない。
「流石ヴェラ様だ」
思わずそう言うと、カイムは短く息を吐いた。
「その割には、すごい顔してるぞ」
「ああ。順調すぎるんだ」
地図の一部に、指が添えられる。
「この周囲は、魔物の数も多い。逃げるにしても、追うにしても、ここまで順調に進むだろうか」
戻ってきたばかりの伝令へ、カイムが顔を上げる。
「魔物の痕跡はあったか」
「いいえ。森は普段よりも静かで」
そこで、カイムの手が止まった。
「静かすぎる」
「何がだ」
「血の匂いも、人の気配も、あれだけ派手に残っている。それなのに魔物が寄っていない」
赤筆の先が、ヴェラたちの進行方向をなぞる。
「この道だけ、やけに通りやすい」
「誰が」
「敵だろう」
短い返事だった。
その時、外で馬の蹄が一度だけ鳴った。
乾いた音が板壁に跳ね、次の瞬間には扉が開く。冷えた朝の空気といっしょに、捜索の兵が飛び込んできた。
「報告します。このようなものが」
差し出されたのは、古い刺繍の入った布だった。
泥で色は沈んでいる。端はちぎれ、乾いた血が少しだけついていた。
それを見た瞬間、カイムの表情が変わった。
「これをどこで!」
「はっ。古い水路です。場所はこの辺りで」
捜索兵が地図を指す。
そこはヴェラたちの進軍から外れた道だった。
その先には地図上、何もない。
「あの布は新兵訓練時代の物だ」
「訓練時代?」
「加減を知らない馬鹿を、教官役が無理やり止める時に使う。顔に掛けて、強制的に休ませるための布だ」
「それがどう繋がるんだ」
「僕もゲルデも同期だ。同じ訓練を受けた」
カイムは手拭を裏返した。
「刺繍がある。教官役の名前だ。色も同じ期でしか使わない」
指先が、その古い糸をなぞる。
「これを持っているのは、僕とゲルデだけだ」
俺は布を見た。
泥に沈んだ色。端のちぎれ。乾いた血。
「それ、ゲルデがわざと落としたのか」
「そうとしか考えられない」
カイムはもう地図を見ていた。
「そちらが本命か。早馬を飛ばせ! ヴェラ様たちをすぐに引き返させろ!」
「はっ!」
兵が動く。
その声を追うみたいに、カイムは兜へ手を伸ばした。
机の端で赤筆が転がり、止まりきらずに床へ落ちる。
「おい! カイム、どこ行く気だ!」
「これは罠だ。ヴェラ様たちをすぐに引き返させる。同時に、僕がゲルデの救出に向かう」
「お前、後方指揮って言われただろ」
「言ってる暇がない。ゲルデが残した。急ぐ」
「なんでそんなことまで分かるんだよ」
「詳しい説明は道中でしてやる。君も来い。ゲルデを救うにも運ぶ奴が要る」
「ちゃんと説明してもらうからな!」
そう言いながら、俺ももう走り出していた。
見張り小屋の机も、地図も、赤筆も置き去りにする。
板で塞いだ搬入口の前を抜け、古い水路へ向かって城の外縁を走る。
冷えた朝の空気が喉を刺す。
板で塞いだ搬入口の木の匂いがまだ鼻に残っているのに、外へ出た途端、湿った土と苔の匂いへ変わった。
徹夜明けの足には重いはずなのに、前を走るカイムの速度は落ちない。
「おい、説明!」
「さっきの布だ。あれは新兵訓練時代、教官役が僕らを止めるために使っていた物だ」
「それは聞いた!」
「ゲルデがあれを落とす時は一つしかない。止めろ、だ」
走りながらの声は短い。
だが、迷いがなかった。
「随分、嫌な気転だな」
「効かないよりはよっぽどいい」
古い水路は、城の外縁から少し下った先に口を開けていた。
崩れた石。低い天井。湿った匂い。
入口の縁には夜露が残っているのに、その先の土だけがやけに荒れている。
ヴェラたちが進んでいる外縁の森とは、空気が違う。
草も少なく、朝だというのに音がない。水の音すら奥で死んでいた。
奥へ進むと、すぐに別の痕跡が見つかった。
石の角に、金具が一つ引っかかっている。
鎧の留め具だ。
「ゲルデのか」
「いや、これは違う」
カイムが拾い、すぐに捨てる。
「人間側の拘束具だ。魔封じまではいかないが、動きを制限するためのものだろう」
さらに先。壁際の泥に、布が半分埋もれていた。
今度は外縁兵の色だ。
しかも、切り裂かれた跡ではなく、引っ張って千切れた跡だった。
「生きたまま運んでる」
カイムの声が低くなる。
「殺してるなら、こんな運び方はしない」
その時、奥の暗がりに、小さな灯りが見えた。
揺れる。
止まる。
また揺れる。
ただの反射じゃない。
「人だ」
俺が言うより早く、カイムは足を止めていた。
止まったのは初めてだった。
その代わり、目だけが鋭くなる。
「……見つけた」
古い水路の先、地図にない横穴の口。
そこに、かすかな灯りと、人の気配があった。




