46話 侵入路
「完全に気配は無くなったな」
煙の薄くなった水路でそうつぶやくと、カイムの指が拾った金具を強く握った。
「今はできる限り残されたものを回収する」
「分かった。幸い、荷物持ちならここにいるしな」
「良かったねアードゥ。やっと本来の仕事ができるよ」
留め具、外套の切れ端、煙筒の残り。
少ないが、置いてはいけない。
回収を終えると、そのまま水路の奥へ進んだ。
「流石に逃げた後だとは思うけど、カイム、一応注意してくれよ」
「君に言われなくともそのつもりだ。君こそ、荷物が重くてなんて言い訳はよしてくれよ」
言いながら、カイムは先へ進む。
足元はまだ悪い。湿った石に泥が薄く乗り、壁際の苔は剥がれやすい。水の匂いは濃いのに、水音そのものは弱かった。
「ねえ、アードゥ。ここおかしくない?」
リューネが立ち止まった。
「だな。さっきの二人が逃げたにしては、人の気配が多すぎる」
「気配が多い?」
カイムが振り返る。
「まず足跡が多い。それに、壁の苔の削れ方が明らかにここを何度も人が行き来した跡だ」
俺は壁際を指した。
古い石の苔が、肩や荷の擦れた高さだけ薄い。足元も同じだった。
「あの二人はたまたまここから出入りした訳じゃないな。明らかに慣れてる」
「こんなところを根城にするとは、ドブネズミどもが」
「お前、今日は言葉に随分棘があるな」
「僕も自分で驚いている。何故だろうな」
「この先はどうなってるか分かるのか?」
「水路だから、川とか湖に繋がってるんじゃないの?」
リューネの言葉に、カイムは首を振った。
「いや、この水路は既に使われていない。流れる水も漏れ出たものというだけで、本来の量ではない」
「裏道には丁度いいって訳だな」
「そういうことになる」
さらに先へ進むと、空気が少し変わった。
湿気の中に、人が長く留まったあとの乾いた匂いが混じる。
火の匂いはない。代わりに、布と油の乾いた匂いが残っていた。
「止まって」
リューネが低く言う。
水路脇の窪みに、布が丸めて押し込まれている。中身はない。食い物を包んでいた跡だけがある。
「兵糧か」
「軽いな。長く置いた感じでもない」
カイムが指先で持ち上げた。
「最近まで使ってるってことか」
「しかも一回じゃない」
俺は窪みの周りを見る。
同じような押し跡が、少し離れた場所にもあった。
「これ、一人二人の遊びじゃないな」
カイムは答えず、さらに先へ進んだ。
水路はそこで少しだけ広がる。崩れた石が脇へ積もり、その陰が小さな袋小路みたいになっていた。
壁に細い傷がある。
目印にするには小さい。だが、人間が続けて触れば分かる。
「こっちにも」
リューネが別の壁を指す。
同じ高さ。
同じ形。
「目印だな」
「帰り道を忘れないためか」
「それだけじゃない」
カイムが低く言った。
「荷を運ぶ時の位置合わせにも使える」
「荷って、人か?」
口にすると、リューネが嫌そうな顔をした。
「言わないで」
「悪い」
その先で、俺は紙切れを見つけた。
濡れて端が丸まっている。拾い上げると、墨が少し滲んでいた。
「何だ」
カイムが手を出す。
渡すと、目つきが変わった。
「地図だ」
「読めるのか」
「全部ではない」
小さい紙だ。
線が三本。印が二つ。
旧水門と外縁側の搬入口だけは読めた。
「これ、城の中か」
「少なくとも、こちら側を見て描いている」
「見に来てたんじゃないな」
俺が言う。
「入るために見てる」
カイムは紙を見たまま、何も言わなかった。
代わりに、その紙を丁寧に折り直して懐へ入れる。
「戻るか」
俺が言うと、カイムは首を横に振った。
「もう少しだけ見る」
「まだ行くのか」
「入口だけ見て戻れば、次に塞がれる」
リューネも何も言わず、先へ目を向ける。
その時だった。
水路の奥から、何かが崩れるような音がした。
石が擦れる。
そのあとに、短い息。
俺たちは顔を見合わせるより先に走っていた。
曲がり角を抜けた先、崩れた石の陰に人影が倒れていた。
「ロウ!」
先に声を上げたのはリューネだった。
外縁兵の灰色の袖。
泥と血で色が変わっている。背中を壁に預けるみたいに崩れていた。
顔色は悪い。だが、息はある。
その代わり、左腕がなかった。
肩口から先が、布ごとぐしゃりと潰れたみたいに巻かれている。止血はされている。だが、雑だ。
「生きてる」
リューネが膝をついた。
「アードゥ、布!」
俺は背負っていた荷を下ろし、水袋と布を引っ張り出す。
カイムは一歩前へ出たまま、止まっていた。
「ロウ」
呼ばれて、ロウの目が薄く開いた。
焦点が合うまでに時間がかかる。
リューネが傷口を押さえ直す。
ロウは苦く笑おうとして、上手くいかなかった。
「腕だけ……先に帰ったか」
その言葉で、喉の奥が少しひきつった。
カイムがしゃがみ込む。
「誰にやられた」
「見えなかった……煙が来て……それから……」
声が切れる。
リューネが首を振った。
「駄目。今は無理に喋らせないで」
カイムはロウの傷口を見たまま、何も言わなかった。
「戻るぞ」
俺が言うと、カイムは少し遅れて頷いた。
「ああ」
短い返事だった。
リューネがロウの肩に手を当てた。
「運ぶよ。アードゥ、右。カイム、そっち持って」
俺たちは、その場で追跡を切り上げるしかなかった。




