44話 まだ終わっていない
「待って」
リューネの声が、湿った草地の上で止まった。
「離れて。まだ触らないで。魔力も微かに感じる」
誰もすぐには動かなかった。
草の下に半分埋もれた腕。肘から先だけ。外縁兵の袖。泥に濡れた指先。血の匂いはまだ濃い。
「……」
「カイム?」
俺が呼ぶと、カイムは腕を見たまま口を開いた。
「ダリム」
「は、はい」
「今から言うことを、正確に聞け」
その声は低かった。
いつもの調子に戻しているようで、少し違う。
「そして一言一句たがわずにヴェラ様に届けろ」
ダリムの喉が鳴った。
「ロウの腕は、どうするのですか?」
「今はいい。後で回収係を回してくれ。先に報告だ」
「……分かりました」
ダリムは青い顔のまま頷いた。
カイムは書き板から一枚ちぎり、膝の上で短く書く。字は乱れない。指先だけが少し速い。
「ダリム。お前はこれを至急ヴェラ様へ届けろ。旧水門脇。腕を発見。大量出血。本人未発見。未確定。そこまででいい」
「は、はい」
紙を受け取ったダリムは、それでもまだ腕から目を離せないでいた。
カイムが一歩前へ出る。
「まだそう遠くには行っていないはずだ。追うぞ」
「珍しいな。お前がそんなこと言うの」
「僕にだって許せないことのひとつや二つある」
「ねえ、カイム。焦っちゃダメだよ」
リューネが腕から顔を上げた。
「大丈夫です、リューネ殿。怒りはありますが、まだ冷静なつもりです」
「そうは見えないけどな」
俺の軽口にも、鋭い視線を向けてくる。怖いって。
「君はいつも余計なことを言うな」
「今のは余計じゃないだろ」
リューネが立ち上がる。
「行くの?それともここで言い合いを続けるの?」
「行く」
「行きます」
「……分かった。じゃあ、私も行く」
「リューネまで?」
「腕だけ置いて、体がない。生きてるか死んでるかもまだ分からない。だったら私も行く」
「無理するなよ」
「それ、今はカイムに言って。私は治せるなら治すだけ」
ダリムは受け取った紙と、ロウの腕を交互に見た後に、意を決して、来た道を戻っていく。
結構弱ってたみたいだけど、ちゃんと役目は果たすらしい。そこは少しだけ見直した。
俺たちは草地の先へ踏み込んだ。
血はまだ続いていた。
「こっちだ」
「言われなくても見れば分かる」
俺が指した先を、カイムがすぐ追う。
「それだけじゃない。草の沈み方も違う」
「引きずった?」
「引きずったならもっと真っ直ぐ潰れるはずだ。これは重いのが何度か踏んでる」
「つまり」
「運んでる。たぶん一人じゃない」
カイムの筆が走る。
「……記録する」
「歩きながら書くな。転ぶぞ」
「君と一緒にするな。そこまで不器用じゃない」
小言と連動するように足の運びも早くなる。
血の跡は細くなったり濃くなったりを繰り返していた。草は水を含み、踏むたびにぬるい音を立てる。旧水門の奥はひんやりしているのに、首の裏だけ妙に熱かった。
少し先で、リューネがまた足を止めた。
「待って。あれ、布?」
草に引っかかっていたのは、外縁兵のものではない切れ端だった。色は地味だが、織りが違う。薄い。擦れた跡が少ない。
「ロウのものか」
「違う。これはこちらの装備ではない」
「人間側のものってことか?」
「恐らくは。ただ、随分これ見よがしだな。見つけてくださいと言ってるようなものだ」
俺は布切れを見た。
腕。血。布。
見つけてほしくないものばかり増えていく。
「腕だけじゃなく、ご丁寧に痕跡まで置いていくのか。悪趣味な」
「終わったことにしたいのか、終わったと思わせたいのか、どっちだろうな」
血はそこで一度細くなり、それから急に消えた。
「血、止まったみたいな感じ」
「そんなわけあるか?あの量だぞ」
「いや、本当に止まってる」
カイムがしゃがみ込み、草の根元を見た。
「止まったというか、途切れたって言うべきだろうな」
カイムが顔を上げる。
「……アードゥ、どう見る」
「ここまでは運んでいたことが分かるような足取りで、ここから急に読めなくなった」
「足取りがか?」
「ああ。足跡を隠し始めてる。さっきまでは急いでたのか分からんけど」
「追われると分かってから、変えたのか」
「それか、ここから先は本当に追われたくないのか」
そんなことを言いながら、カイムはその先から目を離さない。
水路の奥は暗い。崩れた石が重なり、その向こうは細く曲がっている。耳を澄ませば、水の音と風の音しかない。
そのはずだった。
「止まって。今音がした気がする」
リューネの声が入る。
「どっちからだ?」
「水路の奥」
暗い水路の奥。俺には何も聞こえなかったが、その先に誰かが居るのか。
でも、止まるという選択肢は今はない。
俺たちは水路の奥へ入った。
足元はさらに悪い。湿った石。低い天井。壁にこびりついた古い苔。風が抜けるたびに、水の匂いと血の匂いが混じる。
少し進んだ先で、またリューネがしゃがんだ。
「ロウの外套。見たことある」
濡れた布は石のくぼみに押し込まれるように置かれていた。外縁兵の印が泥の下から覗いている。
「血は」
「ついてる。でも少ない」
「腕の量と合わない」
「じゃあ、やっぱり腕は――」
「言わないで」
「悪い」
「謝る暇があるなら見て」
外套の肩口を、リューネが指でめくる。
引き裂かれたり、斬られた後ではなく、きれいに解けている。
「脱がされたのか、それとも」
カイムの言葉が途中で途切れる。
「腕を切ってから、外したのか」
「……嫌な趣味だ」
血はない。
いや、少なすぎる。
腕のあった場所と、ここが繋がらない。
俺は外套の向こうを見た。
水路の奥は暗い。だが、そこで終わっていない。
「カイム」
「何だ」
「これ、追わせてるんじゃないか」
「分かっている」
「それでも行くのか」
「ここで止まったら、それこそ何も得ることができない。だから行く」
ロウが傷つけられたことは事実だろう。だが、それだけがカイムをここまで駆り立てるのか?
「なあ、お前絶対何かあるんだろ。ロウのことだけじゃなくて」
カイムは返事をしなかった。
「カイム!」
「何だ」
「前見ろ!」
「――っ」
水路の奥、暗がりの先に新しい赤があった。
「血だ」
「まだ新しい」
「それだけじゃない」
「何が見えた」
「足跡だ。今ついた」
カイムは一歩前へ出た。
「追うぞ」
「待て、カイム!」




