41話 名前のない仕事
帰着札の件を報告してから、数日が経った。
結局、ヴェラはその間もこっそり仕事を続けようとしては、俺に止められ、リューネに叱られた。
俺が扉の前に立つ。リューネが包帯を持つ。カイムが黙って書き板を開く。
それでもヴェラは、少し目を離すと報告書を読んでいた。
その横でカイムは、帰着札、監査官用通路、北側巡回の記録を分けて、魔王様へ上げ続けている。
「やはりこの程度ではヴェラは止まらぬか。貴様にはもう少し、踏み込んだ権利を与えるべきだったか」
魔王様はため息をつきながらも、少し楽しそうだった。
玉座の前には、今日も紙が並んでいる。
俺、ヴェラ、カイム。少し離れてリューネ。ヴェラは立っている。立っているが、リューネの目があるので、あまり動かない。
「踏み込んだ権利とは?」
思わず聞いてしまった。
ヴェラの視線が横から刺さる。
もう遅い。
「ふむ。そうだな。例えば、ヴェラを止めるためなら多少のおいたは私が許可する。などか?」
多少の、おいた。
その瞬間、様々な可能性が脳内を駆け巡った。
「お前、なぜ鼻血を垂らしている。何を想像した」
隣にいたヴェラが、それはそれは醜いものを見る目を向けてきた。
「黙秘します」
「当たり前だ。口に出した瞬間、命はないと思え」
リューネが無言で布を差し出してくる。
俺は受け取り、鼻を押さえた。
「魔王様。冗談でもその手の許可を出さないでください。この馬鹿は本当に悪用します」
「そうであろうな」
「否定してくださいよ」
「今の顔でか」
無理だった。
数日休んだのか、仕事を控えめにしたのかは分からない。ただ、ヴェラの足はもう遅れていない。こちらを睨む目の切れも戻っている。
少しだけ、命の危険も戻った気がする。
「話を戻します」
カイムが書き板を開いた。
戻し方が早い。
「帰着札の件です。グラン殿の札は戻っていません。ですが、処理欄に削り跡があります。担当者欄は空白。時刻だけが薄く残っています」
「戻ってないのに、戻ったことにしようとした?」
「断じるな」
ヴェラが即座に言った。
「今のは疑問形です」
「声が断定だった」
カイムはそのやり取りを聞き流し、書き板に赤筆で一つ印をつける。
「同じ空白が、他にもあります」
魔王様の目が細くなる。
「続けろ」
「外縁補給記録に一件。監査官用通路の使用控えに一件。いずれも担当者名がありません。ただし、処理そのものは通っています」
「名前なしで、仕事だけ通ってるってことか」
俺が言うと、カイムの筆が止まった。
「君の頭ではその整理が限界か」
ヴェラが机の上の控えを指で押さえる。
「手順を知られているな」
「中にいると決めるな」
魔王様の声は静かだった。
「外へ漏れたとも限らん」
カイムは頷く。
「はい。内部者。手順漏洩。権限偽装。今はその三つで分けています」
「三つもあるのか」
「君の嫌な顔で選択枝が減るならいくらでもやってくれて構わないんだがな」
俺は口を閉じる。カイムに口で勝てる未来が想像できない。
閉じたところで、リューネが少しだけこちらを見た。
何も言わなかった。
それが少し怖い。
「カイム」
魔王様が言う。
「はい」
「どこまで上げた」
「全部です」
返事は早かった。
魔王様の指が、机の端を軽く叩く。
「未確定のものもか」
「はい。未確定と明記しています。軽いか重いかを、僕らが勝手に決めるべきではありません」
その声だけ、少し低かった。
グランの煙の時と同じ声だ。
魔王様は短く頷いた。
「よい」
ヴェラも何も言わなかった。
止める理由がない、という顔だった。
俺が鼻を押さえ直した時、扉が叩かれた。
「入れ」
伝令が入ってくる。
手には細い筒がある。人間側からの返答に使うものだと聞いていた。
俺の喉が、変に詰まった。
「外縁経由。宛名は、アードゥ・テイカー」
「俺?」
「貴様宛の手紙で貴様以外の誰が受け取る」
ヴェラが刺す。
筒を受け取ると、封は簡単に開いた。
中の紙は短い。
字はセレネのものだった。
俺は一度、深呼吸してから読む。
アードゥへ。
読んだ。
腹は立ったけど、破らなかった。
正規軍の正式な動きではない。
少なくとも、私が知る範囲では違う。
教会筋の補給名簿に妙な抜けがある。
貴族名義の通行証も出ている。
リュシオンにはまだ言うな。
レイネはたぶん何か知ってる。
あんた、魔王軍に行ってから変なところを見るようになったね。
いや、昔からか。
セレネ。
読み終わっても、少し紙から目を離せなかった。
破らなかった。
そこだけ、何度か読んだ。
「そこだけ読むな」
ヴェラに刺された。
「読んでないです」
「目がそこから動いていない」
動いていなかった。
「正規軍ではない」
「同じところばっかり読んでる。そんなに嬉しいの?」
リューネが小首をかしげる。
「嬉しいかどうかで言えば嬉しいけど。なんでそんなことまで分かるんだよ」
「だって、目が全然動いてないし」
そんなに分かりやすいか。俺。
「内容は把握した。少し貸してくれ。写しを作る」
カイムに手紙を渡すと、セレネの荒れた字が綺麗に書き写されていく。
セレネ、見てくれ。
お前の汚い字が生まれ変わったぞ。
これは本人に言ったら首が飛ぶので、黙っておこう。
「教会に貴族に正規軍。人間はすぐに派閥を作るな」
ヴェラがつぶやく。
魔王様は、机の上の記録とセレネの返答を見比べていた。
机の上が、また紙で埋まっていく。
帰着札の控え。
カイムが取った写し。
セレネの返事。
どれも薄い紙なのに、妙に重い。
「アードゥ。どれが一番嫌だ」
魔王様が言った。
「全部ですかね」
「選べ」
選べと言われても困る。
俺は机の上を見る。
札の話。通路の話。補給の話。通行証の話。
別の紙なのに、同じような穴が空いている。
「名前がないやつですかね」
カイムがこちらを見た。
「何の名前だ」
「動かした奴です。札も、補給も、通行証も。何かは動いてるのに、動かした奴が見えない」
「通行証には貴族名義がある」
「でも、それを持って歩いた奴の名前じゃないだろ」
カイムはすぐには返さなかった。
代わりに書き板に新しい項目を作った。
「名前のない処理……帰着札、補給記録、通行証。共通点として記録します」
「カイム」
魔王様が言った。
「人だけを探すな。重要なのはその者が通った場所」
「……道ですか」
「そうだ」
道。
思わず足元を見た。
ここに簀巻きで転がされた時のことを思い出す。
最初に見たのも、たしか魔王様の足だった。
……いや、今それを思い出す場面ではない。
ヴェラが机の上を指で叩く。
「帰着札は札箱を通る。補給記録は外縁の台帳を通る。通行証は人間側の窓口を通る」
「全部、道が違うってことですか」
カイムの赤筆が止まった。
「外と中の両方から、手順に触れています」
「ならば、その手順がどこを通ったかを見ろ」
魔王様の声は静かだった。
「アードゥ」
「はい」
「貴様はその濁った目で、道を見ろ」
「俺の目、公式に濁ってるんですか」
「澄んでいると思うか。今も私の脚に視線が移っているが?」
否定できなかった。
見抜かれていた。
カイムが静かに赤筆を置いた。
ヴェラはまだ紙を見ている。
返事は破られなかった。
それはよかった。
よかったはずなのに、机の上の紙は増えていた。
荷物が増える時の音は、たぶんしない。
でも、増えたのは分かった。




