40話 逃げた補佐官
「あ! ヴェラが逃げた!」
「君、今呼び捨てにしたな」
「そこじゃない! いや、そこもまずいけど今はそこじゃない!」
この部屋は何度も使わせてもらっているが、ただの飾りだと思っていた内扉が開いている光景は違和感しかない。
「あの扉、開くんだな。てっきり飾りかと思ってた」
「何を言ってるんだ。ここは一応、廊下以外からも行き来できる作りになっている」
「何のために?」
「監視用だ。さっきも言ったが、君は自分の立場を自覚しろ」
「それはこの際いい。この先はどこに繋がってるんだ?」
扉はゆっくりと閉じていく。
「監査官用の通路だ。扉を開けられるのは、ごく一部の者だけ。ヴェラ様はもちろん鍵を持っている」
「なんで療養中の人がそんな便利な鍵を持ってるんだよ」
答えになっているようで、なっていない。
「ここで止まってても仕方ない。とりあえず追うぞ」
「いいだろう。僕は報告書を届けるという仕事があるからな」
扉の前で再びカイムが立ち止まる。まだ何かあるのか。
「先に忠告しておくが、走るなよ」
「なんでだよ。追うんだから急いだ方がいいだろ」
「この通路は少し特殊だ。速度と距離が歪められる魔法が組み込まれている」
「分かりやすく」
「馬鹿な君に分かりやすく言うなら、急げば急ぐほど遠回りになる」
「丁寧な説明どうも。じゃあ、歩くしかないんだな」
「そういうことだ」
通路は狭かった。
石壁に沿って細い灯りが続き、床にはほとんど埃がない。隠し通路というより、表に出ない廊下だった。誰にも知られないためではなく、余計な者に止められずに動くための道。
「ちなみに、この先は左右に分かれる。どちらだと思う」
「右だな」
「根拠は」
「ヴェラさんの匂いがする」
カイムが黙った。
「おい、そこで黙るな。仕方ないだろ。なんかいい匂いするんだから」
「君は本当に、必要な情報と最低の情報を同じ口から出すな」
別にカイムのどう思われても大して心は痛まない。
通路に踏み出すと、匂いが濃くなる気がする。意外と近くに居るのか。
「ヴェラさん、仕事に逃げたな」
「本人は確認だと言うだろうね」
しばらくすると、一枚の扉が見えた。
扉は半開きだった。
中から、紙をめくる音がする。
「ヴェラさーん、入りますよ。逃げても無駄ですからね」
「脅してどうするつもりだ」
俺は扉を開けた。
記録保管室の中は、俺の部屋とは違う種類の紙で満ちていた。
棚は高く、札の束は紐で色分けされ、古い報告書は年月ごとに分けられている。乾いた紙と、薄い防虫香の匂い。窓は小さく、灯りは机の上だけを照らしていた。
その机の前に、ヴェラがいた。
立っている。
片手を棚に置き、もう片方の手で帰着札の記録帳を開いている。
「ヴェラさん、発見」
「声が大きい。別に逃げたつもりはない。ただ少し気になることがあっただけだ」
「それを屁理屈と言います」
ヴェラの仮面の奥がこちらを向いた。
「貴様に言われると腹立たしいな」
カイムが中へ入り、報告書の束を机に置いた。
「ヴェラ様。報告書はお持ちしました。部屋でお待ちいただければ、こちらから届けましたのに」
「待っている間に確認すべきことがあっただけだ。そこにはこの札は書かれていないだろう」
ヴェラが記録帳をヒラヒラと振る。
「どうせ居るならお前も確認しろ。グランの札は戻っていない。だが、処理欄に改竄の跡がある」
「戻っていない札を、戻ったことにしようとした?」
「そこまで断じるな」
ヴェラは短く言った。
「ただ、記録だけを動かそうとした者がいる。担当者欄は空白」
カイムは記録帳へ身を寄せた。
俺も横から覗こうとして、ヴェラに睨まれた。
「近い。無暗に近寄るな」
「見えないんです」
「貴様には関係ないだろう」
「あります。今はヴェラさんの監視なんですから、何をしようとしてるのか確認する義務があります」
「なんでもそれで押し通せると思うなよ」
鬱陶しそうに手を振るヴェラの袖から、あの甘い匂いが少しだけ流れた。
カイムが帳面の端を見て、指を止めた。
「削り跡がありますね」
「ああ。やはりそう見えるか」
「内部処理に触れられた可能性があります」
「可能性として記録しておけ。まだ断定はできん」
カイムはすぐに書き板を開いた。
ヴェラはさらに棚へ手を伸ばそうとする。
その時、右足がわずかに遅れた。
さっき見たのと同じだ。
「戻りますよ」
「まだ確認が終わっていない」
「じゃあ俺が見ます」
「貴様が?」
「俺とカイムで見ます。ヴェラさんは座って指示してください」
「私が見た方が早い」
「分かってます」
分かっている。
ヴェラが自分で見た方が早い。
でも、その理屈を通すとこの人は一生休まない。
「ヴェラさんが、休めって言っても休まない人なのはよく理解しました」
「何を偉そうに」
「なので、俺たちに命令してください」
「……何?」
「ヴェラさんが動くから駄目なんです。報告書を見たいなら俺が取ります。記録を確認したいならカイムが読みます。判断したいなら、そこに座って命令してください」
「貴様に指図される筋合いはない」
「魔王様に、無茶はさせるなって命令されてます」
「またそれを盾にするか」
「はい。少なくともヴェラさんの無茶を止めるには良い盾でしょ?」
カイムが横で小さく頷いた。
「ヴェラ様が動かず、指示だけ出す形なら、安静命令にも反しにくい」
「お前もそちらに着くのか」
「報告書を届けるのが僕の仕事です。届け先が椅子でも問題ありません」
「その理屈はおかしいだろう」
「おかしくありません」
「少しは迷え」
カイムは迷わなかった。
ヴェラはかなり不服そうに黙った。棚へ伸ばしかけていた手も、そこで止まっている。
「止まってても、俺たちが動きます」
そう言うと、ヴェラはこちらを見た。
少しの間、何も言わなかった。
「……言うようになったな」
ヴェラは近くの椅子へ向かった。
三歩だけ歩いて、座る。
座った直後、小さく息を吐いた。
俺は見なかったことにした。
「上から三段目。青紐の束を取れ」
「はい」
言われた通りに棚へ手を伸ばす。
「これですか」
「違う。それは灰紐だ」
「青に見えました」
「悪いのは目か?それとも頭か?」
「そこまで罵られる色差ですか?」
「右だ。黙って右を取れ」
右の束を取る。
ヴェラは椅子に座ったまま、机の端を指で叩いた。
「カイム。帰着札台帳の昨日分と照らせ」
「はい」
「アードゥ。札箱の封を見ろ。触るな。見るだけだ」
「見るだけなら得意です」
「口ではなく目と手を動かせ。頭は代わりに動かしてやる」
だいぶ調子が出てきたのか、罵倒に切れが出てきた気がする。
いや、別に言われて気持ちよくなってるわけではない。
札箱は棚の下にあった。
木製で、表面には古い傷がいくつもある。封の紐はきちんと結ばれているように見える。ただ、端だけが少し毛羽立っていた。
「一度ほどかれてるかもしれません」
「根拠は」
「端のほつれです。普段引っ張る向きと違うところが擦れてる」
ヴェラはカイムを見る。
「記録」
「ご安心を。既に行っています」
カイムの筆が速い。
次に、俺が取った青紐の束を開く。
中には北側巡回の帰着記録が並んでいた。
グランの名前の横、時刻の欄だけが薄く擦れている。
何かを書いて、消した跡だ。
「戻ったことにしたかったんですかね」
「まだ分からん」
「でも、戻ってないのに時刻だけ触られてる」
「だから調べている」
返しは早い。
ただ、椅子の肘掛けを押さえる指には少し力が入っていた。
「ヴェラさん」
「何だ」
「次から逃げる時は、せめて俺も連れてってください」
「逃げてないと言ってるだろう」
「じゃあ、仕事に戻る時でいいです」
「嫌だ」
思いっきり拒絶されたが、そんなことで引き下がるわけにはいかない。
「じゃあ、確認に行く時は」
ヴェラは小さく舌打ちした。
「……勝手にしろ」
「許可出ました?」
「次に勝手な解釈をしたら蹴る」
「蹴るのは本調子に戻ってから二して下さい。さっきからふらついてます」
言った瞬間、部屋が少し静かになった。
カイムの筆も止まる。
ヴェラの視線が、まっすぐ俺に刺さった。
「貴様」
「すみません。でも、見えたので」
ヴェラはしばらく黙った。
それから、低く言う。
「……なら、見えてしまったものをどうするかよく考えろ」
それ以上は何も言わなかった。
カイムだけが、静かに筆を動かしている。
「帰着札は戻っていない。処理欄には削り跡。担当者欄は空白。時刻だけが薄く残っている」
カイムが、書きながら短く確認する。
「札箱の封は一度触られた可能性。これも確定ではない」
「十分だ」
ヴェラが言った。
「戻る」
「もういいんですか」
「ここで分かることは拾った。これ以上は、ここで見るより魔王様へ上げた方が早い」
ヴェラは立ち上がった。
俺は横に並ぶ。
「なぜ横に立つ。近いぞ」
「この調子じゃほんとに倒れますよ。俺に介護されたくなかったら無茶しないでください」
そう言った瞬間にヴェラの足が少し縺れる。支えようとした手が払われる。
ひどくないか?
カイムが記録をまとめ、報告書の束を抱え直した。
「帰着札の件は、すぐ魔王様へ上げる」
「頼む」
さっきより少しだけ、ゆっくりと、ヴェラが歩き始める。
俺はその横を歩く。
今度は、置いていかれないように。




