39話 待てない馬鹿
セレネへの手紙は、城の連絡役に預けられた。
封蝋が落とされ、宛名を確認され、外縁へ向かう便に乗せられるところまでは見た。
「なあ、ちゃんと届いたかな?」
俺は、隣に座るカイムに何度目かの質問をぶつけた。
「さっき出したばかりだ。外縁にも到着していない」
「そうだよなぁ。でも気になるんだよ」
「気になるのは分かるが、今は待つしかないだろう。手紙とはそういうものだ」
カイムは机の上で書き板を整えながら言った。
俺の部屋は、まだ紙の匂いが濃い。書き損じた手紙の紙片、封筒を用意した時に出た蝋の欠片、カイムの赤筆。そこへヴェラが座っているせいで、紙だらけの部屋が少し狭く感じる。
ヴェラは窓際の椅子に座っていた。
「まったく、付き合ってられん」
そう言って、ヴェラが席を立った。
「どこ行くんですか? 安静にって言われてるでしょう?」
「別に動き回るつもりはない。少し報告の確認に行くだけだ」
「それ働いてません?」
「こんなもの仕事のうちにも入らん」
「駄目です」
ヴェラの仮面の奥が、こちらを向いた。
「何故だ」
「じゃあ、緊急の報告が上がってきたらどうしますか?」
「……処理する」
「ほら働く」
ヴェラは一拍だけ黙った。
「……我慢する」
「え、何その反応可愛い。じゃなくて」
ヴェラの視線が既に痛い。
「やっぱり働くじゃないですか」
「言いがかりだ」
「魔王様に命令された手前、俺には止める義務があるのだ」
「その言い方をやめろ」
「命令なので」
「命令を盾にするな」
ヴェラは低く言い、椅子の背に指を置いたまま止まった。
立ち上がった時、右足が半歩遅れた。
肩ではない。
足の方に、まだ鈍さが残っている。
「今、何を見た」
「足です」
「余計な方ではないな」
「今回は」
「今回は、だと?」
俺は咳払いした。
カイムが書き板から目を上げ、少しだけこちらを見る。
「ヴェラ様。アードゥの言い方は最低ですが、指摘自体は間違っていません。まだ動かない方がいいでしょう」
「カイムまでそちら側か」
「現状判断としてです」
「私に動くなと言うのなら、カイム、せめて報告書を回せ。それくらいならいいだろう?」
俺とカイムは顔を見合わせた。
どちらともなく頷く。
「それであれば、魔王様も許してくださるでしょう。ヴェラ様、報告書はお持ちします。しばしお待ちください」
カイムは書き板を閉じ、椅子から立った。
「アードゥ」
「何だ」
「ヴェラ様を見ていろ」
「見たら怒られるんだけど」
「必要なところだけ見るんだ」
「それが難しいんだよ」
「知っている」
カイムはあっさり言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋の中に、紙の匂いと沈黙が残った。
窓の外では、魔王城の中庭が薄い光を受けていた。遠くを通る兵の足音が、壁を伝って少し遅れて届く。
机の端では、乾ききっていないインクが鈍く光っている。
……ヴェラさんと二人きりになってしまった。
「い、いい天気ですね?」
「なんだ急に。話すことがないのなら黙っていろ」
「そう言われても落ち着かないんですよ。部屋でヴェラさんと二人きりっていう状況が」
「馬鹿なことを言う。散々リューネと二人きりで夜通し楽しそうにしていたではないか」
「言い方!」
たしかに、その通りではある。
リューネとは、夜通し書いたこともある。話したこともある。怒られたこともある。それでも、ここまで落ち着かない感じはなかった。
「確かに、そう言われると不思議ですね」
「やめておけ。どうせお前の足りない頭では、ろくな答えには辿り着かん」
俺は黙った。
少し間が空く。
「ヴェラさんは、休むの苦手そうですよね」
「私が働く必要が無ければ休むさ」
「今はその時ではないと?」
「報告が積まれている」
「答えになってないです」
ヴェラは窓の外へ目を向けた。
「止まっている間に、誰かが動く。そういう場所にいた」
それ以上は言わなかった。
紙とインクの匂いの奥に、別の匂いがある。
冷たい石の廊下みたいな、けれど少しだけ甘い匂い。
近いわけでもないのに、紙の匂いより先にそれが来る。
困ったことに、分かってしまう。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、ヴェラは椅子の背に体を預け、ゆっくりと瞳を閉じた。
「ヴェラさん?」
「少し、疲れが出た。カイムが戻るまで眠る」
「は、はい。じゃあ、お休みなさい?」
「見るな、とは言わんが、起こすなよ」
見るな、とは言わないらしい。
この余裕は知っている。
実際、手負いでもヴェラさんに勝てる気はまったくしない。
しばらくすると、微かな寝息が聞こえてきた。
静かな寝息だった。
いつものヴェラからは、あまり想像できないくらい小さい。
俺は少しだけ視線を向ける。
外套の下でも分かる線を、目が勝手に拾う。
座っていても崩れない姿勢。
けれど、膝から爪先まで伸びた線の先で、右足だけが少し浮いていた。
力を抜いているのではない。
置けていない。
俺は、できるだけ音を立てずに立ち上がった。
見るなとは言われていない。
ただ、起こすなとは言われている。
扉を少しだけ開け、外へ出る。
廊下の空気は、部屋より冷たかった。遠くの執務区画から、紙を運ぶ足音と、扉の開け閉めの音がかすかに聞こえた。
少し助かった。
壁に背を預け、息を吐く。
しばらくして、廊下の向こうからカイムが戻ってきた。
腕には報告書の束がある。
「何故外にいる。ヴェラ様に追い出されたのか?」
「違う。自主的にだ。ヴェラさん、少し疲れてるみたいで今は眠ってる」
「そうか。では少しここで待つとしよう」
カイムは扉の前で足を止めた。
「君にしてはまともな判断だ」
「褒めてる?」
「半分だけだ」
「半分なら十分だな」
「満足するな」
それからしばらく、俺とカイムは廊下で待った。
報告書の束はカイムの腕の中にある。厚い紙の端が、灯火の揺れに合わせて細く影を落としていた。
手紙の返事は来ない。
部屋の中は静かだった。
静かすぎた。
「……なあ」
「何だ」
「ヴェラさん、寝てるだけだよな」
「確かめるか」
「起こすなって言われた」
「なら、起こさないように確かめればいい」
カイムは報告書を片腕に抱え直し、扉へ近づいた。
俺も続く。
静かに扉を開けた。
部屋の中には、紙とインクの匂いが残っている。
窓際の椅子。
さっきまでヴェラが座っていた場所。
空だった。
椅子の背に、黒い外套の裾が少しだけ残っている。
机の上には、俺が書き損じた紙がそのまま。
窓は閉まっている。
扉は俺たちが開けた。
だが、部屋の奥にある細い内扉が、わずかに開いていた。
「あ!」
俺は思わず声を上げた。
「ヴェラが逃げた!」
カイムがこちらを見た。
「君、今呼び捨てにしたな」
「そこじゃない! いや、そこもまずいけど今はそこじゃない!」
カイムは一瞬だけ額に手を当てた。
「安静命令中に移動したなら、確かに逃走か」
「だろ!」
「ただし本人は、報告確認と言うだろう」
「それが駄目なんだよ!」
俺は内扉へ駆け寄る。
細い通路の向こうに、紙をめくるような音がかすかに聞こえた。
待てない馬鹿は、俺だけではなかったらしい。




