37話 休めと言った
魔王様の前に出る時、ヴェラはもう歩き方を整えていた。
肩口の包帯は外套の下に隠れている。背筋は伸び、足取りも乱れていない。少なくとも、見た目だけなら普段のヴェラだった。
俺は少し後ろを歩きながら、顔色、足の置き方、肩の動き、呼吸の浅さを見ていた。
余計なところを見るな、と言われているのが難点だった。
広い石の間に入ると、空気が少し冷えた。
玉座の前には、すでに机が置かれている。カイムが運ばせた地図と、俺たちが持ち帰った証拠品が並べられた。
机には、偽装用の肩当て、煙筒の破片、細い糸、白い粉が残った小さな部品が並んでいた。
魔王様は玉座に腰掛けたまま、それらを一つずつ見た。
表情は静かだった。
「報告を聞く」
「はい」
カイムが一歩前に出た。
声は整っている。見張り小屋へ走って戻った時の息の乱れは、もう残っていなかった。
「北側の煙は、こちらの反応を見るための合図であった可能性が高いです。煙で巡回を動かし、グランの負傷で帰路を見た。さらに追跡には罠が置かれていました」
カイムは地図へ赤筆を置く。
「斥候は正規兵に偽装。逃走中に偽装の一部を外しています。別に罠を張った者が一名。少なくとも二手で動いています」
「続けろ」
「罠は殺傷より、追跡阻害が目的と思われます。ヴェラ様の傷も深くはありません。ただし、リューネ殿の診立てでは、魔力の通りを鈍らせる処理がされています」
魔王様の目が、ヴェラへ向いた。
「ヴェラ」
「魔王様、私のことは問題ありません。リューネは少々心配性なだけです」
よく言う。
そう思ったところで、俺は懐に入れていた封筒を思い出した。
「そう言ったらこれを渡せと、リューネから書状を預かっています」
ヴェラの顔が、わずかに動いた。
「……いつの間に」
「帰り際です。かなり早かったです」
魔王様は、俺から書状を受け取った。
封を切る前に、少しだけ口元を緩める。
「リューネの方が一枚上手だったな、ヴェラ。内容は見なくても分かる」
「見なくても、ですか」
「ヴェラは動かさない方がいい。魔王様からもどうか。……とでも書いてあるのであろう?」
魔王様が封を開け、紙面へ目を落とす。
俺も横から少しだけ見た。
「すごい。一言一句そのままでした」
「読むな」
ヴェラの声が低くなる。
だが、魔王様は書状を畳み、ヴェラを見た。
「そういう訳だ。ヴェラ、今は休め」
「しかし」
「休めと言った」
その一言で、石の間が静かになった。
「ここでお前が倒れることの方が損失は大きいぞ」
ヴェラは少しだけ頭を下げた。
「……御意」
魔王様の視線が、今度は俺へ向く。
「アードゥ」
「はい」
「貴様はヴェラの監視なのであろう?」
「はい。一応」
「一応では困る。しっかり見ておけ。そして絶対に無茶はさせるな」
魔王様は、わずかに身を乗り出す。
「これだけは我からも命ずる」
「分かりました。どんな手を使っても必ず止めます」
魔王様に言われたのだから仕方ない。
そう。仕方ない。
どうやってでも止めるしかない。
「ま、魔王様。そのような命ではこの馬鹿は!」
珍しく、ヴェラが声を上げた。
魔王様は面白そうに目を細める。
「だからこそだ。こうでもせんと、止まるまい?」
「……御意」
ヴェラは、今度はかなり苦い声で答えた。
顔に出さないよう努力した。
「出ている」
ヴェラに刺された。
魔王様は小さく笑い、それから机の上の証拠へ視線を戻した。
「アードゥ」
「はい」
「貴様は何を見た」
俺は、偽装用の肩当てを見た。
「正規兵に似せてます。でも、毎日使う装備じゃないです」
「理由は」
「留め具が新しい。擦れがない。肩に馴染んでない。兵士の装備なら、もっと癖が出ます」
カイムが書き板へ何かを足す。
「正規軍ではない。だが、正規軍を知らない者の偽装でもない、か」
魔王様が言った。
「はい。外から見て真似しただけなら、もっと雑になります。でも、これを作った奴は兵装を知ってる。ただ、実際に使い込む時間はなかった」
「人間側の内側に、別の手があるか」
その言葉は、静かに落ちた。
魔王様は白い粉の残った小さな部品を見た。
「追うな」
短い命令だった。
「奴らは、追う者を見るために罠を置いた。なら、追う必要はない」
魔王様の指が、地図の北側を軽く叩く。
「だが、見ることはやめん」
カイムが背筋を伸ばす。
「北側巡回は表向き通常維持。観察点のみ変更。証拠品は城で保管、解析。人間側へは直接問わない。まず、内側で気づかせる」
「そうだ」
魔王様の声は静かだった。
「外から叩くな。内側で気づかせろ」
その時、俺の視線は魔王様の手の中にある書状へ落ちていた。
リューネの書状。
手紙。
そうか。
その手があったか。
「魔王様」
「なんだ。嬉しそうな顔をしておるな」
「手紙です。セレネに手紙を出します」
魔王様は、すぐには頷かなかった。
リューネの書状を指先で軽く叩き、少しだけ考える。
「……いいだろう」
俺は背筋を伸ばした。
「ありがとうございます」
「ただし」
魔王様の目が、こちらをまっすぐ見た。
「アードゥ。その手紙、お前は何者として書くのか。答えは決まったか?」
喉が、一度止まった。
荷物持ちとして。
元勇者パーティとして。
魔王軍に拾われた人間として。
魔王様の下で働く馬鹿として。
どれか一つでいいのか、まだ分からない。
「いいえ。まだです」
俺はそう答えた。
「でも、今から見つけます」
魔王様は少しだけ目を細めた。
「それでいい。お前自身で見つけよ」
「はい」
「カイム」
「はい」
「お前も手伝え。リューネはおらぬからな」
「承知しました」
「ただし、整えすぎるな。向こうが読むのは、アードゥの言葉だ」
カイムは一瞬だけ俺を見る。
「難しい仕事ですね」
「お前が言うな」
「君が書く時点で難しい」
「否定しきれないのが悔しいな」
魔王様が、今度はヴェラを見る。
「ヴェラ」
「……はい」
「座って見張れ」
「私は休めと言われたはずですが」
「座って、だ」
ヴェラは沈黙した。
かなり不本意そうだった。
「御意」
リューネはいない。
答えは、俺が探すしかない。
セレネに届く言葉。
人間側へ気づかせる手紙。
そして、俺が何者としてそれを書くのか。
机の上で、白い粉の残った部品が静かに光を拾っていた。
見る仕事は、まだ終わらないらしい。




