36話 面倒を見る馬鹿
見張り小屋の空気は、まだ落ち着かないままだった。
グランは奥の寝台で眠っている。呼吸は浅いが、リューネが何度も確かめていた。
ヴェラは椅子に座らされていた。
片目の仮面はいつも通りで、背筋も伸びている。だが、肩口には新しい包帯が巻かれ、その上からリューネの手が離れない。
俺は机の横に立ち、布包みから出した証拠品を眺めていた。
偽装用の肩当て、煙筒の破片、細い糸、白い粉が残った小さな部品。
どれも小さい。嫌な感じだけは、はっきり残っている。
扉の外で、走る足音が近づいてきた。
小屋の前で足音が止まり、少しだけ息を整える間があって、扉が開いた。
カイムだった。
「ただいま戻りました」
姿勢は崩れていないが、声の端には息が混じっていた。淡い銀灰色の髪も、いつもより少し乱れている。
「速かったな」
俺が言うと、カイムはこちらを見た。
「君こそ随分早いじゃないか。追うのは諦めたのか?」
「ああ。ヴェラさんがあの様子だしな」
「ヴェラ様?」
カイムの視線が、椅子の上のヴェラへ移る。
ヴェラはすぐに口を開いた。
「私のことはいい。それより貴様の報告を先にしろ」
「……はい」
カイムは一瞬だけ迷った顔をしたが、すぐに書き板を開いた。
「魔王様への第一報は上げました。北側の煙が合図である可能性、正規兵に偽装した斥候、別系統の人間側勢力、グランの負傷、そして帰路が見られた可能性を分けて報告しています」
「追撃については」
「推奨しない形で上げました。敵は追跡を前提に罠を置いています。現場判断としては、これ以上の追撃は情報を渡すだけになります」
ヴェラは短く頷いた。
「ならいい」
「証拠品については、城へ持ち帰るよう指示を仰いでいます。正式な返答はまだです。ただ、北側巡回の経路と見張り位置は、仮に変更する準備を進めるべきかと」
「仮に、だな」
「はい。正式判断は魔王様へ戻します」
カイムの返事に迷いはない。
自分で腕に傷を入れた相手だ。それでも、カイムはここで追うとは言わなかった。
リューネが、ヴェラの包帯を押さえたまま言う。
「ヴェラ。じっとしてて」
「報告中だ」
「じっとしてて」
ヴェラは黙った。
「毒じゃないけど、しばらくは安静にしていた方がいい。魔力の通りが鈍ってる。無理に動くと、戻りが遅くなるかもしれない」
「そうも言ってられんだろう。この状況だ」
「言ってる場合なの。怪我人が動き回ると、こっちの手が増える」
「私は怪我人ではない」
「膝ついた人が言わない」
ヴェラの仮面の奥が、わずかに険しくなる。
「どうしてもって言うなら……」
そこで、リューネの視線がゆっくりこちらへ向いた。
「なんだ。そして、なぜ俺を見る」
ちょっとだけ、どきっとした。
よくない方だった。
「あそこの馬鹿に面倒を見てもらって」
「はい?」
俺とヴェラの声が、ほとんど重なった。
「ヴェラはどうせ止めても動き回るから。アードゥなら、ヴェラのお尻を追いかけるのも得意でしょ」
「勿論、命令とあらば、それにかこつけていくらでもやるが」
「そこは否定して」
リューネが疲れた声を出した。
ヴェラは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
仮面越しでも分かる。
「他にないのか。カイムでもいいだろう」
「だめ。カイムはヴェラの命令なら何でも聞く」
カイムが口を開きかけ、少し考えてから閉じた。
「俺もヴェラさんの命令なら大概聞くけど」
「あなたは余計なところまで見るでしょ」
「それ、駄目な理由では?」
「駄目。でも今は役に立つ」
嫌な場所に立たされた気分だった。
ヴェラが低く言う。
「リューネ」
「何」
「本気か」
「本気。ヴェラが勝手に動くなら、止める人がいる。カイムは命令されたら止められない。外縁兵はヴェラに遠慮する。私はグランを見なきゃいけない」
「だから、アードゥ」
「はい」
「ヴェラが動こうとしたら止めて」
「止まりますかね」
「止めて」
「はい」
返事をした瞬間、ヴェラの視線が刺さった。
「貴様に止められるほど落ちてはいない」
「分かってます」
「なら返事をするな」
「でも命令なので」
「誰の命令だ」
リューネが包帯を結び直しながら言う。
「私」
ヴェラは黙った。
リューネが強い。
カイムはそのやり取りを見て、静かに書き板へ何かを書き足していた。
「今のも記録するのか?」
「必要なら」
「必要ないだろ」
「ヴェラ様の行動制限に関わる指示です」
「書くな」
ヴェラが言った。
カイムは一瞬だけ手を止める。
リューネがすぐに言った。
「書いて」
カイムは書いた。
ヴェラの眉間が、仮面越しでも分かるほど険しくなった。
「アードゥ」
「はい」
「その顔をやめろ」
「まだ何も言ってません」
「言う前に出ている」
リューネが小さく息を吐いた。
「本当に分かりやすい」
その後、カイムは机に地図を広げ直した。
北側の巡回路。
グランが煙を見た場所。
倒れていた窪地。
俺とヴェラが罠を見つけた場所。
それぞれに印が増えていく。
「敵は、こちらの反応を三つ見ています」
カイムが言った。
「煙に対して誰が動くか。負傷者をどう戻すか。追跡者がどこまで罠を見抜くか」
「俺たちのことか」
「ああ。君だけじゃない、僕らがどこまで見えているのか、それが図られた」
「なら、次は見せるものを選ぶ必要があるな」
ヴェラが言う。
カイムが頷く。
「北側巡回は止めません。止めれば効いたと知らせることになります。ただし、見張り位置と帰着札の扱いは変えます。仮変更として」
「よし」
「証拠品は城へ。ヴェラ様は――」
「私はここに残る」
「残らない」
リューネが即座に言った。
カイムも静かに続ける。
「魔王様の返答次第です」
「返答を待つまでもない。私は動ける」
「動けるかどうかではありません」
カイムの声が少し硬くなった。
「現場で決めてよい範囲を越えています」
ヴェラの目が、カイムへ向く。
「第一報は上げました。巡回再編、証拠品、ヴェラ様の処置。ここから先は、戻すべき判断です」
ヴェラはしばらく黙った。
「……線は引けているな」
「引かなければ、報告係の意味がありません」
「忘れるな」
「はい」
そこで、小屋の外から伝令の声がした。
外縁兵が扉を開ける。
「城より伝令です」
カイムが受け取り、封を切る。
目を通した瞬間、姿勢が少しだけ変わった。
「魔王様より返答です」
小屋の中が静かになった。
「追撃は禁止。北側巡回は表向き通常維持。ただし観察点は変更。証拠品は城へ移送。ヴェラ様は帰還」
「私は――」
「魔王様の命令です」
カイムが言った。
ヴェラは黙った。
リューネも黙った。
俺も黙った。
ヴェラさんを止める言葉が、この世にあるらしい。
魔王様、すごい。
そう思った瞬間、リューネがこちらを見た。
「今、何か変なこと考えた?」
「魔王様はすごいなと」
「それは合ってるけど、顔が変だった」
「顔の管理が難しい」
「普段から失敗してるよ」
ヴェラが立ち上がろうとした。
俺はすぐに一歩前へ出る。
ヴェラの視線が刺さる。
「何だ」
「リューネに見張れと言われたので」
「見張り以上は許さん」
俺は、改めてヴェラを観察した。
顔色。肩の動き。足の置き方。呼吸の浅さ。
そして、外套の下でも分かる腰回りの線は、やはり素晴らしい。
次の瞬間、額に鋭い衝撃が走った。
「痛っ」
「その目を私に向けるな。次は容赦せん」
「善処します」
「善処では足りん」
リューネが、包帯を片づけながらぽつりと言った。
「どっちもどっちだね」
外では、北側の森がまだ白く煙っていた。




