35話 戻る判断
「ヴェラさん!?」
黒い外套が、湿った土の上で低く沈んだ。
俺は抱えていた証拠の布包みを胸元に寄せ、ぬかるむ地面を蹴って駆け寄った。ヴェラは片膝をついたまま、まだ剣の柄から手を離していない。肩口から落ちた血は外套の黒に吸われ、地面に落ちる前にほとんど見えなくなっていた。
「騒ぐな。頭に響く」
「そんなこと言ってる場合ですか」
「珍しくまともなことを言うな。気にするな。少し疲れただけだ」
そう言ってヴェラは立ち上がろうとしたが、足が地面を捉えきれなかった。剣を支えにするほど崩れてはいない。だが、膝に入る力が一拍遅い。
「動かないでください」
よろけた体を、思わず支えた。
ヴェラは俺の腕を払わなかった。
「追うぞ。ここで逃がすには惜しい」
「駄目です。これ以上は、ヴェラさんの体が持たない」
「私の体のことを貴様が決めるな」
「言ってる場合ですか。だったら、リューネに言いつけます」
仮面の奥で、ヴェラの目がわずかに細くなる。
「……それは堪えるな」
「戻りましょう」
「貴様がそれを言うのか」
「言います」
女斥候の血は、まだ先へ続いていた。罠師の足跡も、湿った葉の下にうっすらと残っている。
足は前に出かけた。
そこで止まった。
「女の血は分かりやすいです。でも、罠師の足はここから動きが違う。逃げてるんじゃない。待ってる」
「待っている、か」
「はい。この先は、追う道じゃない。待たれてる道です」
ヴェラは黙った。肩から流れた血が、外套の縁に沿って細く落ちていく。傷そのものは深くない。けれど、さっきまで一切乱れなかった足元が、ほんの少しだけ重い。
「アードゥ」
「はい」
「この先を少し見てこい」
「いいんですか。俺一人で」
「貴様が戻ってこなければ、私は死ぬかもしれんからな。それだけでも戻る理由は十分だろう」
「……すぐ戻ります」
「三十歩だ。それ以上は行くな」
「短くないですか」
「口答えするなら十歩にする」
「三十歩で」
俺は罠師の足跡を追って、少しだけ奥へ進んだ。
森の白さが濃くなる。女斥候の血は右へ細く続き、罠師の跡はまっすぐ奥へ沈んでいる。踏み跡は少ない。けれど、葉の下の土だけが、ところどころ重く押されていた。
十歩ほど進んだ先、低い枝の影に糸の切れ端が絡んでいた。
二十歩を越えたあたりで、乾いた草の下に煙筒の焦げ跡が残っていた。
三十歩。
そこで足を止める。
その先の土が、綺麗すぎた。誰も踏んでいないように見える。だが、見えなさすぎる。周囲の湿った葉が乱れているのに、そこだけ薄く撫でられたように整っていた。
俺は引き返した。
走らない。足跡を増やさない。足元の湿った葉をなるべく乱さず、来た時と同じ線をなぞって戻る。
ヴェラは同じ場所にいた。
立っている。立ってはいるが、剣の柄を握る指が少し白い。
「どうだった」
「待ってます。少なくとも、もう一段あります」
「そうか」
「戻りましょう」
ヴェラは短く息を吐いた。
「戻る」
「いいんですか」
「貴様が珍しくまともなことを言った。使う」
「それで十分です」
「満足するな」
ヴェラはもう、追うとは言わなかった。
俺は布包みを持ち直す。偽装用の肩当て、煙筒の破片、細い糸、針の仕掛けに使われた木片。
「それを素手で触るな」
「分かってます」
「今、触りかけたな」
「途中でした」
「殺すぞ」
ヴェラは小さく舌打ちした。
俺は包みを結び直し、来た道へ足を向ける。
帰り道は、来た時よりも長く見えた。森は同じだ。白い湿気。低い枝。水を含んだ土。けれど、隣の足音が違う。ヴェラは崩れない。背筋も伸びている。剣の柄に置いた手も揺れない。それでも、足がわずかに重い。
俺は少しだけ道を選んだ。
根が出ていない場所。ぬかるみの浅い場所。枝が肩へ触れない場所。そういう場所を拾うように歩いていると、後ろから低い声が落ちた。
「道を選ぶな」
「選んでません」
「嘘を吐くな」
「じゃあ、選んでます」
ヴェラは返事をしなかった。
ただ、歩幅だけは変えなかった。
途中、細い煙が一本、遠くで上がった。薄く、すぐに消える。
それでも、俺の足は一瞬だけ止まりかけた。
ヴェラはそれを見ても、足を止めない。
「見るな」
「見てます」
「追うな、という意味だ」
「分かってます」
「分かっているなら、前を向け」
俺は前を向いた。
罠師の足跡は、もう追わない。女斥候の血も、追わない。布包みの重さだけが、手に残っていた。
見張り小屋が見えた時、リューネが先にこちらへ気づいた。
治療具を片づけかけていた手が止まり、顔が変わる。
「ヴェラ!」
「大丈夫だ。そこまで深い傷じゃない」
「膝ついたでしょ」
「誰が言った」
「顔」
リューネは即座にヴェラの前へ立った。
俺は布包みを机に置く。結び目をほどくと、偽装用の肩当て、煙筒の破片、糸、白い粉が残った小さな部品が、粗い木の上に並んだ。
ヴェラは腕を出さない。
リューネが目を細めた。
「見せて」
「必要ない」
「見せて」
「浅いと言った」
「浅い傷で膝をつかない」
「いいから傷を見せて」
リューネの声には、一切の容赦がなかった。
ヴェラは黙った。
こういう時のリューネの言葉に逆らえる者は、たぶんあまりいない。少なくとも、この場にはいなかった。
ヴェラは渋々、肩口を開けた。
傷は深くない。だが、血の色が少し鈍い。リューネは布で押さえ、次に傷の周囲へ指を添えた。
小さく息を吸う。
「毒じゃない」
「なら問題ないな」
「違う。毒より嫌かも」
リューネの声が低くなる。
「魔力の通りを鈍らせるやつ。体を殺すんじゃなくて、動きを鈍くする。筋と魔力の噛み合わせが、少しずれてる」
「人間側の道具か」
「たぶん。魔族を殺すためじゃない。追えなくするため」
俺は机の上の証拠を見た。
ヴェラは治療されながら、黙って机を見ている。仮面の奥の目は、まだ弱っていなかった。
「アードゥ」
「はい」
「今見たものを、忘れるな」
「もちろんです」
「余計なものは忘れろ」
「そこは努力します」
「努力では足りん」
リューネが、包帯を少し強く巻いた。
「今は喋らないで」
ヴェラは黙った。
珍しく。
俺も黙った。
机の上で、白い粉の残った小さな部品が、まだ湿った光を拾っていた。
小屋の外では、北側の森が白く煙っていた。




