34話 見えてしまう馬鹿
血の跡は、思ったより細かった。
低い草の縁に、赤が点々と残っている。走って逃げた者の血にしては、間隔が荒れていない。腕を押さえながら、それでも足は止めていない。
「この足跡。歩幅。走ってますね」
「その程度の余裕はあるということか」
「はい。血の跡もまばらです。でも、足は止めてない。体力は結構あるみたいですね」
「我々にとっては嫌な情報だな」
ヴェラは俺の後ろを歩いている。
三歩より遠くならない。だが、近すぎもしない。剣を抜くには近く、俺の首根っこを掴むにも近い距離だった。
境界林は、奥へ進むほど白く湿っていく。朝の光が枝に裂かれ、葉の裏で細かく揺れていた。土は柔らかい。根は浅い。草の倒れ方ひとつで、足をどこへ置いたかが変わる。
女斥候の足跡は、細い。
けれど、弱くはない。
足先は迷わず奥へ向いている。血は落ちているのに、休んだ跡がない。
「逃げてますけど、焦ってはいません」
「根拠は」
「足跡が綺麗すぎます。追われ慣れてる」
「嫌な女だな」
「そうですね」
「嬉しそうに言うな」
「嬉しそうでした?」
「黙って歩け」
怒られた。
俺は黙って、血の跡を追う。
斥候はまっすぐ逃げていない。木の根を跨ぎ、ぬかるみを避け、わざと乾いた場所を踏んでいる。追う側が見失うほどではない。だが、急げば見落とす程度には散らしている。
「ヴェラさん、待ってください」
俺が腕を横へ伸ばすと、ヴェラはその腕を嫌そうに見た。
「なんだ」
「ここの足跡、妙です」
「血は続いている」
「血じゃなくて、重さです」
俺は、湿った土の沈み方を指した。
「ここまでは、女の体重と軽鎧、それに少しの荷物。そんな感じでした。でも、ここから少し軽い。鎧か、荷物か、何かを減らしてます」
「理由を聞いたんだがな。まあいい。それで?」
「この周囲で何かを捨てたか、それか」
「罠でも張ったか」
「その可能性が高いです。少し、周囲に注意してください」
ヴェラは返事をしなかった。
代わりに、剣の鯉口を親指で少しだけ押した。
俺は足を止めたまま、視線だけを動かす。
血の跡。
草の倒れ方。
木の根。
濡れた葉。
そして、枝の低い位置にひっかかった細い糸。
「ありました」
「見えている」
ヴェラは短く言い、腰を少し落とした。
糸は、踏ませるには少し高い。膝か脛に引っかける高さだ。先は草むらの奥へ伸びている。
「足止めじゃないです。踏ませて、こっちの位置を知らせるやつです」
「合図か」
「たぶん」
ヴェラは剣を抜かなかった。
鞘の端で、糸を軽く押さえる。刃を使わない。切る角度を測っている。
「下がれ」
「はい」
俺は半歩下がった。
その瞬間、少しだけ違和感があった。
糸の向きではない。
血の跡でもない。
風が、変だった。
「ヴェラさん」
言い終える前に、乾いた音がした。
ヴェラが糸を切ったのではない。
糸を押さえたことで、横の枝がわずかに沈んだ。
木の影から、細い針が飛んだ。
ヴェラの外套が翻る。
剣が抜ける。
銀色が一閃した。
針は弾かれた。
だが、全部ではない。
ヴェラの肩口の布が裂け、細い血が流れた。
「ヴェラさん!」
「騒ぐな」
ヴェラは眉ひとつ動かさない。
肩口から赤が落ちる。さっきまで追っていた女斥候の血とは違う。俺の目が追うべき赤ではなかった。
ヴェラさんの血だった。
「この程度の怪我、造作もない」
「でも、毒なんかの可能性も」
「多少の毒など効かん。それより、貴様を放っておく方が危険だ」
「俺、毒より危険ですか」
「自覚がない分、毒より悪い」
ひどい。
だが、反論はできなかった。
俺は針の飛んできた方を見る。
踏ませる罠ではなく、見つけた者を刺す罠だった。
「すみません」
「謝るな。前を見ろ」
「でも」
「私が切った。貴様は前を見ろ」
ヴェラは短く言い、裂けた肩を片手で押さえた。
「追えるか」
俺は息を吸う。
女斥候の血は続いている。
軽くなった足跡もある。
捨てた何かを探せば、まだ追える。
湿った葉の下に、細い糸を張った者の跡があった。
女斥候の足とは違う。
重い。
低い。
そして、立ち止まっている。
「……追えます」
「間があったな」
「増えました」
「何がだ」
「血じゃありません。足跡です」
ヴェラの目が細くなる。
俺は、針が飛んできた枝の根元を指した。
「女じゃない。もう一人います」
森の奥で、細い煙が上がった。
一本。
すぐに薄れる。
女斥候が逃げた先とは、少しだけ方角が違っていた。
「二手か」
ヴェラが呟く。
「たぶん」
肩の血を押さえもせず、ヴェラは剣を握り直した。
「どちらを追う」
聞かれて、俺は一瞬だけ迷った。
女斥候の血は分かりやすい。
だが、罠を張ったもう一人は、ここで足を止めていた。
俺たちを見ていた足だ。
「罠を張った方です」
「女ではないぞ」
「そこは我慢します」
「任務だ。耐えろ」
「はい」
俺は、女斥候の血から目を外した。
足元の重い跡を見る。
罠を張った者の跡。
低く、深く、ほとんど動かない足。
それは逃げる者の跡ではない。
待っていた者の跡だった。
俺が前へ出る。
ヴェラが三歩以内でついてくる。
肩から血を流したまま。
それでも、森の白さの中で、黒い外套だけが濃く見えた。
手綱を握っているのは、まだヴェラの方だった。
罠師の足跡は、女斥候のものよりも分かりにくかった。
足を置く回数が少ない。体の向きを変える場所も少ない。必要なところだけ踏み、必要のない草は倒していない。
こちらを誘うための足ではない。
作業を終えて、離れた足だ。
「見失ったか」
「まだです」
「なら喋るな」
「はい」
ヴェラの声は変わらない。
けれど、足音が少しだけ重くなっていた。
一見すれば平気そうに見える。背筋も伸びているし、剣を持つ手も揺れていない。だが、さっきまでより踏み込みが深い。
肩の傷を庇っている。
そう思った瞬間、その考えは飛んだ。
倒れた木の裏に、軽鎧の肩当てが落ちていた。
人間側の正規兵が使うものに似せてある。だが、留め具が粗い。紐も新しい。長く使われた装備ではない。
「これか」
ヴェラが低く言う。
「偽装用ですね」
「外して身軽になったか」
「たぶん。あと、足跡が変わってます」
俺は肩当ての近くに膝をついた。
そこから先の足跡は、さらに浅い。重さが抜けている。女斥候とは別の方角へ、罠師の跡だけが続いている。
だが、肩当てのそばにもう一つ、細い溝があった。
膝をついた跡。
そして、糸を張った時にできる、小さな擦れ。
「ここで、罠を仕掛けたみたいです」
「厄介な相手だ」
ヴェラは周囲を見た。
「アードゥ。他の仕掛けに注意しろ。証拠を集める」
「分かりました。ヴェラさんは少し休んでください」
「ふん。貴様に心配されるとはな。口ではなく手を動かせ」
「はい」
俺は肩当てを布で包み、近くに落ちていた細い糸の切れ端を拾う。煙筒の破片もあった。中身はほとんど空だが、筒の内側に白い粉が残っている。
針の仕掛けに使ったらしい小さな木片も、枝の根元に挟まっていた。
一つずつ拾う。
踏まないように。
動かしすぎないように。
ヴェラはその間、少し離れた場所で周囲を見ていた。
剣は下げている。
だが、鞘には戻していない。
黒い外套が、枝の影で低く揺れる。
「ヴェラさん、終わりましたよ」
返事がない。
「ヴェラさん?」
顔を上げた。
ヴェラはまだ立っていた。
ただ、剣の切っ先がわずかに下がっている。
次の瞬間、黒い外套が沈んだ。
膝が、湿った土に触れる。
「ヴェラさん!?」




