33話 馬鹿の手綱
見張り小屋には、血と泥と焦げた匂いが混じっていた。
グランは粗い寝台に横たえられ、リューネが傷を見ている。肩口の布は切り開かれ、足首には添え木が当てられていた。顔色は悪いが、呼吸は少し落ち着いている。
カイムは机に地図を広げ、赤筆で印を打っていた。
一つ目は、こちらに見せる煙。
二つ目は、奥へ送る布と煙。
そして、グランを運んで戻った道。
「報告します。これは、ただの煙ではありません」
カイムが言った時、小屋の外で足音が止まった。
扉が開く。
黒い外套が、朝の光を遮った。
片目の仮面。低い沈黙。
ヴェラだった。
「ヴェラ様、なぜここに」
「問答は後だ。状況を報告しろ」
「はい」
カイムは書き板を持ち直した。
声から疲れが消える。
北側の煙は、火ではなく持ち運ばれたもの。グランは煙を出した者を追い、境界林側で負傷した。
相手は正規兵に偽装していたが、装備と動きは別物。俺が女と見抜き、その一瞬を突いて、カイムが腕に浅い傷を入れた。
斥候は煙と布を使い、さらに奥へ合図を送っていた。グランは生存。リューネが治療中。
ヴェラは口を挟まなかった。
仮面の奥の目だけが、地図の上を動く。
「カイム」
「はい」
「城へ戻れ。魔王様へ上げる報告をまとめろ」
カイムの指が、書き板の端を押さえた。
「しかし、追跡は」
「くどい」
ヴェラの声が落ちる。
「貴様が最も優先すべきことは何だ。履き違えるな」
カイムの背筋が伸びた。
「……はっ」
「未確定情報、敵影、グランの証言、帰路の件。分けて上げろ。憶測を混ぜるな」
「承知しました」
カイムは赤筆を一本だけ抜き取り、書き板を抱え直した。
そのまま小屋を出て、城の方へ駆けていく。
足音が遠ざかった。
ヴェラは寝台へ目を移す。
「リューネ。ここの備品で足りるか」
「うん。動かさなければ、何とかなる」
「分かった。任せたぞ」
「大丈夫。任せて」
リューネは頷き、すぐグランへ視線を戻した。
最後に、ヴェラの目が俺へ向いた。
「貴様は――」
「ヴェラさん」
俺は先に言った。
「俺に奴を追わせてください」
「逃げた後だ。今更何を拾う」
「追いつく気はありません」
追いつける相手ではない。
でも、見失ったわけじゃない。
「相手が女なら、追わないより追った方が手掛かりを拾えます。匂いでも、足跡でも、身体の逃がし方でも。そこは見逃しません」
リューネの手が、一瞬止まった。
「……嫌な自信」
「俺もそう思う」
「でも」
リューネは包帯を押さえ直す。
「こういう時のアードゥは、見てるよ。ちゃんと」
ヴェラは黙っていた。
仮面の奥で、何かを測っている。
「貴様」
「はい」
「その言い方がどれほど不快か、分かっているか」
「仮面越しでも分かります」
「分かっているなら言葉を選べ」
ヴェラは短く息を吐いた。
「それに、貴様一人で行かせると思うか」
「駄目ですか」
「当然だ。私が同行する」
今度は、俺が止まった。
「ヴェラさんが?」
「不服か」
「いや。意外で」
「貴様を野に放つなら、手綱が要る」
「それは本当にそう」
リューネが深く頷いた。
「俺、馬扱い?」
「馬に失礼だと思う」
反論できなかった。
リューネはグランの額に浮いた汗を拭う。
「気をつけて。札の残りがあるかもしれないし、相手が一人とも限らない」
「分かってる」
「あと、アードゥ」
「何だ」
「見すぎないで」
どこを、とは聞かなかった。
聞いたら怒られる。
ヴェラが扉へ向かう。
「余計なものを見るな。必要なものだけ拾え」
「それが難しいんですけど」
「だから私が行く。不本意だが」
小屋を出ると、境界林の奥は白く霞んでいた。さっきまで揺れていた布はもう見えない。煙も細く消えかけている。
まずは、グランが倒れていた場所まで戻る必要がある。
斥候と刃を交えたのは、そこだ。
ヴェラが剣の柄に触れた。
「先に立て。三歩以上離れるな」
「手綱ですか」
「必要なら首にも付ける」
「それは――」
嫌です、と言うつもりだった。
少しだけ、考えた。
「……何を黙った」
「嫌です」
「今、間があったな」
「嫌です」
「二度言うな。歩け」
俺は黙って歩き出した。
来た道を戻るだけなら難しくない。グランを運んだ時に踏んだ泥。担架を避けるために折った枝。リューネが札を避けた場所。少しずつ、さっきの跡が戻ってくる。
倒木の陰。
浅い窪地。
グランが倒れていた場所。
そこに、新しい赤が落ちていた。
白い布に散った血と、同じ色だ。
「これか。怪我は浅いな」
俺はしゃがみ込み、低い草についた血と、周囲の足跡を見る。
「カイムが切ったとはいえ、腕に浅くでしたからね」
「本当に女のことになるとよく見ているな」
「それほどでもないですよ」
「無駄口を叩くな。追うぞ」
足跡は浅い。
逃げるために軽くなった足ではない。隠すために抑えた足だ。
「追えるか」
「たぶん」
「たぶんでは困る」
「追えます」
「最初からそう言え」
俺は立ち上がった。
正規兵ではない女の斥候。
白い布と煙の筒。
その奥にいる、人間側の別の連中。
薄い血の跡を追って、境界林の奥へ足を踏み出した。
隣で、ヴェラの外套が低く揺れた。




