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勇者パーティを追放されたので魔王様に忠誠を誓いました。  作者: tomato.nit
カイムと仕事と

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32/70

32話 合図の向こう側


 グランの声は、ひどく掠れていた。


「こっちじゃない。人間側の、別の連中だ」


 その言葉が落ちた直後、境界林の奥で白いものが揺れた。


 俺は顔を上げる。


 木々の隙間に、人影があった。


 革と鉄を組み合わせた軽鎧。腰の剣。肩に掛けた細い筒。片手には白い布。巡回兵の装いに似せている。


 だが、違う。


「カイム」


「見えています」


 カイムの声が低くなる。


 人影は白い布を一度だけ揺らし、それから背を向けた。


 逃げるつもりだ。


 カイムが先に動いた。


 書き板を胸元に差し、腰の短剣を抜く。滑るような踏み込みだった。少なくとも、ただ紙を持つだけの魔族ではなかった。


 人影も反応する。


 外套の袖から短い刃が出た。金属が一度だけ鳴る。


 カイムの短剣が、相手の刃を弾いた。


 その一瞬で、俺は見た。


 剣の吊り方が正規兵と少し違う。肩の厚みも、鎧の沈み方も違う。何より、体の逃がし方が兵士のそれではない。


 女だ。


 ……たぶん。


「そいつ、正規兵じゃない。女だ!」


 人影の足が、ほんの一瞬だけ止まった。


 カイムはその動揺を逃さない。


 次の一歩で、カイムの刃先が人影の腕を浅く裂いた。


 白い布に、赤が散る。


「浅い」


 カイムが低く言った。


 人影は怯まなかった。むしろ、傷を受けた腕ごと白い布を振る。


 その奥で、小さな筒が折られた。


 白い煙が跳ねるように広がる。


「カイム!」


 俺が声を上げた時には、人影は煙の向こうへ退いていた。


 追えない距離ではない。


 だが、グランの呼吸が背後で乱れた。


 煙ではない。


 今度は、布だった。


 そして、その布は血で汚れた。


「追います」


 カイムが言った。


 書き板はもう閉じている。片手は腰の短剣に近い。


 追えば、何かが分かるかもしれない。


 足は、少しだけ前へ出かけた。


「追わない」


 リューネが言った。


 彼女はグランの足首を固定したまま、こちらを見なかった。


「今はそんな場合じゃない。このまま追えば、グランはたぶん間に合わなくなる」


 カイムの足が止まった。


 リューネの指は止まらない。包帯を巻き、肩の裂けた布をずらし、傷の深さを確かめている。


「追うなら、グランをここに置いていくことになる。私は動かない」


 それで終わりだった。


 俺は、消えた人影の方を見る。


 白い布の揺れ方が、まだ目に残っている。


 追いたい。


 だが、背中の荷が重かった。


 水袋。包帯。布。予備の木札。今、俺が持っているのは追うための荷ではない。


 戻すための荷だ。


「グランを戻そう」


 そう言うと、カイムがこちらを見た。


「君がそう言うのか」


「追っても、俺じゃ追いつけない。あいつは逃げる準備をしていた。こっちは怪我人つきだ」


「分かったようなことを」


「分かるんだよ。荷を持って逃げる奴と、逃げるために荷を捨てた奴は違う」


 カイムは一度だけ目を細めた。


 それから、短く息を吐く。


「撤退します」


 不満は残っていたが、決めた声だった。


 グランがかすかに笑った。


「……悪いな」


「喋らないで」


 リューネが即座に言う。


 グランは目だけで頷いた。


 俺は周囲の枝を見た。細すぎる枝は折れる。太すぎる枝は重い。倒木の近くに、担架に使えそうな真っ直ぐな枝が二本ある。


「布を使う」


「どれを」


「厚い方。薄いのは固定に回す」


 リューネが何も言わずに頷いた。


 カイムはその間に、焦げた札の位置と水袋の位置を書き取っている。同行兵は周囲を警戒しながら、俺の指示した枝を切った。


 即席の担架は、見た目より頼りない。


 だが、グランを背負うよりはましだ。足を揺らさず、肩にも余計な力をかけずに済む。


「乗せるぞ」


「待って。足首、もう一度固定する」


 リューネの手が素早く動いた。


 その間、カイムは境界林の奥から目を離さない。


 人影はもう見えない。


 それでも、見られている気配だけが残っていた。


「戻る道も、考えた方がいい」


 俺が言うと、カイムが振り向いた。


「なぜです」


「担架を組んだら、通れる道が限られる。狭い藪は無理だ。急な斜面も避ける。つまり、怪我人を出せば、こっちがどの道を使って戻るかも分かる」


 リューネの手が一瞬止まった。


 カイムは書き板を握り直す。


「わざと殺さなかった可能性がありますね」


「そこまで言いたくはないけどな」


「僕は言います。記録に残す必要がある」


 嫌な仕事だ。だが、必要な仕事なのだろう。


 グランを担架に乗せ、俺と同行兵で前後を持つ。カイムは左後ろ、リューネはグランの横についた。


 来た道を戻る。


 行きより遅い。


 足場を選ぶ。枝を避ける。担架が傾くたび、グランの顔が歪んだ。リューネが短く声をかけ、そのたびに俺は歩幅を直す。


 途中、境界林の奥でまた白い布が揺れた。


 今度は遠い。


 こちらへ向けたものではない。


 カイムが足を止める。


「二度目」


「追わない」


 リューネが言った。


「分かっています」


 カイムはそう返したが、声は低かった。


 俺は布の方角を見る。


 その先には、こちらではなく、人間側の奥がある。


 白い布はすぐ消えた。


 代わりに、さらに遠くで細い煙が上がる。


 一本。


 すぐに薄れる。


「……返事か」


 俺が呟くと、カイムの筆が走った。


「煙と布。二種類の合図」


「こっちに見せるためじゃないな」


「ええ」


 カイムは地図の端へ印をつける。


「こちらを見ながら、向こうへ送っている」


 見張り小屋へ戻った時、兵たちの顔が一斉にこちらを向いた。


 グランが生きていると分かった瞬間、安堵の息が広がる。


 けれど、カイムの声は冷たかった。


「安堵は後です。帰路も見られていた可能性があります。小屋の出入り、担架の経路、予備の道、すべて記録してください」


 兵たちの顔が引き締まる。


 リューネはグランを小屋の中へ運ばせ、もう一度傷を見る。俺は担架に残った泥を見下ろした。


 戻るために選んだ道。


 怪我人を運ぶ時に使う道。


 それも、見られていた。


 カイムは書き板に二つ目の印を打った。


「一つ目は、こちらに見せる煙」


 赤筆の先が、境界林の奥へ移る。


「二つ目は、向こうへ送る布と煙」


「向こうって」


「グランが言った、人間側の別の連中です」


 リューネは治療具を片づける手を止めた。


 カイムは、最後にもう一つだけ印をつける。


「報告します。これは、ただの煙ではありません」



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