32話 合図の向こう側
グランの声は、ひどく掠れていた。
「こっちじゃない。人間側の、別の連中だ」
その言葉が落ちた直後、境界林の奥で白いものが揺れた。
俺は顔を上げる。
木々の隙間に、人影があった。
革と鉄を組み合わせた軽鎧。腰の剣。肩に掛けた細い筒。片手には白い布。巡回兵の装いに似せている。
だが、違う。
「カイム」
「見えています」
カイムの声が低くなる。
人影は白い布を一度だけ揺らし、それから背を向けた。
逃げるつもりだ。
カイムが先に動いた。
書き板を胸元に差し、腰の短剣を抜く。滑るような踏み込みだった。少なくとも、ただ紙を持つだけの魔族ではなかった。
人影も反応する。
外套の袖から短い刃が出た。金属が一度だけ鳴る。
カイムの短剣が、相手の刃を弾いた。
その一瞬で、俺は見た。
剣の吊り方が正規兵と少し違う。肩の厚みも、鎧の沈み方も違う。何より、体の逃がし方が兵士のそれではない。
女だ。
……たぶん。
「そいつ、正規兵じゃない。女だ!」
人影の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
カイムはその動揺を逃さない。
次の一歩で、カイムの刃先が人影の腕を浅く裂いた。
白い布に、赤が散る。
「浅い」
カイムが低く言った。
人影は怯まなかった。むしろ、傷を受けた腕ごと白い布を振る。
その奥で、小さな筒が折られた。
白い煙が跳ねるように広がる。
「カイム!」
俺が声を上げた時には、人影は煙の向こうへ退いていた。
追えない距離ではない。
だが、グランの呼吸が背後で乱れた。
煙ではない。
今度は、布だった。
そして、その布は血で汚れた。
「追います」
カイムが言った。
書き板はもう閉じている。片手は腰の短剣に近い。
追えば、何かが分かるかもしれない。
足は、少しだけ前へ出かけた。
「追わない」
リューネが言った。
彼女はグランの足首を固定したまま、こちらを見なかった。
「今はそんな場合じゃない。このまま追えば、グランはたぶん間に合わなくなる」
カイムの足が止まった。
リューネの指は止まらない。包帯を巻き、肩の裂けた布をずらし、傷の深さを確かめている。
「追うなら、グランをここに置いていくことになる。私は動かない」
それで終わりだった。
俺は、消えた人影の方を見る。
白い布の揺れ方が、まだ目に残っている。
追いたい。
だが、背中の荷が重かった。
水袋。包帯。布。予備の木札。今、俺が持っているのは追うための荷ではない。
戻すための荷だ。
「グランを戻そう」
そう言うと、カイムがこちらを見た。
「君がそう言うのか」
「追っても、俺じゃ追いつけない。あいつは逃げる準備をしていた。こっちは怪我人つきだ」
「分かったようなことを」
「分かるんだよ。荷を持って逃げる奴と、逃げるために荷を捨てた奴は違う」
カイムは一度だけ目を細めた。
それから、短く息を吐く。
「撤退します」
不満は残っていたが、決めた声だった。
グランがかすかに笑った。
「……悪いな」
「喋らないで」
リューネが即座に言う。
グランは目だけで頷いた。
俺は周囲の枝を見た。細すぎる枝は折れる。太すぎる枝は重い。倒木の近くに、担架に使えそうな真っ直ぐな枝が二本ある。
「布を使う」
「どれを」
「厚い方。薄いのは固定に回す」
リューネが何も言わずに頷いた。
カイムはその間に、焦げた札の位置と水袋の位置を書き取っている。同行兵は周囲を警戒しながら、俺の指示した枝を切った。
即席の担架は、見た目より頼りない。
だが、グランを背負うよりはましだ。足を揺らさず、肩にも余計な力をかけずに済む。
「乗せるぞ」
「待って。足首、もう一度固定する」
リューネの手が素早く動いた。
その間、カイムは境界林の奥から目を離さない。
人影はもう見えない。
それでも、見られている気配だけが残っていた。
「戻る道も、考えた方がいい」
俺が言うと、カイムが振り向いた。
「なぜです」
「担架を組んだら、通れる道が限られる。狭い藪は無理だ。急な斜面も避ける。つまり、怪我人を出せば、こっちがどの道を使って戻るかも分かる」
リューネの手が一瞬止まった。
カイムは書き板を握り直す。
「わざと殺さなかった可能性がありますね」
「そこまで言いたくはないけどな」
「僕は言います。記録に残す必要がある」
嫌な仕事だ。だが、必要な仕事なのだろう。
グランを担架に乗せ、俺と同行兵で前後を持つ。カイムは左後ろ、リューネはグランの横についた。
来た道を戻る。
行きより遅い。
足場を選ぶ。枝を避ける。担架が傾くたび、グランの顔が歪んだ。リューネが短く声をかけ、そのたびに俺は歩幅を直す。
途中、境界林の奥でまた白い布が揺れた。
今度は遠い。
こちらへ向けたものではない。
カイムが足を止める。
「二度目」
「追わない」
リューネが言った。
「分かっています」
カイムはそう返したが、声は低かった。
俺は布の方角を見る。
その先には、こちらではなく、人間側の奥がある。
白い布はすぐ消えた。
代わりに、さらに遠くで細い煙が上がる。
一本。
すぐに薄れる。
「……返事か」
俺が呟くと、カイムの筆が走った。
「煙と布。二種類の合図」
「こっちに見せるためじゃないな」
「ええ」
カイムは地図の端へ印をつける。
「こちらを見ながら、向こうへ送っている」
見張り小屋へ戻った時、兵たちの顔が一斉にこちらを向いた。
グランが生きていると分かった瞬間、安堵の息が広がる。
けれど、カイムの声は冷たかった。
「安堵は後です。帰路も見られていた可能性があります。小屋の出入り、担架の経路、予備の道、すべて記録してください」
兵たちの顔が引き締まる。
リューネはグランを小屋の中へ運ばせ、もう一度傷を見る。俺は担架に残った泥を見下ろした。
戻るために選んだ道。
怪我人を運ぶ時に使う道。
それも、見られていた。
カイムは書き板に二つ目の印を打った。
「一つ目は、こちらに見せる煙」
赤筆の先が、境界林の奥へ移る。
「二つ目は、向こうへ送る布と煙」
「向こうって」
「グランが言った、人間側の別の連中です」
リューネは治療具を片づける手を止めた。
カイムは、最後にもう一つだけ印をつける。
「報告します。これは、ただの煙ではありません」




