31話 戻らない巡回兵
北側へ向かう廊下には、朝の冷えがまだ残っていた。
リューネは治療具の入った鞄を抱え、前を歩いている。杖を握る指に迷いはない。カイムは書き板を持ち、外縁兵から聞いた情報を短くまとめながら歩いていた。
俺は水袋と布、予備の包帯を背負う。
徹夜明けの体には少し重い。けれど、手ぶらで探しに行く方が、よほど気持ち悪かった。
北側見張り小屋に着くと、兵たちは落ち着かない様子で小屋の前に集まっていた。その中の一人が、俺たちを見るなり頭を下げる。
「グランは、いつもの場所で煙を見たと言っていました。少し確認するだけだと。すぐ戻る、と」
「止めなかったのですか」
カイムが聞くと、兵は唇を噛んだ。
「グランは目がいい。北側では、よくあることだったんです」
「“よくあること”ほど、書いておくべきでしたね」
刺す声だった。
だが、カイムはそれ以上責めなかった。書き板に一つ印をつけ、すぐに道へ向く。
「案内してください」
北側巡回路は、前に見た時と同じ顔をしていた。湿った土。浅く張った木の根。斜面へ向かって少しだけ削れた道。グランがよく足を止めていた場所へ近づくほど、空気の中に薄い焦げ臭さが混じっていく。
「ここだ」
俺は足を止めた。
木の根の横、いつも踏まれていた場所から、斜面側へ靴跡が続いている。走った跡ではない。足元を選びながら、降りている。
「急いでないな」
「分かるのか」
カイムが横から見る。
「荷を持って斜面を降りる時、急ぐと土がもっと崩れる。これは、足場を選んで進む余裕がある」
リューネが屈み、土に触れた。
「血はない。ここで倒れた感じじゃないね」
カイムは何も言わず、靴跡の横に短い印を書き込む。
俺たちは斜面を降りた。
木の枝が低く伸び、足元には湿った葉が積もっている。踏むたびに水の匂いが上がり、下へ行くほど焦げ臭さは濃くなった。
最初に見つけたのは、黒く燻った布切れだった。
続いて、小さな壺の破片が出てくる。火油の匂いは薄く、薪を燃やした跡もない。
「やっぱり、火じゃない」
俺は破片を見下ろした。
「煙を運んでる」
カイムが布を拾い、鼻先に近づける。すぐに眉を寄せた。
「補給の荷ではないのか」
「見せるための物だろ。たぶん、煙だけ出せればいい」
リューネは周囲を見ていた。杖の先で草を押し分けていた手が、途中で止まる。
「こっち」
案内された先に、水袋があった。
低い枝に引っかけられている。落ちたのではなく、置かれていた。紐は刃物で切られている。
「グランのですか」
カイムの声が少し低くなった。
同行兵が頷く。
「間違いありません」
リューネが水袋を調べる。
「血はない。でも、紐は切られてる」
「見つけてほしい場所に置いたんだと思う」
俺が言うと、カイムの視線がこちらへ向いた。
「なぜ」
「道から見える。けど、近づかないと分からない。荷を置いて合図にするなら、こういう場所を選ぶ」
カイムは水袋の位置を見て、それから道の方を見る。そして、書き板へ印を増やした。
「進みます」
境界林の方へ近づくにつれて、木の密度が少しずつ増していく。遠くで鳥が鳴いた。風はあるのに、煙の匂いだけが低い場所に残っている。
リューネが不意に足を止めた。
「待って」
「怪我人か?」
「違う。魔力の残り方が変」
彼女は地面へ杖を向ける。
草の影に、小さな札が落ちていた。泥を被り、端が焦げている。カイムが拾おうとして、リューネが止めた。
「素手で触らないで。たぶん、人間側の道具」
「魔族避けか」
「避けるというより、追いにくくする感じ。匂いも魔力も、少しぼやける」
その先で、足跡は途切れた。
枝で払ったような跡はある。獣の足跡に混ぜようとした人の跡もある。だが、どちらへ進んだのかが分からない。焦げた匂いも、札のせいか妙に平たく広がっていた。
同行兵が右手の藪を指す。
「こちらでは」
カイムはすぐには頷かなかった。リューネも杖を低く構えたまま、首を横に振る。
「違う。そっちは匂いが薄すぎる」
「でも、足跡は」
「足跡だけなら、そっちに見える」
俺はしゃがみ込んだ。
足跡は消えている。見えるものを追えば、右へ行く。だが、土の沈み方だけは別だった。葉の下の湿った泥が、ほんの少しだけ深く押されている。
「二人以上いる」
言うと、カイムがすぐこちらを見た。
「根拠は」
「一人は軽い。たぶん煙の荷を持ってる。もう一人は、足跡を消してる。けど、荷の重さまでは消せてない」
「どちらですか」
俺は右の藪ではなく、倒木の多い方を指した。
「こっち。足跡は薄いけど、重さが残ってる」
カイムは、書き板へもう一つ印をつけた。
そこから先は、楽ではなかった。
枝が低く、足元はぬかるむ。煙の匂いは濃くなったり薄くなったりして、まるで道そのものが揺れているようだった。何度か同行兵が別の跡を見つけ、そのたびにリューネが匂いを確かめ、カイムが印を増やす。
倒木を越えたところで、カイムの足が滑った。
書き板を庇ったせいで、体が斜面側へ持っていかれる。
「カイム!」
俺は反射で手を伸ばし、細い手首を掴んだ。荷の重さが背中に沈む。足元の泥がずるりと鳴ったが、踏ん張る場所だけは分かった。
引き寄せると、カイムの肩が俺の胸元にぶつかった。
「……助かった。君に助けられるのは不本意だが」
「助けてやったのにその口の利き方。しかも板の方を庇ってるし」
「記録を落とす方が困る」
「落ちるのはお前だろ」
横で、リューネが妙な音を立ててむせた。
「リューネ?」
「何でもない。今のは、足場が悪いせい」
「足場でむせるのか」
「むせる時もある。進んで」
顔を見ない方がよさそうだった。
進んでいるのか、回されているのか、分からなくなりかけたところで、リューネが足を止めた。
「……息」
それだけ言って、リューネが走った。
倒木の陰。浅い窪地。そこに、グランがいた。
片膝を立て、背を木の根に預けている。肩の布が裂け、足首にはひどい腫れがあった。意識はある。だが、顔色は悪い。
「グラン!」
同行兵が駆け寄ろうとする。
「待て」
カイムが止めた。
リューネはもう膝をついていた。
「動かさないで。足を痛めてる。肩も見せて」
グランは目だけを動かし、リューネを見る。
「……すまん」
「謝るのは後。喋れる?」
「少しなら」
俺は荷を下ろし、水袋と布を出した。リューネの手は迷わず動き、カイムは壺の破片、足跡、焦げた札、グランが隠れていた窪地へ順に目を走らせる。
リューネの手の下で、グランの呼吸が少し落ち着く。カイムが近づいた。
「何を見ました」
グランは乾いた唇を動かした。
「煙を……見に行ったんじゃない」
カイムの筆が止まる。
「では、何を」
「煙を出した奴を……見た」
グランの視線が、境界林の奥へ向く。
「煙じゃない。あれは……合図だ」
「誰への合図ですか」
グランは少しだけ息を吸い、痛みに眉を寄せた。
その声は、ひどく掠れていた。
「こっちじゃない。人間側の、別の連中だ」




