30話 分類不能
封印指定文書は、ヴェラの机の脇に置かれたままだった。
赤い紐と封蝋までついたそれは、どう見てもただの紙束ではない。
俺としては、負けた気はしていない。
燃やされていない。
破られてもいない。
封印されただけだ。
「その顔やめて。封印されて勝ったと思ってるの、腹が立つ」
机の向こうで、リューネが疲れた声を出した。
「なんでそこまで正確に俺の心情を読み取れるんだ」
「だって分かりやすいもん。考えてることが顔に書いてある」
そんなに分かりやすい表情だろうか。
隣のカイムが頷いている辺り、そうらしい。
リューネは封筒を見ないようにしている。
視界に入れると、また何かが始まる気がするのだろう。
実際、少し始めたい気持ちはある。
「アードゥ」
ヴェラの声が落ちた。
俺はすぐに背筋を伸ばす。
「はい」
「封印文書を見るな。報告書を見ろ」
「はい」
机の端に作られた席で、俺とカイムは並んでいた。
書いているのは、北側の煙についての報告だ。煙の位置、見えた時間、風向き。人影は未確認。確証なし。継続観察。
徹夜明けの頭には、やや重い。
だが、隣のカイムは平然と書き板を整え、俺の書いた文を横から覗いている。目元に疲れはある。けれど、字はまったく崩れていない。
「君の字は、眠気によってさらに進化したな」
「進化したか」
「悪い方向に」
カイムは俺の紙を取り上げ、赤筆で一箇所に線を入れた。
「ここは“煙が上がった”ではなく、“煙が見えた”だ。断定するな」
「細かいな、お前」
「報告だ。細かくない方が困る」
「分かったよ」
返事をすると、カイムは何事もなかったように紙を戻した。
リューネが、少しだけこちらを見る。
「……呼び方、変わったね」
「そうか?」
「変わりましたか?」
俺とカイムの声が重なった。
リューネは目を閉じる。
「気づいてないんだ」
言われてから、少し考えた。
そういえば、昨日から呼び方が変わっている。
特に決めた覚えはない。
「戻した方がいいか?」
俺が聞くと、カイムは横目でこちらを見る。
「どちらでも構わない。君が貴様と呼ばれた方が集中できるなら、戻すが」
「いや、君の方が柔らかい気がする」
「なら、このままでいい」
あっさり言われた。
それはそれで、少し妙な感じがした。
カイムは顔がいい。
淡い銀灰色の髪。涼しい目元。疲れていても崩れない姿勢。字が綺麗で、仕事もできて、魔王様を見る目もある。
男。
男、なのだが。
「アードゥ」
リューネの声が鋭く入った。
俺は顔を上げる。
「それ以上はいっちゃだめ。戻ってきて」
「何を言ってるんだ。それに、リューネ、なんか息が荒いぞ」
「荒くない。私は平気。まだ大丈夫。まだ」
どう見ても大丈夫ではない。
リューネは杖を抱えたまま、妙にまっすぐこちらを見ている。
カイムも手を止めた。
「リューネ殿。顔色が悪いですが」
「カイムは喋らないで」
「なぜですか」
「今はだめ。二人でこっちを見ないで」
俺とカイムは顔を見合わせた。
リューネが小さく震えた。
「見合わせないで」
「リューネ、本当にどうした」
「自分でも分からないものと戦ってる」
カイムは少し考え、それから俺の方へ向き直る。
「さっきから妙な視線を感じるんだが。気のせいか?」
「気のせいというか、ほんと、顔だけは整ってるなと思っていただけだ」
「ふん。顔などどうでもいい。それとも何か、君は顔さえよければ僕が男でも問題ないとでも?」
「……」
「なぜ黙る。気色悪いことを考えるなよ。僕は魔王様以外に興味はない。それが男でも女でもだ」
断言された。
宝の持ち腐れというより、これでは誰も触れない。
「二人とも、報告書」
リューネが紙束を俺たちの間に置いた。少し強い。
「今すぐ戻って。私のために」
「俺たちじゃなくて、リューネのためなのか」
「そう。今は私を助けて」
そこまで言われると、戻るしかない。
カイムも真面目に頷いた。
「リューネ殿がここまで言うなら、君は黙った方がいい」
「俺だけか?」
「主に君だ」
俺は筆を持ち直した。
煙は五日前から。場所は一定しない。朝方が多い。人影は未確認。
書きながら、一つだけ引っかかった。
「これ、火を使ってるというより、煙を運んでる感じがする」
カイムの筆が止まった。
「煙を運ぶ?」
「火そのものじゃなくて、煙を出すためのものだ。火種とか、燻した布とか。荷として軽いなら、場所を変えやすい。だから煙の場所がずれる」
カイムは俺の紙へ目を落とし、余白に小さく印をつけた。
「書け」
「今のを?」
「君が言った。字は悪いが、発想まで捨てる必要はない」
俺は書く。
煙そのものを見せるための荷がある可能性。
人間側が、こちらの反応を見ている可能性。
書き終えたところで、扉の外が少し騒がしくなった。
廊下を走る足音。
ヴェラが顔を上げる。
カイムは、俺の紙に置いていた指を止めた。
リューネが杖を抱え直す。
扉が叩かれたのは、その直後だった。
「入れ」
ヴェラの声に、外縁の兵が飛び込んでくる。
片膝をつき、息を整える間も惜しむように顔を上げた。
「報告します。北側巡回のグランが、戻っていません」
部屋の空気が変わった。
封印文書も、呼び方も、分類不能も、頭の奥へ下がった。
ヴェラは机の上の地図へ視線を落とした。
「予定時刻は」
「半刻前です。北側見張り小屋からの帰着札が戻っておりません。同行の兵は、グランが途中で境界林側を確認すると言って別れたと」
カイムが立ち上がった。
「単独行動ですか」
「はい。すぐ戻ると言っていたそうです」
ヴェラの指が、北側巡回路の上で止まる。
俺はそこを見た。
足が止まりやすい場所。
境界側が見える場所。
グランが煙を見ていた場所。
「リューネ」
ヴェラが言った。
「治療具を持て。アードゥ、カイム、お前たちも行け」
「はい」
リューネはすぐに頷いた。
カイムは書き板を取り、報告書の上に置かれていた赤筆を一本だけ差した。
俺は立ち上がる。
徹夜明けの足は少し重い。
だが、荷物持ちは呼ばれたら荷を持つ。
戻らない荷があるなら、探しに行く。
「アードゥ」
ヴェラが低く言う。
「余計なものは見るな。必要なものだけ報告しろ」
「それができれば、俺はたぶんここには居ないんですけどね」
「つべこべ抜かすな。ここにまで居られなくなるのは嫌だろう」
返す言葉がなかった。
カイムが横に並ぶ。
「君の濁った目が役に立つかどうか、すぐ分かるな」
「お前、こういう時でも刺すんだな」
「こういう時だから刺す。眠るな」
リューネが扉へ向かう。
その顔から、さっきまでの妙な動揺は消えていた。
今は、治療役の顔だった。
俺たちは北側へ向かうことになった。
煙の出た側を見るために。
そして、戻らない巡回兵を探すために。




