28話 馬鹿の共鳴 【挿絵】
部屋は、紙に占領されていた。
机の上は当然として、椅子の上にも、床にも、ベッドの端にも紙がある。外縁報告の写し。手紙の下書き。魔王様から投げられた問いへの失敗作。そして、処分されたはずの布教文の残骸。
必要な紙は、だいたい手の届くところにある。
つまり、散らかっているのではなく、広げているだけだ。
そういうことにして、俺は机に向かっていた。グランの煙について、書き足すことが残っている。場所、時間、風向き。確証なし。継続観察。
書けば書くほど、自分の字が読みにくい。
そこは俺にも分かる。
扉が叩かれたのは、ちょうど筆先が紙の端で止まった時だった。
「入っていいぞ」
てっきりリューネだと思った。
だが、扉を開けたのはカイムだった。外縁記録の書き板を片手に抱え、いつものように姿勢だけは整っている。淡い銀灰色の髪も、涼しい目元も、嫌になるくらい整っていた。
そして、部屋を見た瞬間、カイムの足が止まった。
「……貴様、ここで生活しているのか」
「一応」
「紙が主で、貴様が従に見える」
「挨拶が独特だな」
「しまった。つい本音が漏れてしまった」
謝る気のない声だった。
カイムは床の紙を踏まないように器用に歩き、机の前まで来る。途中で一枚拾い上げ、目を細めた。
「これだけ書いて、なぜ字は汚いままなんだ」
「量と質は別らしい」
「悲しい発見だな」
「で、何か用か」
「煙の件で確認がある。グランの証言と、貴様が気づいた視線の向きが噛み合うかを――」
そこまで言って、カイムの目が机の端で止まった。
置いてあったのは、リューネに表紙だけで破られた紙だった。
正確には、破られたあと、俺がこっそり貼り直したものだ。
題名は残っている。
人間に伝えるべき魔王様の可愛さについて。
カイムは無言でそれを手に取った。
指先が震えた。
「き、貴様がこれを書いたのか」
「表紙だけで破られたやつだ」
「当然だ」
「当然なのか」
「当然だ。人間へ最初に投げる言葉が“可愛さ”であってたまるか」
そこは譲れない。
「でも、可愛いだろ」
カイムは一瞬だけ口を閉じた。
「……否定はしない」
「否定しないんだな」
「入口にするなと言っている。魔王様の御名を語るなら、順序というものがある」
カイムは表紙を机に置き、次の紙を拾った。
リューネの赤筆が入った原稿だ。
魔王様の御声について、欲望を押さえて書いた改稿版。
カイムの眉間に、すぐ皺が寄る。
「魔王様の声は澄んでいる。命令されると魂が正座する……魂が正座するとは何だ」
「したんだ」
「貴様の魂の姿勢など知らん」
「でも、命令されると分かるだろ。背筋だけじゃ足りなくて、中身まで座る感じ」
カイムは紙から目を離さなかった。
「……分からなくはないのが腹立たしい」
「分かるんじゃないか」
「腹立たしいと言った」
次にカイムが拾った紙には、見覚えのある題名が残っていた。
魔王様の足先に宿る王威について。
しまった、と思った時には遅い。
「魔王様の足先には、玉座すら従える品格が――」
「そこは重要な観察記録だ」
「重要だから外へ出すな」
「ヴェラさんと同じことを言う」
「正しい判断だからだ」
カイムは紙を破らなかった。
代わりに、机の上へ伏せる。
それから、赤筆で囲まれた一枚を取った。
俺も、少しだけ息を止めた。
魔王様は、滅ぼすための王ではなく、守るものを持つ王である。
リューネとヴェラさんが破らずに残した一文だ。
カイムの指が止まる。
紙の端を押さえたまま、しばらく何も言わなかった。
「……これは」
「そこは残った。リューネもヴェラさんも、破らなかった」
「当然だ」
「そこも当然なのか」
「この一文だけ、貴様の目が濁っていない」
かなり歪んだ褒め言葉だった。
「魔王様は怖いし、気高いし、可愛い。でも、ただ怖いだけなら、あんなに困らないだろ。捨てれば楽なものを捨てないから、困った顔をされるんだと思う」
「可愛いで締めるな。あの方は、捨てれば楽になるものを抱えたまま王であろうとする。それを、人間に伝えるなら“可愛さ”では足りない」
「足りないなら、足せばいい」
「貴様が足すと余計なものが混じる」
「なら、お前が書いてみろよ」
口から出ていた。
カイムの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「お前がそこまで言うなら、お前が魔王様の布教文を書いてみろ。俺も、もっとすごいのを書いてやる」
カイムの口元が、ほんのわずかに動いた。
「布教という言葉は不敬だ。だが、君の文章よりましなものは書ける」
俺は、一拍遅れて瞬きをした。
今、こいつは君と言った。
だが、問い返す前に熱が先へ行く。
「言ったな、カイム」
「言った。望むところだ、アードゥ。魔王様の御名を汚さぬ文というものを見せてやる」
その時点で、もう終わっていた。
俺たちは机の上の紙を押しのけ、使えそうな紙だけを集めた。カイムは題名から直すべきだと言い、俺は、可愛さを消すなら書く意味がなくなると主張した。
結果、題名はこうなった。
魔王様の可愛さと崇高さについて。
「崇高さを先にしろ」
「可愛さは入口だ」
「その入口から入ってくる者は危険だ」
「俺は入った」
「だから危険だと言っている」
言い合いながらも、筆は動いた。
カイムの字は腹が立つほど整っていた。魔王様を語る時の言葉は重く、外縁の兵や畑や城の灯まで、すぐに繋がっていく。
俺の字は汚い。
だが、見たことは書ける。
魔王様の声。誰かを捨てないために迷っている時の目。足で小突かれた時の衝撃。
足先について書いたところで、カイムに無言で線を引かれた。
「王威だぞ」
「君の欲望だ」
反論できなかった。
だが、すぐ別の紙に書き直した。
魔王様は、我らに死ねと命じる王ではない。
生きて、踏み止まれと命じる王である。
それはカイムが書いた一文だった。
俺はしばらくそれを見た。
「いいな、それ」
「当然だ」
「でも、可愛いがない」
「入れるな」
少しだけ入れた。
カイムは気づいて赤い線を引く。
俺はその横に、魔王様の可愛さは消しても滲む、と書いた。
カイムはさらに下に、滲ませるな、と書いた。
夜は、そこでかなり深くなっていた。
インク壺が一つ空になった。
俺の右手が痛み始めたので、包帯を巻いた。
カイムはそれを見るなり眉を寄せ、何も言わずに包帯をほどいた。
「お前、巻けるのか」
「治療用の巻き方ではない」
「今から言うのか」
「今見たからな。外縁では、できる者がやる。君のように筆の持ちすぎで怪我をする馬鹿は珍しいが」
「魔王様への忠誠の結果だ」
「忠誠に手首を巻き込むな」
そう言いながら、結び目はしっかりしていた。
ありがたい。
腹立たしい。
さらに書いた。
気がつくと、窓の外が薄く白んでいた。
机の上には、一つの紙束ができている。
表紙には、カイムの整った字で題名が書かれていた。
魔王様の可愛さと崇高さについて。
その下に、俺が少し汚い字で書き足した。
共著 アードゥ・テイカー/カイム。
カイムはしばらくその表紙を見ていた。
「題名には、まだ問題がある」
「でも正確だろ」
「……正確ではある」
勝った。
少しだけ。
「共著だな」
「不本意だ」
「名前は載せるんだな」
「載せる。魔王様の御名に関わる文責を、君一人に預けられるか」
まったく信用されていない。
だが、同じ表紙には並んでいる。
それだけで、少し満足した。
扉が叩かれた。
返事をする前に、扉が開く。
リューネだった。
彼女はまず、部屋を見た。
床の紙。
空のインク壺。
包帯を巻いた俺の右手。
徹夜明けのカイム。
そして、机の中央に置かれた紙束。
リューネの目が、表紙で止まった。
魔王様の可愛さと崇高さについて。
共著 アードゥ・テイカー/カイム。
リューネは、扉のところでゆっくり膝から崩れ落ちた。
「……やっぱりこうなった」
「今回は読んでもらおうと思って」
「読まない」
「まだ何も言ってない」
「題名で駄目」
十三話と同じことを言われた。
ただ、今回は俺一人ではない。
カイムが表紙を手に取り、真面目な顔でリューネへ向けた。
「リューネ殿。題名には改善の余地があります。しかし、一文だけは残す価値が――」
「カイムまでそっち側に行かないで」
リューネの声は、朝から疲れ切っていた。
俺とカイムは顔を見合わせる。
そっち側。
いい響きだと思った。
リューネは、まだ床に膝をついたままこちらを見ている。
「二人とも、今すぐ寝て。それから、これは私が預かる」
「燃やすのか」
「読みません」
「破るのか」
「今は破る気力もない」
なら、まだ生きている。
魔王様の可愛さと崇高さについて。
朝の光の中で、それはまだ机の上にあった。
破られずに。
共著として。




