27話 半分だけの期待
グランという北側巡回兵は、日が落ちる少し前に戻ってきた。
片方の角が途中で欠け、左目の下に古い傷がある。足取りは早くない。だが、扉をくぐった時、最初に室内の椅子の数と窓の開き具合を見た。
「グラン。座ってください」
カイムは机の上に書き板を置き、短く告げた。
俺とリューネは、少し離れた壁際に立っている。いや、正確には立たされている。
「貴様は余計なことを言うな。黙って見ていろ」
聞き取りの前に、カイムは俺へそう言った。
「俺、いる意味あるか?」
「ある。黙っていれば、たまに余計なところを見る」
「褒めてる?」
「半分だけだ」
リューネが横で小さく言った。
「半分もあるんだ」
そこは感心するところなのだろうか。
グランは腰を下ろし、欠けた角を軽く撫でた。疲れているようには見えるが、怯えた様子はない。カイムの顔を見ると、少しだけ口元を歪める。
「また記録か。お前は本当に紙が好きだな」
「紙が好きなのではなく、書かれていないものが嫌いなんです」
「それで、俺に何を聞きたい」
カイムは書き板を開いた。
「北側巡回路の途中で、毎回足を止めていますね」
「道が悪いからな」
「それは記録にあります。記録にないものを聞いています」
グランは少しだけ眉を上げた。
逃げ道のない声だった。
「止まる場所から、境界側が見えます」
「ああ。見えるな」
「何を見ていますか」
「境界だ」
短い答えだった。
カイムはすぐには書かなかった。
「異常は」
「ない」
グランはそう言い、指で水袋の紐を直した。
俺は黙っていた。
黙っていたが、目は勝手に動いた。
グランの靴には、北側の黒い土がついていた。右の踵だけ、泥が薄い。
水袋の紐は左へ寄っている。
それに、グランは今も窓の上を見た。
境界ではない。
もう少し上だ。
「煙を見てたんじゃないか」
言ってから、リューネがこちらを見た。
カイムも見た。
グランは、見なかった。
「黙っていろと言いました」
カイムの声は低い。
「分かってる。でも、境界じゃなくて、上を見てる感じがした。水袋の紐も左に寄ってる。あの場所で同じ向きに身体を傾けてるなら、見てるのは足元じゃない」
カイムは俺を刺さなかった。
書き板の端を指で押さえ、グランへ視線を戻す。
「煙ですか」
グランは少し黙った。
外から、見張り交代の短い笛が聞こえた。
「……煙だ」
リューネが杖を抱える手を少しだけ締めた。
「いつからですか」
「五日ほど前からだ。境界林の向こうで、煙が上がる。焚き火にしては場所がずれる。炭焼きにしては時間が早い。兵か、旅人か、ただの火か。分からん」
「なぜ書かなかった」
「外れたら笑われる」
グランは悪びれずに言った。
カイムは書き板に一つ印をつける。
「笑われることと、見落とすこと。どちらが軽いですか」
グランは答えなかった。
「魔王様に上げるほどのことか、迷った」
ぽつりと漏れた言葉に、カイムの手が止まる。
「迷うなら上げろ。軽いか重いかを、僕らが勝手に決めるな」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
けれど、グランの背が少し伸びた。
「魔王様は、軽い報告を軽んじる方ではない」
そこだけ、カイムの声から嫌味が消えた。
俺は、つい言った。
「君、本当に魔王様のことを信じてるんだな」
「当然だ」
返事は早かった。
カイムは俺を見た。涼しい目元が、ほんの少しだけ強くなる。
「あの方は、僕らが落としたものまで拾おうとなさる。だからこそ、先に落としてはならない」
分かる気がした。
「分かる。魔王様は、たぶん小さいものもちゃんと見てくれる。そこが――」
「その話、今じゃない」
リューネが割って入った。
声は静かだった。
静かすぎて、逆に不自然だった。
俺とカイムは、ほとんど同時にリューネを見た。
「今、切ったな」
「切りましたね」
リューネは表情を変えない。
「聞き取り中だからね」
リューネの言い分は正しい。
だが、カイムは一瞬だけ眉を寄せた。
「……確かに、今は記録が先です」
カイムは書き板へ戻る。
俺も口を閉じた。
ただ、少しだけ思った。
こいつ、魔王様の話なら意外と通じるのではないか。
リューネは、まだこちらを見ていた。
何か言いたそうだったが、言わなかった。
聞き取りはすぐに終わった。
煙は五日前から。場所はずれる。朝方が多い。人影は未確認。
確証はない。
それでも、紙に残すには十分だった。
グランが部屋を出ると、カイムは報告用の紙を一枚こちらへ滑らせた。
「貴様が拾った。字は汚いが、拾った者が書け」
「字の話は毎回必要か?」
「毎回汚いからな。嫌なら習字でもしておけ」
反論できなかった。
俺は筆を取る。
見たことには、北側巡回兵グランが境界林の煙を確認していたこと。
気になったことには、煙の場所と時間が一定ではないこと。
確かめるべきことには、偵察、野営、炭焼き、それ以外の可能性。
書きながら、何度か筆が止まった。
確証なし。
継続観察。
最後にそう付け加える。
カイムは無言で紙を取り上げた。
文字を追い、眉を寄せ、余白に小さく印をつける。
「字は悪い」
「内容は?」
「残す」
「かなり褒められてるな」
「普段からどんな扱いをされてるんだ、貴様は」
それでも、紙は破られなかった。
カイムは報告書を、ヴェラへ上げる束の上に重ねる。
「魔王様にも上げるのか?」
「上げる。軽いか重いかを、僕らが勝手に決めるな」
リューネが、カイムの横顔をちらりと見た。
何か言いかけて、やめる。
俺はその理由までは分からなかった。
カイムは口が悪い。
俺への評価も低い。
ただ、魔王様の話になった時だけ、少しだけ同じ方を見た気がした。
たぶん。
半分くらいは。




