26話 道は紙だけでは済まない
午後の北側巡回には、当然のようにリューネがついてきた。
杖を抱えた見張り役であり、最近では検閲役でもある。脛を守る気は、たぶん最初からない。
カイムも一緒だった。
午前中に、俺の字と目と頭をそれぞれ刺してきた魔族の男である。外縁記録の束と細い書き板を抱え、迷いなく廊下を歩いている。
顔だけなら、やはり少女に見えなくもない。
「また顔を見ているな」
隣を歩くカイムが、前を向いたまま言った。
まだ何も言っていない。
「言わずとも分かる。貴様の目は隠し事に向いていない」
「その目で見抜くな」
リューネが後ろで小さく息を吐いた。
城の北側へ向かう道は、正門前より人が少ない。石の廊下を抜け、裏門に近い通路へ入ると、壁の灯りも少し間隔が広くなった。窓から入る風に、土と草の匂いが混じる。
カイムは歩きながら、すれ違う兵に短く声をかけた。
「水袋が軽い。戻る前に替えておけ」
「東の荷車はそのまま置くな。帰りの担架が曲がれない」
「札の日付が昨日のままだ。見張りが眠っていたと思われたいのか」
兵たちは文句を言いながらも動く。カイムは返事を待たず、次の場所へ視線を移していた。
口を開くたび、刺さる。
「何か余計なことを考えたな」
「いや、仕事ができるなと思っていただけだ」
「そこだけ言えばいい。余計なものを混ぜるから貴様の評価は濁る」
裏門を出ると、北側の外縁が広がっていた。
城壁の陰を抜けた途端、足元の感触が変わる。石畳はすぐに途切れ、踏み固められた土の道になった。片側には低い木柵。もう片側はゆるい斜面で、雑草と細い木がまばらに生えている。
南側の畑へ続く道とは違う。
人の足より、見回りの足に踏まれた道だった。
「北側巡回路だ」
カイムが書き板を見ずに言った。
「記録上は、道が悪いため帰着が遅れる、となっている。午前の貴様は、それを疑った」
「疑ったというか、毎回同じくらい遅いのが気になっただけだ。道が悪いなら、もっとぐちゃぐちゃに遅れるだろ」
「荷物持ちにしては、ものを考えている」
「今のは褒めたな」
「荷物持ちにしては、と言った。そこを聞き落とすな」
褒められたようで、足元を払われた気がする。
カイムは構わず歩き出した。
道は確かに悪かった。乾いた土の上に、ところどころ黒い湿りが残っている。木の根が浅く張り、片輪だけ沈んだような跡もある。軽い足なら問題ないが、荷を持って歩けば、たぶん体が横に流れる。
勇者パーティーにいた頃、悪い道は足首で分かった。肩紐が食い込み、荷が片側へ寄る。そうなれば、歩きながら直すか、一度止まって背負い直すしかない。
今の俺は大した荷を持っていない。
それでも、足は勝手に止まりそうな場所を探していた。
「ここ」
道の途中で、俺は立ち止まった。
木の根が斜めに出ていて、その横だけ土が少し深く削れている。見れば、古い靴跡がいくつも重なっていた。足を置く場所が自然とそこに集まるのだろう。
カイムが横に来る。
「何だ」
「荷を持ってたら、ここで止まる。根で引っかかるし、足が沈む」
「巡回兵は荷物持ちではない」
「武器も水袋も持ってる。足が止まる理由にはなるだろ」
カイムはすぐには返さなかった。
その代わり、俺の足元、道の削れ、木の根、斜面の先を順番に見た。
リューネも少し遅れて覗き込む。
「確かに、ここだけ踏まれてる」
「だよな。あと――」
俺は斜面の向こうを見た。
木の枝が少し切れている。
そこから、遠くの境界林が見えた。人間側の詰所そのものは見えない。だが、煙が上がれば分かる。夜なら灯りも拾えるかもしれない。
「ここ、向こうが見える」
カイムの目が細くなった。
「……北側巡回が、ここで境界側を見ている可能性か」
「それだけじゃない。荷を直すなら、普通は足元を見る。でも、この靴跡、つま先が少し斜面の方へ向いてる。たぶん、ここで止まったやつは、荷じゃなくて向こうを見てる」
言ってから、少し不安になった。
俺の見間違いかもしれない。
けれどカイムはすぐには刺してこなかった。しゃがみ込み、木の根のそばに重なった靴跡を指でなぞる。
「……貴様にしては、余計なところを見ている」
「今のは褒めたな」
「褒めていない。僕の想定より、少しだけ役に立ったと言っている」
それは、だいぶ褒めているのではないだろうか。
言うと刺されそうなので、黙っておいた。
カイムは書き板に短く印をつけた。字は小さいが、整っている。俺の字とは違い、読む者への攻撃性がない。
「ここは記録する。巡回兵が何を見ているか、次に確認する必要がある」
「俺の意見、採用か」
「意見ではない。足元の汚れだ。貴様は、それに気づいただけだ」
「そこは少し喜ばせてくれてもいいんじゃないか」
「調子に乗る前に歩け」
調子に乗る暇もない。
北側の見張り小屋は、その場所から少し進んだ先にあった。
木と石で作られた小さな小屋で、軒先に乾いた布が吊られている。横には水樽と、薪の束。扉のそばに置かれた椅子の足は片方だけ少し短いらしく、座るたびに傾きそうだった。
カイムは通り過ぎかけて、無言で足を止めた。
腰の小袋から薄い木片を出し、椅子の短い足の下へ噛ませる。椅子を一度揺らし、傾かないことを確かめてから、ようやく扉を叩いた。
「前から傾いていたのか?」
「昨日気づいた。今日直すつもりだった」
「それ、面倒見がいいって言うんじゃないか」
「放置すれば誰かが転ぶ。余計な怪我は、余計な記録を生む」
中から、角の片方が欠けた魔族の兵が顔を出した。
「カイムか。昨日の布、助かった。足のやつが少し楽になったってよ」
「余りを回しただけです。礼を言うなら、布を無駄に破った本人に言わせてください」
「相変わらず口が痛ぇな」
「足よりはましでしょう」
兵は笑い、直った椅子に気づいて片眉を上げた。
リューネが小屋の中を覗き込む。奥の長椅子に、片足を伸ばした若い兵が座っていた。靴を脱いだ足首に布が巻かれている。
「見せて」
リューネが短く言うと、兵は少し緊張した顔で足を出した。
カイムは当然のように腰の小袋から軟膏と新しい布を出し、リューネの横に置く。
「準備してたの?」
リューネが少し驚いた顔をした。
「北側は帰りが遅い。足を痛める者が出る。リューネ殿が来るなら、手当ての道具は必要になります」
「気が利くね」
「気づくのが仕事です」
俺は少しだけ胸を張った。
「俺も、さっき足が止まる場所に気づいたぞ」
カイムは、こちらを見ずに言った。
「遅い。リューネ殿が手を動かしている時に、自分を並べるな」
並べる前に蹴落とされた。
リューネは笑いをこらえたような顔で、兵の足首に布を巻き直している。
見張り小屋の中は狭い。
古い木の匂い。湿った布。金属の油。火を入れていない炉の灰。壁には短い槍と、合図用らしい小さな角笛が掛けられていた。
机の上には、巡回表が置かれている。
俺はそれを覗き込んだ。
同じ名前が、北側の欄に何度もある。
「この人、毎回北側にいるのか」
俺が指を置くと、カイムがすぐ横から覗いた。
「グランのことか。北側が長い。足は遅いが、目はいい」
「足は遅いって書くの、ひどくないか」
「本人にも言っている」
「なお悪い」
「事実を隠すと、配置を間違える」
カイムはそう言って、壁の外へ視線を向けた。
さっきの木の根の場所からなら、境界側が見える。
目のいい兵が、毎回そこを通る。
帰りが少し遅い。
まだ繋がったとは言えない。
カイムは俺が何か言う前に、書き板へ印を足した。
「グランに確認する。今日は外へ出ている。戻り次第、僕が聞く」
「俺も聞いた方がいいか」
「貴様が聞くと、余計なことを言う可能性が高い。だが、嘘をつかれた時に余計なところを見る可能性もある。黙って隣にいろ。できるならな」
「難しい注文だな」
「分かっている。だから期待は半分だけにしておく」
期待の量が、少し増えた。
見張り小屋を出る頃には、日が少し傾き始めていた。
北側の道を戻る途中、リューネが前を歩くカイムをちらりと見た。
「あの兵、カイムには普通に笑うんだね」
「僕ではなく、布と軟膏に笑ったんです」
「そういう言い方するから、口が痛いって言われるんだよ」
「間違いは痛い方が覚えます」
カイムは真顔だった。
リューネは俺の方を見た。
俺に同意を求められても困る。
痛い目を見ている側としては、少し分かるからだ。
「でも、君は本当に魔王様のために働いてるんだな」
口から出た言葉に、カイムの足がほんの少しだけ止まった。
すぐに歩き出したが、その一拍は見えた。
「当然だ」
短い返事だった。
いつもの嫌味はない。
そう思った時、リューネが横から言った。
「今、二人とも少し似た顔してた」
「してない」
俺はすぐ否定した。
カイムも、同じくらい早く言った。
「似ていない」
リューネは何も言わなかった。
ただ、少しだけ面倒くさそうな顔で前を向いた。
城へ戻ると、俺はすぐ報告を書かされた。
机に向かい、筆を取る。
見たことには、北側巡回路の途中に足が止まりやすい場所があること。そこから境界側が見えること。
気になったことには、遅れの原因が道だけではないかもしれないこと。
確かめるべきことには、北側の巡回兵がそこで何を見ているのか。
書いている間、カイムは横で別の紙を確認していた。
俺が筆を置くと、彼は無言で紙を取り上げる。
「字は相変わらず汚い」
そう言いながら、破りはしなかった。
代わりに、余白へ小さく印をつける。
「内容は?」
「紙が耐えた程度には読める」
「それは褒めてるのか」
「ああ。褒めているぞ。紙の方を」
ひどい。
だが、紙は戻ってきた。
どうやら俺の馬鹿な目は、机の上だけでは済まないらしい。
口の悪い案内役も、そこだけは破らなかった。
たぶん。
少しだけ。




