25話 馬鹿の瞳を騙す者【挿絵】
翌朝、俺はあまり眠れなかった頭を抱えたまま、ヴェラの執務室へ向かっていた。
原因は外縁報告だ。
そういうことにしておきたい。
机の上には、明け方まで紙が広がっていた。
見たこと。気になったこと。確かめるべきこと。
三つに分けるだけで、思ったより頭を使った。
ただ、月明かりの中のヴェラまで頭に残っているのは、外縁報告のせいではない。
「顔がだらしない。ヴェラに怒られるよ。私はもう諦めたけど、首が飛ぶところまでは面倒見ないからね」
隣を歩くリューネが、杖を抱えたまま低く言った。
リューネはそれだけ言うと、先に扉を叩いた。
「入れ」
返ってきた声は、いつものヴェラだった。
昨夜の疲れは、きれいに消えていた。
黒い外套。片目の仮面。机の前にまっすぐ立つ姿は、書類の束の中で一本だけ抜かれた刃物みたいだった。
少し残念に思った。
すぐに視線が刺さった。
「何だ、その顔は」
「いえ。今日もお元気そうで何よりです」
「昨日のことを思い出しているなら殺す。覚えていても殺す」
否定したかった。
だが、月明かりの記憶はまだ消えていない。
「せめて否定しろ」
リューネが横で小さくため息をついた。
ヴェラはそれ以上追及せず、机の上に置かれた束を指先で叩いた。
「昨日命じた件だ。外縁の報告を分けろ。見たこと、気になったこと、確かめるべきこと。この三つでいい」
机の上には、思ったより多くの紙が積まれていた。
巡回記録。補給記録。畑から城への搬入。治療室への薬草。
紙だけでなく、木板や古い札まで混じっている。
「これを、俺が?」
「他の馬鹿が居るなら連れてこい」
逃げ道はなかった。
俺は紙束を見下ろした。
量だけで、少し逃げたくなる。
「魔王様のためなら、やります」
言うと、ヴェラの指が紙束の上で止まった。
「ふん。軽々しくその名を語るな」
短い言葉だった。
それ以上はない。
けれど、首筋が少し冷えた。
「……はい」
「返事だけなら誰でもできる。中身を伴わせろ」
その時、扉が叩かれた。
「入れ」
ヴェラが言うと、扉が静かに開いた。
入ってきたのは、書類筒を抱えた魔族だった。
最初に目に入ったのは、淡い銀灰色の髪だった。
小さめの角。細い顎。涼しい目元。
書類筒を抱えて立つ姿はきっちりしているのに、顔だけなら少女に見えた。
魔族の年齢はよく分からない。
だが、見た瞬間、俺は思った。
今度の案内役も、女の子なのか。
「見過ぎだ」
ヴェラの声で、背筋が伸びた。
「あ、いや、その、今度の案内役も女の子なのかと」
書類筒を抱えた魔族は、眉一つ動かさずに言った。
「男だ」
思っていたよりも低い声が響く。
「馬鹿な……俺の目が、男を女と見誤った?」
「その目に、どれほどの価値があるつもりだったんだ」
本人に斬られた。
言葉で。
リューネは額に手を当てている。朝から忙しそうで申し訳ない。
男だと言った魔族は、抱えていた書類筒を机に置き、ヴェラへ軽く頭を下げた。
「北側外縁の巡回記録と、補給小屋の備品表です。昨夜の分までまとめてあります」
「そこに置け。カイム、お前はしばらく残れ」
「はい」
「この人間に、外縁記録の読み方を教えろ」
カイムと呼ばれた魔族は、そこで初めて俺をまっすぐ見た。
顔は可愛い。
だが、目は可愛くなかった。
「この人間に、ですか。外縁記録が泣きそうですね」
「泣く前に読ませろ」
「承知しました」
納得はしていない声だった。
それでも返事は早い。背筋も崩れない。書類筒を開く手つきも淀みがなかった。
カイムは机の上の紙束を、手早く分け始めた。
「巡回記録はこちら、補給はこっちだ。日付の混じったものは端に寄せてある。貴様が混ぜれば、きっと二度と戻せないからな。人間側の動きは薄い束。リューネ殿の分は別にしてある」
リューネが少しだけ目を瞬かせた。
「私の分も?」
「昨日の外縁治療室で包帯が足りなかったと聞きました。薬草と布の搬入が噛み合っていません。放っておけば、困るのはリューネ殿です」
そこまで言ってから、カイムは俺を見た。
「この人間では気づかないでしょうから、先に分けてあります」
「……ありがとう」
「任務です」
「何を見ている」
カイムが言った。
だが、カイムの顔は仕事以外の話を受け付ける気配がない。
「いや、何でもない」
「賢明だ。貴様にしては」
カイムは紙を数枚抜き出し、俺の前に置いた。
「まず、ここだ。北側巡回。報告は毎回『異常なし』で揃っている。補給も、数字だけなら合っている。普通に読むなら終わりだ」
「普通に読むなら?」
「ヴェラ様は、貴様に普通を求めていない。普通を求めるのは酷だからな」
俺は紙を覗き込んだ。
北側巡回。到着時刻。帰着時刻。人数。異常なし。備品異常なし。見張り小屋異常なし。
並びは綺麗だった。
綺麗すぎるくらいに。
「この北側だけ、帰りが少し遅いな」
「北側は道が悪い」
「道が悪いだけなら、もっとぐちゃぐちゃに遅れる。毎回同じくらい遅いなら、同じ場所で引っかかってるんだと思う」
カイムの手が止まった。
ヴェラは何も言わない。
俺は別の紙を手に取った。
「あと、この補給箱。数は合ってる。でも、重さがないぞ」
「数が合えば足りるのではないか」
「食料なら足りない。湿った袋でも数だけなら一袋だ。中身が死んでてもな。薬草も同じだろ。箱があるだけで使えるとは限らない」
リューネが小さく頷いた。
「湿気た薬草は、かなり困る」
「だよな」
「でも、得意にならないで」
リューネの視線が冷たくなる。
生存本能が働いて、俺はすぐ紙に戻った。
カイムは何枚かの記録を手元に引き寄せ、俺が言った箇所を確かめている。細い指が紙の端を押さえ、綺麗な字で小さく印をつけた。
「……貴様、本当に荷物持ちだったのか」
「荷物持ちだから見てたんだよ。荷がずれると怒られる。湿った食料を出した時なんて、セレネに一日中燃やすぞって言われた」
「生きてるってことは、燃やされなかったのか」
「俺が必死に乾かしたからな」
「情けないのか有能なのか分からんな」
「俺が分かってないからな」
カイムは少しだけ黙った。
それから、机の端にあった別の束を俺の前へ寄せる。
「なら、これも見ろ。補給小屋ごとの備品表だ。数は揃っているが、重さはない。次から記入欄を増やす」
「いいのか」
「必要だと分かった。ならやれることはやってもらう」
カイムは、もう次の紙へ印をつけていた。
「仕事ができるな、カイム」
「貴様が余計に迷えば、僕の仕事が増える。僕は無駄な仕事が嫌いだ。特に、喋る荷物の世話はな」
顔がよくて、仕事ができて、気が利く。
口を開くたび、刺さる。
これはたぶん、魔族の女性に好かれるか嫌われるか、極端に分かれるやつだ。
いや、怒られるだけで済めばいい方かもしれない。
「アードゥ」
ヴェラの声が落ちた。
「手を止めるな」
「はい」
俺は慌てて紙に向き直った。
見たことは二つ。
北側巡回の遅れと、補給箱の重さの空欄。
気になったことは、「異常なし」が揃いすぎていること。
確かめるべきことは、北側で何が引っかかっているのか。
書いてみると、少しだけ形になった。
これなら、昨日の馬鹿分析よりは仕事らしい。
「ちゃんと仕事になってる」
リューネが小さく言った。
「だろ」
「そこで得意にならないで」
「難しいことを言う」
カイムが俺の紙を覗き込み、少しだけ眉を動かした。
「貴様の字は、読む者への攻撃か?」
「そこは昨日も別方面から刺された」
「だが、分け方は悪くない。濁った目でも、荷の乱れは見えるらしい。外縁も末期だな」
言い方が少しヴェラに似ている。
師弟か何かなのだろうか。
聞くと怖そうなので、やめた。
紙束を一つ片づけたところで、俺は息を吐いた。まだ半分も終わっていない。
「これを毎日見てるのか」
「必要ならな。外縁は、昨日と同じ顔をしていても同じとは限らない」
カイムは当然のように言い、すぐ次の紙を抜いた。
「こっちは日付が一日ずれている。貴様は気づいたか」
気づいていない。
顔に出たらしい。
「だろうな。安心しろ、期待して聞いたわけではない」
容赦がない。
カイムは俺がつけた印の横に、別の印を小さく加えていく。俺が気にした備品表の穴は、リューネが治療室側から補った。ヴェラはほとんど口を出さない。ただ、時折こちらを見て、紙の一枚を抜き、別の束へ置く。
それだけで、何かを試されている気がした。
昼前には、最初の分だけ形になった。
見たこと。
気になったこと。
確かめるべきこと。
たった三つに分けただけなのに、ぐちゃぐちゃだった外縁報告が、少しだけ道の形に見えた。
道なら、運べる。
たぶん。
「今日はここまでだ」
ヴェラが言った。
「アードゥ、午後は北側巡回路を見る。リューネ、同行しろ。カイム、お前もだ」
「承知しました」
カイムは即答した。
俺は少し遅れて頷く。
「俺もですか」
「お前が書いた『確かめるべきこと』だ。自分の足で確かめろ」
もっともだった。
ただ、紙の上で気にしたことが、すぐ足で確かめる話になるとは思わなかった。
荷物持ち時代も、道は紙だけでは済まなかった。
どうやら、ここでも同じらしい。
執務室を出る時、カイムが俺の横に並んだ。
背は俺より少し低い。横顔だけなら、やはり少女に見えなくもない。
だが、足取りに迷いはなかった。
「アードゥ。貴様は馬鹿だな」
知っている、と返そうとしたところで、カイムは続けた。
「だが、荷の乱れを見る目だけは、多少ましらしい。普通の記録係なら見落とす。もっとも、普通の記録係は女の肩や尻に気を取られないが」
「最後で刺すな」
リューネは横で、もう諦めた顔をしていた。
外縁報告を読む仕事ができた。
ついでに、顔の良い口の悪い案内役もできた。
男だった。
そこは問題ではない。
たぶん。




