24話 馬鹿の理由
夜の城は静かだった。
灯りが落ちると、石造りの廊下は急に広くなる。窓の外から差し込む月明かりは冷たく、壁に掛けられた燭台の火はその青白さに負けて、どこか頼りない色をしていた。
俺はそんな廊下を、薄い木板を抱えて歩いていた。
外縁の見張りから上がってきた簡易報告だ。今夜のうちにヴェラへ渡しておけ、と兵に頼まれた。断る理由もない。どうせ部屋に戻っても、机の上の紙とにらみ合うだけだった。
――お前は、誰として何を語る。
魔王様にそう問われてから、頭の中が妙に落ち着かない。
紙の上には、途中で止まった文ばかりが残っている。荷物なら、持てるか持てないかで分かる。言葉は、その辺りが面倒だった。
ヴェラの執務室の前まで来ると、扉はわずかに開いていた。
灯りはまだついている。中から紙をめくる音はしない。代わりに、夜風が細く抜ける音だけが聞こえてきた。
「ヴェラさん。報告を――」
声をかけながら扉を押し開け、そこで足が止まった。
高い窓が開いていた。
月はちょうど真正面にあって、その白い光が石の床を斜めに切り、部屋の半分だけを静かに照らしている。机の上には書類が積まれ、インク壺と封蝋、地図と連絡札が乱れなく並んでいた。
その奥、窓辺に立っていたのがヴェラだった。
黒い外套は椅子の背に掛けられている。
仮面はいつものままだったが、立ち方が違った。片手で窓枠に触れ、もう片方の手でこめかみを押さえ、夜風に黒髪を揺らされながら、ただ月を見ていた。
疲れているのだと、すぐに分かった。
普段なら、声をかける前に背筋が伸びる。
今夜は、少し違った。
月明かりに照らされた横顔は白く、長い睫毛の影が頬へ落ちている。外套のない肩は思ったより細く、首筋は冷たい光を吸っているみたいに淡かった。
疲れた美人って、いいよな。
そんな感想が浮かんだ時点で、たぶん俺の負けだった。
「……見たなら入れ」
低い声が落ちてきて、俺は慌てて背筋を伸ばした。
「し、失礼します。外縁から報告です」
木板を差し出すと、ヴェラはゆっくりこちらを振り向いた。片目を隠す仮面も、冷えた視線も、そこから先はちゃんといつものヴェラだ。ただ、少しだけ目の下に影が落ちている。
それすら綺麗だと思ってしまう辺り、俺の頭はだいぶ駄目だった。
ヴェラは木板を受け取り、軽く目を通した。
「北側の見張りに異常なし。巡回も予定通りか。……それだけだな」
「はい。俺もそれを届けたら戻るつもりでした」
「なら、まだ何故そこに立っている」
もっともだった。
だが、足がすぐには動かなかった。何か言い訳を探そうとして、結局何も出てこない。月明かりの下のヴェラは、報告へ目を落としたままだった。
「……アードゥ」
ヴェラの声が少しだけ低くなった。
「はい」
「馬鹿の癖に、真面目に考えているな」
思わず、息が止まった。
ヴェラは木板を机に置くと、疲れたように息を吐いた。
「せいぜい、ましな結果になるように励め」
「……はい」
返事はした。
頭の中で、さっきの言葉だけが転がっていた。
馬鹿の癖に。真面目に考えている。
罵倒のはずなのに、うまく刺さらない。
「……何を固まっている」
「いえ。戻ります」
「なら戻れ」
ようやく足が動いた。
扉の方へ向かいながら、それでも最後に一度だけ振り返ってしまう。窓辺に戻ったヴェラは、もうこちらを見ていなかった。
怖い人だ。
怖い人のはずだった。
部屋へ戻るまで、俺はさっきの声をずっと引きずっていた。
机に向かうと、紙を一枚引き寄せる。
筆を取って、一番上に大きく書く。
何故、俺は馬鹿なのか。
書いた瞬間、ひどい題だと思った。
けれど、しっくりも来た。
少し考え、次の行にこう続ける。
一、魅力的な女を見ると、議題が消し飛ぶ。
外縁の畑。魔王様。セレネ。リューネ。ヴェラ。
思い当たる顔が多すぎた。
「……何を書いてるの?」
背後から声がして、俺は肩を跳ねさせた。振り向くと、リューネが扉にもたれてこちらを見ていた。寝る前だったらしく杖は持っていないが、目つきはちゃんと辛辣だった。
「自分のことを考えてる」
「なんで魔王様にああ言われて、これが出来上がるの。馬鹿なの?」
「その馬鹿を分析してるんだ」
リューネは呆れたように近づき、紙を覗き込む。そして一行目を読んだところで、目を閉じた。
「始まりと着地がおかしい。なんでそうなるの」
なるほど、と思った。
俺は素直に次の行へ書き足す。
二、考え始めと着地のあいだで、何かがおかしくなる。
「書くな」
「いや、重要だろ。今のはかなり核心に触れてる」
「不名誉な核心なこと理解してる?」
口調は冷たいのに、リューネはそのまま紙から目を離さなかった。なら続きを読ませてもいい気がして、俺はさらに書く。
三、見なくていいものまで見てしまう。だが、役に立つ時もある。
「それは、まあ、そう」
リューネはそこで一度だけ頷いた。
「でも、手紙の匂いを嗅ぐのはない」
「役に立っただろ」
「ない」
俺は筆先を止めた。
「……でも、全部駄目ってわけでもないんだよな」
独り言みたいに漏れた言葉へ、リューネが少しだけ首を傾げた。
「見えるものは見える。なら、使える時もある」
リューネは少しだけ眉を寄せたが、すぐには否定しなかった。代わりに、紙の三つ目を指で叩く。
「言い方は最悪だけど、そこなんじゃないの」
三、見なくていいものまで見てしまう。だが、役に立つ時もある。
そこから先に、何か書けそうな気はした。
筆先を置こうとして、部屋の入り口に立つ影に気づいた。
黒い外套。片目の仮面。低い沈黙。
ヴェラだった。
「……くだらん」
ヴェラはそう言って、机の上の紙を取った。
破られはしなかった。
それだけで少し怖い。
「一と二は捨てろ」
「え」
「残すなら三だ」
細い指が、さっきリューネの叩いた行を押さえる。
「見なくていいものまで見る。貴様の厄介なところだ。だが、外縁の巡回には向く」
急に話が仕事になって、頭が一歩遅れる。
「補給の遅れ、伝令の足跡、報告に混じる小さな嘘。そういうものを拾え」
「俺がですか」
「他に誰の馬鹿について書いている」
返す言葉がなかった。
ヴェラは紙を机へ戻した。
「明日までに、外縁の報告を同じ形で分けろ。見たこと、気になったこと、確かめるべきこと。それでいい」
「褒められてますか」
「仕事を増やしている」
確かにそうだった。
だが、なぜか少しだけ笑いそうになった。
ヴェラは扉の方へ向かいかけて、それから足を止める。
「それと、さっき見たものは忘れろ」
心臓が跳ねた。
月明かり。外套のない肩。疲れの滲んだ横顔。綺麗だと思ったことまで、全部見抜かれている。
「努力します」
「努力では足りん。消せ」
無茶を言う。
ヴェラはそれ以上何も言わず、外套の裾を翻して部屋を出ていった。
残された静けさの中で、リューネが深いため息をつく。
「ほんとに馬鹿だね」
「知ってる」
「満足するな」
「してない。ただ、少しだけ分かった気がする」
紙の上には、まだ墨が乾ききっていない文字が並んでいる。
何故、俺は馬鹿なのか。
俺は新しい紙を引き寄せた。
今度は少しだけ題をまともにする。
外縁の巡回遅延と補給動線の乱れについて
人間側の行動傾向の観察
リューネが横からそれを見て、少しだけ目を丸くする。
「ちゃんと仕事の題になった。……でも、一枚目はしまって。目に毒」
出発点なんだが、と言うと、呆れた顔をされた。
それでも俺は、一枚目の紙を捨てなかった。
魔王様の問いに、答えが出たわけじゃない。
ただ、馬鹿にも種類があるらしい。
そこまでは分かった。
月明かりはまだ窓の外で白かった。
あの窓辺に立っていた疲れた美人の横顔を思い出しそうになって、俺は慌てて筆先を紙へ落とす。
考えるべきことは山ほどある。
だが、それでも思う。
疲れた美人って、やっぱりいいよな。
「顔に出てる」
リューネの声が飛んできて、俺は咳払いで誤魔化した。




