23話 返ってきた最低
「……最低」
リューネがそう読んだ瞬間、玉座の間の空気が少しだけ止まった。
俺は、そっと紙から目を逸らす。
「本人だ」
「まだ二行目だけど」
「十分だと思う」
「読む」
リューネは許してくれなかった。
返書は、俺が送った手紙よりもずっと短い。その短さの中に、セレネの声だけが鋭く詰まっている。
「字が汚い」
「そこまで言うか」
「事実なんじゃないの」
「否定はしづらい」
リューネの目が、また紙へ戻る。
「筆圧まで気持ち悪い」
声が止まった。
俺も止まった。
筆圧。
墨ではない。書いた言葉ではない。消したはずの、残った跡。
「……届いてたのか」
思わず漏れた声は、自分でも分かるくらい乾いていた。
リューネが、ゆっくりこちらを見る。
「何が? 余計なことは書いてないはずなのに」
「ああ、書いてはない。ちゃんとリューネが検閲したから」
「じゃあ、何が届いたの」
俺は少しだけ目を逸らした。
「消したはずなのに、消えなかった俺の自己証明かな」
我ながら、少し格好いい言い方だった。
だが、リューネの顔から血の気が引いた。
察したらしい。
「魔王様」
リューネは静かに膝をついた。
「どうか私に、この馬鹿の息の根を止める許可をください。そして私も腹を切ります」
「リューネが腹を切る必要はない。俺のせいだ」
ここは、俺が腹を切ると言うべきなのだろう。
だが、隣のヴェラの、すべてを察したような表情を見て踏みとどまった。たぶん、言ったら本当にそうなる。少なくとも、ヴェラは止めない。
「リューネよ」
魔王様が静かに言った。
「お前はまだ、この馬鹿の底を甘く見ていたな」
「はい。私の力不足です」
リューネは本気で悔しそうだった。
あんなに頑張ったのだ。そりゃ悔しいか。
「貴様」
ヴェラの視線が突き刺さる。
「原因が誰なのか理解しているのか?」
「もちろん俺です。俺ですが、流石に俺も、まさか筆圧で届くとは思っていませんでした」
「黙れ。余計に悪い」
正論だった。
リューネはしばらく紙を握りしめていたが、破らなかった。
破らず、続きを読んだ。
「お前はある意味すげえよ」
そこでリューネは眉を寄せる。
「褒められてる?」
「違う。たぶん、かなり馬鹿にされてる」
「こんな馬鹿はお前しかいない」
「やっぱり本人だ」
「嬉しそうにしないで」
「嬉しいというか、セレネがちゃんと読んだ」
「怒られてるよ」
「読まれてる」
リューネは、可哀そうなものを見る目をした。
リューネは最後の行へ視線を落とした。
「燃やす前には読んだ」
声が、少しだけ変わった。
「まだ燃やしてない」
今度は、誰もすぐには喋らなかった。
「……燃やしてないのか」
自分の声が、思ったより小さかった。
燃やす前には読む。
そこまでは期待していた。
けれど、その先で止まっている。
「届けたい相手には届いたか?」
魔王様が言った。
俺は顔を上げる。
「はい。届きました。確かに」
「ならば、ようやく貴様の示した道が開かれたのであろう?」
あの夜、魔王様に示した道。
人間に魔族を見せる。知らないまま斬らせない。
そう言葉にした時は、あまりにも頼りなかった。
けれど今、その先に細い道ができている。
セレネの機嫌ひとつで燃えてなくなるような、細くて頼りない道だ。
罠にも、刃にもなる。
それでも、繋がった。
「よい結果とは言わぬ。向こうがどう扱うかも分からぬ。だが、道は開いた」
「はい」
リューネが返書を見つめたまま、小さく言った。
「その人、私が治したことも読んだんだよね」
「ああ」
「怒ってた?」
「たぶん、怒ってる」
「そう」
リューネは少しだけ紙を見る。
「でも、燃やしてないんだ」
「浮かれるな」
ヴェラの声が落ちた。
「返書には確認の印があった。こちらが開封したことは、向こうへ伝わった可能性がある」
「はい」
「道ができたということは、向こうからもこちらが見えるということだ」
「次の紙は、罠にもなる。文字は剣より遠くへ届く。届いたものが、そのまま味方になるとは限らん」
それは、畑で知った。
「返事を」
俺は言いかけた。
魔王様が、静かに遮る。
「焦るな」
その一言で、俺は口を閉じた。
「言葉は、空いた場所を埋めるために投げるものではない」
魔王様の声は低かった。
「一度放てば、剣より遠くへ届き、火より長く残る。貴様はそれを、畑で見たはずだ」
「……はい」
「ならば、何でもすぐに答えが出るなどと思い上がるな」
魔王様は、返書から俺へ視線を戻した。
「アードゥ。貴様は、私が腹を切れと言えば切るか?」
「はい。魔王様のためなら」
答えは、すぐに出た。
出てしまった。
リューネが息を呑み、ヴェラの視線がこちらへ向く。
魔王様は、その即答を褒めなかった。
「では、ヴェラが同じことを言えばどうだ」
ヴェラが一歩前へ出る。
「腹を切れ。アードゥ」
「それはちょっと」
ヴェラの目が細くなった。
「貴様、今の間は何だ」
「いや、魔王様とヴェラさんでは、その、重みというか、意味というか」
「ほう。私の命は軽いと?」
「そういう話ではなく」
逃げ道が消えた。
魔王様はそこで、ようやく口を開く。
「そうだ。言葉とは、同じ形をしていても、誰が語るかで意味が変わる」
玉座の間が静かになる。
「私が命じれば忠誠に聞こえる。ヴェラが命じれば処刑に聞こえる。セレネが書けば罵倒になり、貴様が書けば、馬鹿な筆圧まで届く」
「最後の例は必要でしたか」
「必要だ」
魔王様の紫の目が、こちらを見る。
「だから考えろ。貴様は、誰として、何を語るのか」
返事ができなかった。
「魔王軍の荷物持ちとしてか。元勇者パーティーの仲間としてか。私に拾われた人間としてか。あるいは、そのすべてを抱えた貴様自身としてか」
魔王様は返書へ視線を落とす。
「返事は、それからでも遅くない」
俺は、もう一度返書を見た。
最低。
馬鹿。
まだ燃やしてない。
ひどい返書だった。
それでも、読まれていた。
「……でも、次に何を書けばいいのか、今は分かりません」
返事を書きたい。
けれど、読まれたからといって正しかったわけではない。燃やされていないからといって、許されたわけでもない。
返したい言葉はいくらでも浮かぶ。
けれど、どれも今返すには軽かった。
「分からないまま書いたら、また何か燃えます」
「そうだな」
魔王様は、少しだけ口元を緩めた。
「少しは学んだか」
「たぶん、少しだけ」
「少しでよい。馬鹿が一度に賢くなることはない」
「あまり馬鹿馬鹿と言われると、さすがに堪えますね」
魔王様は、ほんのわずかに口元を緩めた。
「ほう。馬鹿な子ほど可愛い、とも言うぞ?」
心臓が止まるかと思った。
いや、少し止まったかもしれない。
「……俺はいま、褒められましたか?」
「調子に乗るな。可愛いとは言ったが、賢いとは言っておらぬ」
「充分です」
「満足するな」
リューネが低く言った。
リューネが返書を折り直す。
破りはしなかった。
ヴェラも燃やせとは言わなかった。
魔王様も、処分を命じなかった。
返書は、燃やされなかった。
最低も、馬鹿も、まだ燃やしてないという一文も。
全部、荷になった。
俺はそれを封筒に戻し、机の端へ置いた。
軽い紙だった。
けれど、まだ誰として運ぶのか分からない重さだった。




