22話 ここまで馬鹿だとは流石に聞いてない
火油の匂いは、まだ詰所の隅に残っていた。
空になった壺は木箱に集められ、泥のついた革鎧が壁際に掛けられている。火傷を負った兵は治療室の奥で眠らされていたが、あの足に巻かれていた魔族側の包帯と、震えながら治したという回復役の話は、まだ詰所の空気から消えていなかった。
セレネは焚き火の近くで腕を組んでいた。
火は小さく、乾いた薪をゆっくり舐めている。懐には、アードゥからの手紙があった。
あとで燃やす。
そう言ったまま、まだ燃えていない。
「セレネ様」
見張りの兵が、少し急いだ足取りで入ってきた。その手には封筒がある。
「魔族側から、紙が」
「また?」
自分でも嫌になるくらい、声が低くなった。
兵は肩をすくませた。封筒を持つ手にも、少し力が入っている。
セレネは封筒を受け取った。表には、見覚えのある字で名前が書かれている。
セレネへ。
綺麗ではない。丁寧でもない。けれど、間違えようがなかった。荷物の数を書きつける時も、食料袋の残りを数える時も、あいつの字はこうだった。
「……また、あいつの字」
横からレイネが封を見る。
「開ける前に確認します」
「燃える?」
「燃えないとは限りません。魔族側から来たものです。加えて、アードゥさんです」
「後半、理由になるの?」
「十分に」
セレネは封筒を渡した。
レイネは小さな銀の針を取り出し、封の端に触れさせる。淡い光が一瞬走り、すぐに消えた。次に細い指で紙の厚みを確かめ、折り目を見て、最後に封の上へ小さな印を書き込む。
「開封確認の印を入れておきます。誰が開けたか、こちらで反応を見られるように」
「そこまでやる?」
「やります。向こうも疑うでしょうから」
「まあ、疑うだろうね」
セレネは焚き火を見た。
燃やそうと思えば、すぐ燃やせる。けれど、封を切った。
燃やす前に一回だけ読んでくれ。
そう書いてきた馬鹿がいる。
「言われなくても読むよ。燃やす前にはね」
紙を取り出す。
最初の行から、あいつだった。
セレネへ。
俺は生きている。
たぶん、そっちではかなり面倒なことになっていると思う。
俺は魔族側にいる。
そっちから見れば、裏切ったように見えると思う。
それは、うまく否定できない。
セレネは、そこで少しだけ目を止めた。
言い訳はある。でも、逃げ切るための文ではなかった。
俺は悪くない。俺は裏切っていない。そんな言葉で先に壁を作ってくると思っていた。なのに、紙の上のアードゥは、情けない字で逃げ道を見つけ損ねていた。
「……逃げてないじゃん」
腹が立った。
逃げてくれた方が、怒りやすかった。
セレネは続きを読んだ。
でも、俺は見たものを見なかったことにできなかった。
俺が庇った回復役は生きている。
たぶん、お前も覚えていると思う。
この前、火傷した人間を治したのも、その子だ。
震えてました。
でも、治しました。
火傷の兵の掠れた声が、紙の上に重なる。
あの日、アードゥが飛び出して庇った小柄な魔族の少女。赤紫の目。震えていた肩。
「だから許せって?」
口から出た。
けれど、紙はそんなことを書いていなかった。
畑はあった。
そして、焼けた。
俺の手紙が原因の一つだと思う。
魔族がみんな良いやつだとは書かない。
人間がみんな悪いやつだとも書かない。
ただ、畑を焼けば、食い物が燃える。
それは、どっち側でも同じだ。
セレネは、紙を持つ指に力を込めた。
食い物。
補給地帯でも、資源でも、敵拠点でもなく。
あいつはまた、雑な言葉で、いちばん逃げにくい場所を指してくる。
腹が立つくらい、それが分かる。
信じなくていい。
燃やしてもいい。
でも、燃やす前に一回だけ読んでくれ。
アードゥ・テイカー。
最後まで読んで、セレネはしばらく黙っていた。
焚き火が、ぱちりと小さく鳴る。
燃やすなら、今だ。
紙の端を火へ近づけようとして、手が止まった。
紙の表面に、墨とは違う線が残っている。光に傾けると、薄く浮かんだ。
墨ではない。
筆圧だ。
別の紙に書かれたはずの言葉が、最後の一枚に残っている。
『セレネの尻は魅力的だった。今でも思い出す。』
セレネは、しばらく黙った。
怒りより先に、妙な納得が来た。こんなものを残す馬鹿は、他にいない。
「……お前は、ある意味すげえよ」
レイネが顔を上げる。
「何がですか」
「こんな馬鹿は、お前しかいない」
「何か、残っていたのですか」
「最低な跡があった」
「見せていただいても?」
「見せる価値はない」
レイネは少しだけ考えた。
「では、アードゥさんのものと見てよいのですね」
「こんな馬鹿を偽造できるなら、そいつも相当終わってる」
「なるほど」
「納得しないで」
セレネは紙を折った。
燃やすつもりだった。今でも、燃やす理由はある。魔族側から来た手紙だ。罠かもしれない。
それでも、セレネは紙を火に入れなかった。
レイネが静かに聞く。
「リュシオン様には見せますか」
「本文だけ見せる」
「跡の方は?」
「見せる価値がない」
「判断材料にはなります」
「価値のある最低って何」
レイネはそれ以上、追及しなかった。
セレネは新しい紙を取った。
返事など、書くつもりはなかった。
でも、読んだ。
筆を取る。
文は長くならなかった。
アードゥへ。
読んだ。
最低。
字が汚い。
筆圧まで気持ち悪い。
お前はある意味すげえよ。
こんな馬鹿はお前しかいない。
燃やす前には読んだ。
まだ燃やしてない。
セレネ。
書き終えると、レイネが横から目を通した。
「かなり短いですね」
「長く書くと、あいつが調子に乗る」
「もう乗っているのでは」
「なら、これ以上は乗せない」
レイネは小さく頷き、返書を封筒へ入れた。
「封に印を入れます」
「好きにして。どうせ向こうも疑うでしょ」
「ええ。疑うでしょう」
封の上に、レイネが細い印を刻む。その手つきに迷いはない。
セレネはそれを見てから、近くの兵を呼んだ。
若い兵だった。さっきからずっと、焚き火の向こうでこちらを見ないようにしていた男だ。
「これを境界まで届けて。魔族側に渡す」
兵の顔から血の気が引いた。
「ひ、一人で、ですか」
「戻ってきた前例はある」
「前例があれば怖くないわけではありません」
正直だった。
セレネは少し黙る。
怖いのは当然だ。
「怖いなら、そう言えばいい。でも行けるなら頼む。あいつが読んだか、確認したい」
兵は唇を噛み、封筒を見る。
しばらくして、ぎこちなく頷いた。
「……行きます」
「無理に近づかなくていい。見えるところで止まって、両手を上げて、紙だけ渡す。走るな。追われる」
「はい」
「余計なことは言わない。聞かれたことだけ答えな」
「はい」
兵は封筒を受け取り、何度も頷いてから詰所を出ていった。
外の空気は夕方に傾いている。森は暗く、境界の向こうはもっと暗い。
セレネは出ていく背中を見送った。
懐には、最初の手紙がある。
火は、すぐそばにある。
燃やすのは簡単だ。
けれど、セレネは火を見て、懐の紙を押さえただけだった。
「……最低」
そう言っても、燃えない紙が増えただけだった。




