21話 本人確認
「持っているのは、紙です」
見張りの魔族がそう告げた瞬間、外縁の空気が硬くなった。
三日前、ここではヴェラを騙った人間の密偵が捕らえられている。
今度は紙を持った人間。武装はしているが、剣は抜いていない。両手を見えるように上げ、こちらの呼びかけにも応じているらしい。
だからといって、安全だと考える者は一人もいなかった。
ヴェラは報告を聞き終えると、黒い外套の裾をわずかに揺らした。
「近づけるな。こちらから見る」
その声だけで、見張りたちの動きが変わる。リューネは杖を抱え直し、俺も背負っていた荷を下ろしかけて、やめた。何となく、今は手から離すのが嫌だった。
境界近くの木立の前に、人間の兵が立っていた。
若い男だ。革鎧に短剣。腰には剣があるが、鞘に収まっている。両手を上げているのに指先だけが震えていて、片手に握った封筒の端が、かすかに揺れていた。
顔色は悪い。ただ悪いだけではない。もう少し強く声をかければ、その場に座り込みそうな顔だった。
「きょ、境界詰所より、返書を、預かって……」
声が裏返る。兵は途中で息を飲み、こちらではなく足元へ視線を落とした。
ヴェラの手が剣の柄に近づいた瞬間、兵の肩が跳ねた。封筒を持つ手が大きく揺れ、紙がかさりと鳴る。
まずい。このままだと、話どころか封筒を落とす。
「ちょっと待ってください」
俺は一歩だけ前へ出た。すぐにヴェラの視線が刺さる。
「何だ」
「このままだと、あいつ何も喋れません。俺が聞きます」
「貴様が?」
「一応、人間なので」
ヴェラは、ほんの一瞬だけ黙った。
「変態でも、人間というだけで役に立つこともあるのだな」
「別に俺だって、女の子だけに優しいわけじゃないです。こんなにビビってたら話もできませんし」
「ついに変態であることは否定しなくなった」
リューネが、可哀そうなものを見る目をした。なんだろう。少し興奮する。
「その顔をやめて」
言葉で刺された。
俺は咳払いで誤魔化し、兵の方へ向き直る。
「大丈夫だ。たぶん今すぐ殺されはしない。封筒を落とさず、聞かれたことだけ答えろ」
「た、たぶん?」
「絶対と言うと嘘になる」
兵は泣きそうな顔になったが、さっきよりは呼吸が戻っていた。
「どこから来た」
「きょ、境界詰所です」
「誰から預かった」
「セレネ様から、と。レイネ様に、封を確認していただいて……その、返書だと」
その名前を聞いた瞬間、封筒が急に重く見えた。
セレネ。
名前だけで、頭の奥が昔の焚き火へ戻りかける。濃紺のローブ。低めの声。杖の石突が、俺の足の甲を正確に踏む感触。
見るなら私にしときな。
続けたら燃やすよ。
懐かしい。かなり怖い。けれど、名前だけなら誰でも言える。
ヴェラの声は冷たかった。
「名を言えば信じると思ったか」
兵の顔がさらに青くなる。
「い、いえ。そう預かりました。封は開けていません。本当に、渡せと、それだけで……」
言葉が途中で崩れかけたので、俺は片手を少し上げた。
「大丈夫だ。聞かれたことだけでいい」
兵は何度も頷いた。
リューネが俺を見る。
「セレネって、あなたが手紙を出した人だよね」
「ああ。でも、本当にセレネからかは分からない」
言いながら、遠くの封筒を見る。字までは分からない。ただ、紙そのものが妙に気になった。
「貸してください」
俺が言うと、ヴェラの目がこちらへ向いた。
「何をする」
「本人確認です」
リューネの顔に、分かりやすい嫌な予感が浮かんだ。
「また?」
「今回はちゃんと仕事するつもりなんだけど」
「今まで何度も騙された。簡単には信用しない」
悔しいが否定できない。しかし、今は必要だ。
ヴェラは少しの間、俺を見ていたが、やがて見張りへ目で合図した。封筒は地面に置かれ、兵は三歩下がる。リューネが先に近づき、封筒の周りに杖をかざした。
「強い毒はないと思う。開いた瞬間に燃える術式も、たぶんない。でも、弱い印がある」
「印?」
「封を開いた相手を確認するためのもの。反応が向こうへ返るかもしれない」
「レイネだな」
思わず口に出た。
リューネがこちらを見る。
「分かるの?」
「セレネはそこまで細かいことをしない。燃やすか、燃やさないかだ。レイネは、返事が誰に届いたかを知りたがる」
「元仲間、面倒な人ばかりだね」
「俺は比較的分かりやすい方だ」
リューネは何も言わなかった。沈黙が重い。
ヴェラは封筒を拾い、俺へ差し出した。
「開けるな」
「分かっています」
「破るな。燃やすな。舐めるな」
「最後のやつは予定にありません」
「貴様なら可能性がある」
ひどい信用だった。
俺は封筒を両手で持つ。紙質、湿り、端に残った土の粉。人間側の詰所で扱われた紙だ。魔王軍の紙とは違い、少し薄く、繊維が荒い。王都周辺の安い帳簿紙に近い。
それから、顔へ近づけた。
匂いを嗅いだ。
「なに、してるの?」
リューネの声が低くなる。
「本人確認」
「それ、本人確認って言い張れるの?」
ヴェラの目も変わった。警戒ではない。虫けらを見る目だった。
「貴様、犬か」
「荷物持ちは荷の匂いも見ます」
「犬なら可愛げがあるのにね」
リューネが静かに言った。
「俺が可愛くないってことか?」
久しぶりに、リューネからゴミを見るような目を向けられた。これはこれで悪くない。
「その顔をやめて」
リューネは一歩下がると、自分の袖を少し嗅いだ。それから胸元のあたりを確かめ、さらに一歩下がる。
「近寄らないで」
「まだ何もしてない」
「今後もしないで」
ヴェラも近づかない。いや、近づかないどころではない。普通に剣を抜いた。
細い音が、外縁の空気を裂く。
「それ以上こちらへ近づけば、その鼻を切り落とす」
本気だ。
「確認作業中なんですが」
「鼻がなくても確認できる方法を覚えろ」
無茶を言う。だが、ヴェラの剣先は冗談ではなかった。
俺はその場から動かず、もう一度だけ封筒の匂いを確かめる。
焚き火の匂い。湿った薪の煙。革鎧に移った焦げた匂い。人間側の詰所の匂いだ。
勇者パーティーで野営は山ほどした。雨のあとの薪は、乾いた薪より煙が重い。人間側の詰所では、魔物避けに少し油を混ぜて燃やすこともある。
その奥に、ほんの微かな別の匂いがあった。苦い花。甘すぎない香。炎の匂いに混じると分かりにくい。けれど、知っていれば拾える。
「セレネの香水の匂いがする」
リューネの顔が固まった。
「……香水?」
「かなり薄い。手紙そのものというより、近くに置いてあったか、本人が触ったかだと思う。焚き火の煙に負けかけてるけど、残ってる」
「あなた、元仲間の香水の匂いまで覚えてるの?」
「何度も踏まれたからな。足元にいると、わりと覚える」
「気持ち悪い」
「今回ばかりは否定しづらい」
ヴェラは剣を抜いたまま、俺を見ている。
「貴様は、本当にそういうところだけは働くな」
「ありがとうございます」
「礼ではない。嫌悪だ」
分かっている。だが、当たっているなら仕方ない。
俺は封筒をヴェラへ戻した。
「完全に本人の手紙とは言えません。でも、人間側の詰所を経由して、セレネの近くを通った紙ではあると思います。レイネも関わっている可能性が高い。少なくとも、そのへんを知らない人間が適当に作った偽物ではなさそうです」
ヴェラは封筒を受け取る。
「不快だが、筋は通っている」
「褒められてます?」
「不快だと言った」
ヴェラは人間の伝令へ視線を戻す。兵は、俺たちのやり取りに完全についてこられていない顔をしていた。正しい反応だと思う。
「その印は誰がつけた」
「境界詰所のレイネ様です。セレネ様が封をしたあと、検査と印をつけたと聞いています」
やはりレイネだ。
「伝令はどうしますか」
見張りの魔族が聞く。
ヴェラは答えなかった。紙だけ受け取り、伝令を拘束することもできる。帰せば、人間側へ情報が戻る。
俺は口を開いた。
「返した方がいいです」
ヴェラの視線が刺さる。
「貴様は、人間を帰す話になると本当によく喋るな」
「荷を届けた伝令です。届けた相手が戻らなければ、次から紙は来ません」
「次が必要だと?」
「分かりません。でも、次が必要になった時、道が潰れていると困ります」
ヴェラはしばらく俺を見た。剣はまだ抜かれたままだ。鼻ではなく首の危険を感じる。
「荷物持ちは、荷を届けた相手まで壊す仕事ではないので」
言ってから、少しだけ黙った。言いすぎたかもしれない。しかし、ヴェラは斬らなかった。
「目隠しをして境界まで戻せ。道は変えろ。接触した者は記録しろ」
見張りの魔族が頷く。伝令の肩から、はっきり力が抜けた。俺も少しだけ息を吐く。
「礼を言うなよ」
ヴェラが俺を見ずに言った。
「まだ言ってません」
「顔が言っている」
封筒は、開けないまま魔王城へ運ばれることになった。
俺宛てかもしれない。かなり開けたい。セレネが本当に読んだのか、何と書いたのか、ものすごく知りたい。
だが、俺は封筒に手を伸ばさなかった。
「開けないの?」
リューネが聞いた。
「開けたい。かなり開けたい。でも、俺宛てだとしても、今は俺だけの荷じゃない」
リューネは少しだけ目を丸くした。
「珍しくまとも」
「珍しくは余計だ」
「でも、さっき匂いを嗅いでた」
「まともさと匂いは両立する」
「しないと思う」
厳しい。
でも、封筒は開けなかった。
玉座の間へ戻ると、魔王様はすぐに報告を聞いた。
ヴェラは、偽ヴェラの件から順に報告した。人間側の密偵、境界から来た伝令、セレネ名義の返書、毒と術式の確認、レイネらしき確認印。
そして、俺が匂いを嗅いだこと。
ヴェラはそこも省かなかった。省いてほしかった。
魔王様は、少しだけ黙った。
「匂いを嗅いだのか」
「はい」
「……そうか」
その間が、少し痛い。
リューネは横で目を逸らしている。ヴェラはまだ虫けらを見る目だ。
「不快ではあるが、荷を確かめる感覚はあるようだな」
「鼻です」
「黙れ」
王の命令だった。
俺は黙った。
魔王様は封筒を見る。
「急いて開けなかったことは、よい判断だ」
その一言で、胸の奥が少しだけ熱くなった。
ほんの少しだけだ。
リューネとヴェラの目は、まだかなり冷たい。
「開けるぞ」
魔王様が言う。
封の確認印は、リューネが慎重にほどいた。
封筒が開かれ、中の紙が出てくる。そこにあった字は、俺の字ではない。けれど、見覚えがあった。強くて、少し雑で、こちらを殴るような筆跡。
最初の行には、こう書かれていた。
アードゥへ。
息が止まった。
セレネの字だ。間違いない。
俺がそう言う前に、リューネが次の行を読んだ。
「……最低」
俺は、そっと紙から目を逸らした。
「本人だ」




