20話 ガキの使い
半刻寝た。
回復したとは言っていない。
外縁へ向かう道を歩きながら、俺は背負った荷を何度か持ち直した。包帯、火傷薬、連絡札、魔物避けの鈴、保存食。勇者パーティー時代の遠征荷物に比べれば、重さだけなら大したことはないはずなのに、肩にかかる感覚はやけに重かった。
たぶん、体がまだ机に突っ伏したままなのだ。
「起きて」
隣を歩くリューネが言った。
「起きてる」
「歩きながら寝てる」
「眠ってても荷物は運べるんだ。それだけは自信がある」
「なにそのしょぼい能力」
言い返したかったが、特に言い返す材料はなかった。
リューネも眠そうだった。いつもの外套で杖を抱え、歩きながら時々まばたきが遅れる。丸二日、俺の文章と戦った疲れが残っているのだろう。
申し訳ない。
だが、少しだけ可愛い。
言わない。
外縁の見張り台に着くと、角の短い魔族兵がこちらを見た。革鎧に短槍、腰には連絡札を入れる筒。目は眠そうではない。俺たちとは違って、きちんと仕事中の顔だった。
「随分遅かったな。半刻ほど予定より遅い」
「寝てた時間ですね」
「予定は予定だ。遅れたことに変わりはない」
リューネが少しだけ眉を寄せる。
「ヴェラ、予定は調整してくれなかったんだ」
少しむくれていた。
可愛い。
だが、リューネが持っている杖は可愛くない。俺は口に出さず、黙って荷を下ろした。
見張りの魔族は、包帯、火傷薬、連絡札、鈴、保存食を順に確認していく。保存食の袋だけ少し雑に湿った布の近くへ置かれたので、俺は思わず手を伸ばした。
「それ、下に湿った布を置かない方がいいです。保存食に匂いが移る」
見張りがこちらを見る。
「人間のくせに細かいな」
「荷物持ちなので」
「ガキの使いが来ると聞いたが」
「今の肩書きはそれです。あの人、随分気に入ってるんだな、その呼び方」
見張りは鼻で笑ったが、保存食の袋だけは置き直した。
そのまま連絡札を筒へ入れようとして、見張りはふと思い出したように言った。
「それで、配置変更の件はどうなった?」
リューネの手が止まる。
「配置変更?」
「ああ。さっきヴェラ様から聞いた。北側の見張りを一枚下げて、森沿いの巡回を西へ寄せろと」
眠気の残った頭の中で、言葉が一つずつ引っかかった。
ヴェラ様。さっき。北側。配置変更。
言葉だけなら、別に変ではない。けれど、そのヴェラはさっきまで俺たちの部屋にいた。俺を処しましょうと言ったし、予定も調整してくれなかった。あの人が先に外縁へ来ていたとは考えにくい。
「ヴェラ、さっき部屋に居たよね?」
リューネが俺を見る。
「居たな。散々人のことを馬鹿にしたし、予定も変更してないし。どういうことだ?」
見張りの魔族は眉を寄せた。
「見間違えるわけがない。黒外套で、仮面をつけていた。声も低かった」
「仮面まで?」
「片目の仮面だ。外套も黒。背も高い。あれをヴェラ様以外と言われても困る」
リューネは少し考えた。俺も考えた。考えたが、頭はまだ半分寝ている。
だから、口が先に動いた。
「外套は?」
「外套?」
「その外套、怖かったですか」
見張りが黙った。
リューネも黙った。
森の方で、魔物避けの鈴が小さく鳴る。
「……何を聞いている」
「大事なことです。ヴェラさんの外套は、その、怖いんですよ」
リューネの目がこちらを向いた。
「外套ですら怖いの? 病気?」
「寝てないけど、健康だよ。そうじゃなくて、ヴェラさんの外套は怖く見せようとしてないのに怖いんだ」
「何を言ってるの」
「本人は外套を怖く見せようとしてない。勝手に怖い。あの人は立ってるだけで、布の方が先にこちらを斬ってくる感じがする」
リューネは額に手を当て、見張りの魔族も困ったように俺を見た。だが、言葉にしているうちに、俺の中では少しずつ形になっていく。
「さっき来たヴェラさんは、外套を見せに来てませんでしたか」
「見せに?」
「黒外套だぞ、仮面だぞ、怖いだろう、みたいな感じで」
見張りは少しだけ目を細めた。思い出している顔だった。
「……確かに、門の正面から来た。外套を払って、仮面を見せるように立っていたな」
「本物のヴェラさんは、そんなことしない」
リューネがこちらを見る。
「どうして分かるの」
「あの人は本当に隠したいものはちゃんと隠す人だ。仮面の下とか」
リューネの目が少し細くなった。
「仮面の下は見ない方がいい。本当に切られるよ」
「隠されてるものほど見たくなるよな」
「死んだ方がいいかもしれない」
「でも今回は本当にそうだ。ヴェラさんが隠してるはずのものが見えちゃおかしいんだ」
リューネの瞳に、少し複雑な色が浮かぶ。
「ねえ。本当に何を見てるの?」
「勘違いするな。本当に隠したがってるものを無理に覗く気はない。見えちゃうものは仕方ない」
見えているものを見ない、とは言っていない。
リューネは何かを確かめるように、自分の胸元を少し覗き込んだ。
つられて、俺の視線も吸い寄せられる。
「嘘つき」
……罠。
だと?
「今のは違う。動いたものを目で追っただけだ」
「見せたんじゃない。見るか確認しただけ。見ていいとは言ってない」
リューネの杖が、俺の脛に当たった。
痛い。
だが、これは甘んじて受けるべき痛みだった。
いや、本当にそうか。結局何も見えなかったから、殴られ損では。
見張りの魔族は、何を見せられているのか分からない顔をしていた。ただ、リューネはそこで話を切らなかった。
「……でも、言いたいことは分かった。ヴェラは、見せたいものと隠したいものを間違えない」
「そうだ。本人なら、隠す場所を間違えない」
「偽物は?」
「隠しているふりを見せてる。だから、変なんだ」
リューネは少しだけ黙ったあと、見張りの魔族へ向き直った。
「配置変更、止めて。今すぐ」
「だが、ヴェラ様の命令だと」
「本物か確認するまで動かさないで」
見張りは迷った。それでも、リューネは引かなかった。
「連絡札を使って。城へ確認を飛ばして。責任なら、私も持つ」
その言葉で、見張りの顔が少し変わる。
回復役が責任を持つ。
俺が思うより、重い言葉らしい。
見張りは連絡札に爪で印を刻み、鈴のついた柱へ差し込んだ。
ちりん。
風とは違う音がした。
数分もしないうちに、森の奥から物音がした。足音ではない。布が空気を切る音と、低い声。
「私を騙った者がいると聞いたが」
本物だった。
黒い外套、片目の仮面、低い声。ただ立っているだけで、見張りの背筋が一斉に伸びる。
俺は小さく頷いた。
「これだ。この感じ」
「何がだ」
「外套が怖い」
ヴェラの視線が、俺を切った。
比喩ではない。少し切れた気がする。
だが、リューネが小さく息を吐いた。
「本物だね」
「いつの間に、そこまで息が合った」
ヴェラはそう言ったが、否定はしなかった。
見張りの魔族が、先ほどの報告を繰り返す。北側の見張りを下げること。巡回を西へ寄せること。その命令を出した偽ヴェラが、森沿いの細道へ向かったこと。
ヴェラは最後まで聞くと、外套の裾を払った。
「趣味が悪い」
声だけで気温が下がった。
「配置は動かすな。北側を二枚増やせ。西の巡回は今のまま、東へ一人回せ。偽者はまだ近い」
見張りたちが一斉に動く。俺も何か手伝おうとして、荷を抱え直した。
戦力ではない。
邪魔にならないことが、たぶん今できる最善だ。
それから先は早かった。
配置変更が止まったことに気づいたのか、偽ヴェラは森沿いの細道から逃げようとした。だが、外套が揺れた次の瞬間、本物の黒が森の影を抜ける。剣の音は聞こえなかった。見えたのは、偽者の膝が土につくところだけだ。
黒外套を被っていた相手は、人間だった。顔を隠す布が外れ、薄い革鎧と、内側に仕込まれた人間側の紋章が見える。小柄で、動きは悪くない。だが、ヴェラの前では逃げ道のない荷物みたいなものだった。
その密偵が持っていた地図には、北側の見張りが空くはずだった細い線が引かれていた。
ヴェラは地図を一瞥し、俺を見る。
怖い。
だが、今回はいつもの怖さと少し違った。
「不快だが、有用だった」
「褒められてるんですか、それ」
「不快だと言った」
「有用も言いましたよ」
「調子に乗るな」
調子に乗りかけていたので、危なかった。
リューネが横から小さく言う。
「スケベも役に立つことがあるんだね。きもちわるい」
「俺だって複雑なんだ」
ヴェラは捕らえた密偵を部下に引き渡し、畳んだ地図を手にこちらへ戻ってきた。
俺は、さっきから気になっていたことを口にした。
「ヴェラさん」
「何だ」
「本物は、隠す場所を間違えないって言いましたけど」
言いかけて、やめようかと思った。
しかし、もう遅い。ヴェラは見ている。逃げたら、たぶん斬られる。
「……その、仮面の下を見たいとか、そういう意味じゃないです。見えないから、見ない方がいいものなんだろうなと思っただけです」
リューネが少し驚いた顔をした。
ヴェラは何も言わなかった。黒い仮面の向こうの片目が、じっとこちらを見ている。
長い沈黙だった。
外縁の鈴が、風で小さく鳴る。
「なら、今後も見るな。見ようとするな」
ヴェラは視線を外し、森の方を見た。
「だが、見えたものから逃げなかったことだけは、覚えておく」
それだけだった。
俺は頭を下げた。なんとなくそうしたかったから。
「ありがとうございます」
「貴様の礼など要らん。これ以上評価を下げられたくはないだろう」
「上がっていたことに驚いてます」
「残念だったな。今ので地に堕ちた」
分かっただけで、覗く権利はない。
偽ヴェラの一件から、三日が経った。
外縁の警戒は少し厚くなり、北側の見張り台には一人多く兵が立つようになった。森沿いの巡回も、同じ道を続けて歩かないように組み替えられたらしい。
俺はというと、その間も何度か外縁へ荷を運ばされた。包帯、保存食、連絡札、魔物避けの鈴。ガキの使いは、一度で終わる役目ではなかった。
リューネも何度か同行した。
ヴェラは相変わらず予定を調整しなかった。
三日目の夕方、見張りの魔族が駆けてきた。
「ヴェラ様、境界側に人間が一人。武装はありますが、剣は抜いていません。こちらの呼びかけにも応じています」
空気がまた変わった。
リューネが杖を抱え直し、ヴェラの手が剣に近づく。
「偽者ではないのだな」
「少なくとも、隠れてはいません。こちらに見えるよう、両手を上げています」
見張りはそこで一度、俺を見た。
理由は分からない。
ただ、手の中の荷が、急に少し重くなった気がした。
「持っているのは、紙です」




